第三十八話 ニュースになった日
コハルside
朝ごはんのあと、お母さんがわたしの後ろに回って首に細い鎖を掛けた。
「この留め具、ちょっと固いのよね」
かちり、と小さな音がする。強く引っかかったときには外れる留め具なのだと、前にお母さんが教えてくれた。ペンダントを作った人が返事にそう書いてきたらしい。お母さんは指で二回、留め具が閉じたかどうか確かめる。
胸の上に白い花が下がる。長さのちがう七枚の花びらが星みたいに広がっていて、真ん中に小さな粒が六つ集まっている。指でなでると、ふわふわしているわけではないのにふわふわしているような気がする。裏を返すと細い線が小さな円の中をぐるぐる回っていて、真ん中に小さな石が埋まっている。お母さんはこの花びらを苞というのよと言っていたけれど、わたしは花びらと呼んでいる。
オークションでこの花を見つけたとき、コハルにいちばん似合うと思ったの、とお母さんは言う。わたしも、写真で見たときから好きだった。
今日から、迷宮学習が始まる。
五年生になると、一年に何回か迷宮の一層で安全の勉強をする。そのために四月から理科室で魔力の通し方を習ってきた。練習用の石に手のひらを当てて、指の先から何かを流す。地上では石は光らないけれど、先生の機械の針が動けば合格だ。わたしは三回目でやっと針を動かせた。
本当は、ちょっとこわい。わたしはこわいと体が固まってしまう。運動会のリレーでバトンを落としたときも、拾うまでにずいぶんかかった。
「入ったら、まずお花を握るのよ」
お母さんがわたしの前にしゃがんで言う。
「ぎゅっと握って、魔力を通すの。薄いお水をかぶったみたいな感じがしたら、動いてるって。ときどき触って、その感じが続いてるか確かめてね」
「うん」
「外では動かないからね。迷宮の中だけ」
それも作った人の返事に書いてあったらしい。お母さんはゆうべも同じことを二回言って、返事の文を声に出して読んでくれた。肌の上に薄い水をまとったような感じ、という言い方がわたしはなんとなく好きだ。
玄関を出るとき、お母さんは門のところまでついてきた。わたしが角を曲がるまで、ずっと手を振っていた。
見慣れない町が、バスの窓の外を流れていく。
隣の席のモモは、お兄ちゃんが中学の授業で探索者カードを作った話をずっとしている。写真の顔が変だったから、家族みんなで笑ったのだという。わたしはうなずきながら、ブラウスの上からときどき花に触れる。
横浜迷宮の管理棟は、ガラス張りの大きな建物だった。
バスを降りると、大きな剣や盾を背負った大人たちが自動ドアを出たり入ったりしている。壁の電光掲示板では魔石の値段が切り替わり続けている。モモが、あの人の盾かっこいい、とわたしの袖を引っぱる。
わたしたちはまだ自分の探索者カードを持っていないので、学校で配られた見学用の札をゲートにかざす。ぴっ、と軽い音がする。クラスの半分の十五人で列になって石の門をくぐる。入口の階段を下りきると、ひんやりした空気が顔に貼りつく。
湿った石の匂いがする。切り石を積んだ通路にライトが等間隔に並んでいて、壁の模様はたくさんの人になでられてつるつるになっている。
「はい、ここで止まって」
指導員の久保さんが手を挙げた。首から探索者の資格の札を下げた、日に焼けた背の高い女の人だ。担任の森先生は列のいちばん後ろについている。
「お守りの魔道具を持ってる人は、ここで起動してください。理科室で練習したとおりにね。できたら手を挙げて教えて」
わたしは胸の花を手のひらに包んだ。
理科室の石と同じように、指の先から流す。花の裏のほうへ何かが細く吸い込まれていく。それが手のひらの中でくるりと回って、ふっと外へ開いた。
首から肩へ、それから足の先まで薄いものが広がっていく。
冷たくはない。息を止めると、肌の上に水が一枚だけ乗っているのが分かる。
わたしは手を挙げた。
「張りました」
久保さんがこちらへ来て、わたしの胸の花を見下ろす。
「どんな感じ?」
「薄いお水をかぶったみたいな」
「うん、それでいい。帰るまで外さないでね」
久保さんはわたしの肩を軽くたたいて、ほかの子のほうへ行った。手を挙げていたのは、わたしのほかに三人だけだった。
「お守りの膜は、ぶつかったところを守ってくれます。でも、膜があるから大丈夫、とは思わないこと。危ないところには、はじめから近づかない」
みんなの前に戻った久保さんがそう言った。
膜があっても、こわいところへは行かない。わたしはうなずいて、もう一度花に触れた。
「それ、きれい」
モモがわたしの胸をのぞき込む。
「お母さんが買ってくれたの」
モモが指の先でつついて、目を丸くする。
「ほんとだ。ふわふわしてないのに、ふわふわ」
学習区画は、ロープで囲まれた細長い場所だった。天井は思っていたより高くて、ライトの届かない上のほうは暗い。
奥のほうからこんこんと石を叩く音が聞こえてくる。床を直している音らしい。台の上には、いろいろな魔石が並んでいる。小指の先くらいの灰色のものから、手のひらほどの青いものまである。強い魔物の魔石ほど中身が詰まっていて重いのだと、久保さんが教えてくれた。
青い魔石を両手で持たせてもらうと、見た目よりずっと重い。みんなで順番に角ウサギの角の見本も手に取る。思っていたより軽くて、先はとがっている。
「魔物を見つけても、近づかないで大人を呼ぶこと。それから、列から離れないこと」
久保さんの声は石の壁に当たって、ほんの少し響く。魔石の台を見ているあいだも、わたしはときどき花に触れた。薄い水はちゃんと続いている。
いつもの順路は、奥で床を直している最中で通れないのだそうだ。わたしたちは途中で一度だけ、台車の通る道を横切る仮の順路を使うことになった。
横断する場所には黄色いベストの係員さんが立っている。台車の道は奥の補修の場所からゆるい坂になって、ここまで下りてくる。坂の途中には石の袋を積んだ台車が一台止めてあった。車輪の前には木の車止めが挟んである。
「ここは、係員さんの合図で渡ります」
係員さんが手を挙げて台車の道の上と下を見てから、どうぞ、と合図する。久保さんが先頭に立ち、森先生も先に向こう側へ渡って、前の子たちを壁際に並ばせ始めた。
みんなが歩き出したとき、わたしは右の靴ひもがほどけていることに気づいた。
しゃがんで結び直す。迷宮学習の日だからと、お母さんが新しい靴を出してくれたのだ。ひもが固くて、一度目はうまく結べない。
顔を上げると、列はもう台車の道の向こうへ渡りきっていた。モモが振り返って、早く、と口を動かしている。係員さんは、列のいちばん後ろを歩いていた男の子が渡りきったのを見届けたところで、向こう側にしゃがみ込んでいた。水筒を落としたその子に、何か話しかけている。
わたしは一人で台車の道に足を踏み入れた。
坂の上のほうで、ずるりと何かが滑る音がした。
それからごろごろという低い音が近づいてくる。重い車輪が石の床の上を転がる音だ。
「止まって!」
誰かが叫んだ。久保さんの声だったと思う。
横を見ると、石の袋を積んだ台車が坂を下りてくるところだった。取っ手のところには誰もいない。
足が、動かなかった。
逃げなきゃ、と思うのに体のどこにも力が入らない。足の裏が床に貼りついたみたいだった。台車の角がどんどん大きくなる。ライトの白い光が、袋の上で揺れているのだけがはっきり見えた。
どん、と腰に何かがぶつかった。
わたしが何かを思うより先に、腰のまわりの水が急に厚くなった。紅い光の粒が腰のところへぱっと集まるのが見える。痛いというより、大きな手のひらで押されたみたいだった。
それでも台車は止まらない。わたしの体は横へ運ばれて、床の上に投げ出された。とっさについた両手が石の上をざらりと滑る。
台車はすぐ横をごろごろと通り過ぎていった。がしゃん、と大きな音がして、道の先の手すりにぶつかって止まる。袋が一つ床に落ちて、破れた口から白い砂がこぼれた。
「動かないで。そのまま」
久保さんがわたしのそばに膝をついていた。いつの間に来たのか分からなかった。
「どこが痛い?」
声が出ない。久保さんはわたしの目をのぞき込んで、もう一度ゆっくり聞いた。
「…腰と、手」
手のひらを見ると、両方とも赤くすりむけて細かい砂がついていた。じんじんする。腰は鈍く重い。
わたしは片手で胸の花を握った。
さっきまで肌の上にあった薄い水が、もっと薄くなっている。息を止めて、やっと感じられるくらいだ。それでもまだ消えてはいなかった。
「膜、張ってたね」
久保さんがわたしの手の中の花を見て言った。
「当たったところに、紅いのが集まってた。入口で起動してくれてたからだね」
久保さんは、わたしの腕と脚をそっと順番に確かめていく。
「腕も脚も動くね。痛むところは、あとでちゃんと診てもらおう」
森先生が走ってきて、ほかの子たちを手すりから離れたところへ下がらせる。モモは森先生の腕にしがみついて泣いている。係員さんは真っ青な顔で台車の車輪を押さえていて、わたしと目が合うと何度も頭を下げた。坂の上からは管理棟の人たちが何人も駆け下りてくる。
久保さんに支えられて、ゆっくり階段を上った。
一段上がるたびに腰がずきんとする。地上に出ると、窓から入る光がまぶしくて目を細める。管理棟の明るい床を踏んだとき、肌の上の薄い水はもうどこにもなかった。迷宮の外では動かない、とお母さんが言っていたとおりだ。
管理棟の救護室で、看護師さんが手のひらの砂を水で流してくれた。しみて、思わず目をつぶる。腰には手のひらくらいの赤い跡ができていた。
包帯を巻いた両手を膝に載せて、白いベッドの端に座る。ガラスの向こうでは知らない大人たちが早足で行ったり来たりしている。久保さんが、紙コップに水を入れて持ってきてくれた。廊下の向こうからは、森先生がお母さんに電話をかけている声が聞こえる。
わたしは何もできなかった。台車が来るのが見えていたのに、一歩も動けなかった。それでも、わたしより先に花が動いてくれた。
お母さんが来たのは、それから三十分くらいあとだった。
ドアを開けたお母さんはわたしの顔を見て、それから包帯を巻いた手を見た。何も言わずに近づいてきて、わたしの頭を胸に抱え込む。お母さんの心臓がすごく速く鳴っていた。髪がほどけかけていて、ここまで走ってきたのだろう。
「…ちゃんと、握ったのね」
「入ってすぐ、握った」
お母さんの腕に、もっと力が入った。
久保さんはお母さんに頭を下げて、床の補修で仮の順路を使っていたところから順番に話した。坂に止めてあった台車の車止めが湿った床で滑ったこと。横断の係員さんは、最後の子だと思った男の子が渡ったところで全員渡ったと思い込み、気づくのが遅れたこと。言い訳は一つもしなかった。
「管理区画の中で起きたことです。台車の扱いも順路も、すぐに見直します」
それから久保さんはわたしの胸の花に目をやった。
「当たる瞬間、膜が当たったところへ集まっていました。台車の勢いまでは止められませんでしたが、あれがなければ、打ち身では済まなかったかもしれません」
お母さんは、わたしの首から下がった花をそっと手のひらに載せた。どこも欠けていない。七枚の花びらも真ん中の粒も、朝と同じ形をしている。鎖の留め具もかちりと閉じたままだった。
管理棟から行った病院で、先生は骨はどこも折れていないと言った。打ち身は何日かで引くし、手のひらもすぐにふさがるそうだ。
その夜、お母さんはソファでタブレットを開いて、長いあいだ何かを打っていた。画面をたたく小さな音が、静かな部屋に続いている。
「何、書いてるの」
「ペンダントを作ってくださった方に、お礼」
お母さんは画面をこちらへ向けかけて、やめた。少し考えてから、わたしにタブレットを渡す。
「コハルからも、一言書く?」
包帯の手でゆっくり打つ。
お花、守ってくれてありがとうございました。
お母さんはそれを読んで、目の下を指でぬぐった。
お風呂のあと、お母さんが腰に冷たい湿布を貼ってくれる。赤い跡は、紫っぽい色に変わり始めていた。
次の日、わたしは学校を休んだ。
腰はまだ重くて、座るときに痛む。お母さんは、朝から家にいてくれる。お昼前にお母さんの電話が鳴った。ニュースの記者の人からだった。
お母さんは、わたしの名前も学校の名前も出さないでほしいと何度も念を押している。それからペンダントの写真を一枚だけ送ると言った。
「作ってくださった方のお名前は、言わないでおくわ。ご迷惑になるかもしれないから」
電話を切ったあとでお母さんはそう言って、顔が写らないようにわたしの胸の花を一枚だけ撮った。
記者の人には、どんな魔道具なのかとも聞かれたそうだ。お母さんは、説明文に書いてあったことしか話さなかったと言った。強い衝撃を必ず防げるものではない、というところまで。
夕方には記事が出た。お母さんと並んで、画面の文字を一つずつ追う。
『迷宮学習中に運搬台車が衝突、小学生が軽傷』
『横浜迷宮の一層で、迷宮学習中の小学五年生の女子児童に、資材を運ぶ台車が衝突した。児童は腰に打撲を負ったが、身につけていた防御膜の魔道具が衝撃を和らげたとみられる。魔道具は、保護者がネットオークションで購入した個人製作のもの。管理棟は、台車の運用と仮設の順路を見直すとしている。』
記事の下には白い花の写真が載っていた。お母さんが撮った、あの一枚だ。画面の中の花は、胸の上で見るより小さく見える。花びらの細い影がブラウスの上に落ちていた。
夜になって、お母さんがタブレットを見ながら小さく声をあげた。
「…もう、分かっちゃったみたい」
画面には知らない人たちの書き込みがたくさん並んでいる。これはSHINのエーデルワイスだ、と誰かが書いている。出品のときの写真と同じで、花びらの長さが一枚ずつちがうのだと、別の誰かが二枚の写真を並べている。女の子が無事でよかった、と書いている人もいる。作ったのは八十二歳のおじいさんの職人さんだ、と書いている人までいた。
「八十二歳なの?」
「さあ。誰も、本当のことは知らないみたい」
お母さんは名前を一度も言っていない。記者の人にも言わなかった。それなのに写真だけで分かってしまったのだ。オークションの出品の写真は、誰でも見られる。
「SHINさんって、有名な方だったのね」
お母さんは困ったように笑った。
寝る前、お母さんがわたしの首の留め具に手をかけた。
「しばらく、外しておく?」
お母さんは留め具をつまんだまま言う。
「学校に着けていくと、みんなに見られちゃうかもしれないわ」
わたしは花を手のひらに包んだ。
迷宮の入口でしたのと同じように、指の先から流してみる。花の裏へ何かが細く吸い込まれていく。けれど何も開かない。肌の上には水の一枚もない。
地上では、膜は張らない。作った人の返事にもそう書いてあったし、救護室へ上がったときにも確かめた。それは分かっている。
「まだ着けていたい」
部屋の明かりの下で、綿毛の彫りがやわらかく光っている。
お母さんは留め具からそっと指を離した。
「…そうね」
長さのちがう七枚の花びらが、手のひらの中であたたかかった。




