第三十七話 エーデルワイス
梅雨入りを前にした、蒸し暑い晩だった。
作業場の窓を開けても路地から入ってくる風はぬるい。作業台の端では、狐の根付が作業灯の光を鈍く吸っている。脚甲の代金が入った日から、僕はなんとなくこの狐ばかり眺めていた。
去年の秋、二層の通路で角ウサギに右の脛をぶつけられたことがある。
緒締玉に指を添えて歩いていたのに、膜は間に合わなかった。魔力を流し始めてから膜が体を包みきるまでのわずかなあいだに、灰色の毛玉は脛まで来ていた。角が刺さらなかったのは、半分だけ張っていた膜のおかげだ。
身構えていれば、膜は張れる。本当に危ないのは、身構える前の一瞬のほうだ。
引き出しの奥から、去年の十一月の方眼紙を出す。鞠のかがり模様を大きく描き写した紙で、三つ目の菱形のところに消しゴムの跡と新しい線が一本残っている。叩かれたところへ寄ろうとする膜の流れは、回路のせいで全身へ均されていた。それに気づいて引き直した線だ。
けれど根付の回路は、あれからまだ直していない。スイ様の宿った狐に刃を入れるのは、どうしてもためらわれた。
売り物で、寄せる膜を形にしてみたい。身構える前から張っていて、魔力の少ない人でも長く持つ膜だ。誰が着けても邪魔にならない小さな物がいい。
首から下げる物にしよう、と思った。ポケットの根付と違って、首の飾りなら両手がふさがっていても胸の上にある。
形が決まったのは、二日後の昼だった。
店の表は、通りに面した明るい部屋だ。磨き込まれた板張りの床にガラスの陳列棚が二つ並び、壁際の柱時計が遅れぎみに時を刻んでいる。その帳場の端に、見慣れない小さな鉢が置いてあった。灰色がかった緑の細い葉のあいだから、白い星のような花が一つ顔を出している。
「サキさん、これ」
「ああ、エーデルワイス。西洋ウスユキソウともいうのよ。園芸店で見かけて、つい買っちゃった」
サキさんは伝票から顔を上げて、鉢をくるりと回してみせる。日なたが好きな花なのに、暑すぎるのは苦手なのだという。
鉢に挿してある札によれば、星の腕に見えるのは花びらではなく苞という葉らしい。苞は全部で七枚ある。長さはそろっていない。長いのと短いのが不規則に並んでいるせいで、きちんとした星よりずっと柔らかく見える。
どの苞も白い綿毛をかぶっていて、指の先でそっと触れるとフェルトのような手触りがする。真ん中には黄色っぽい小さな粒が身を寄せ合っていて、こちらが本当の花なのだという。
「シンジくん、花が好きねえ」
春にマーガレットの名前を聞いたのを覚えていたらしい。返事に困って、僕はもう一度苞の綿毛を見た。
鉢の向きが変わっても、花の形はどこも崩れて見えない。首から下げた飾りは、歩くたびに向きが変わる。きちんとした星なら、傾いただけで目につくだろう。苞の長さが不ぞろいな花なら、どちらへ回っても、もともとそういう形に見える。
素材は、もう決めていた。
作業台の引き出しに、根付を彫ったときの暴走ボアの牙の端材がしまってある。練習で線を彫ったかけらやスライムの保護材を試し塗りしたかけらに混じって、手を付けていないものが一つあった。親指の先より一回り大きい、乳白色のかけらだ。光にかざすと、細い弧の層が何枚も重なっているのが見える。
方眼紙に、横幅2センチほどの花を描いた。苞は七枚で、サキさんの鉢と同じように長さをわざと不ぞろいにする。いちばん長い苞でも、中心から1センチに届かない。先は細くしても尖らせない。服や髪に引っかかるようでは、首から下げる物にならないからだ。
かけらに下絵を写す前に、層の向きを確かめる。牙は層に沿っては割れやすく、層を横切る向きには強い。七枚の苞のうち、細くて長いものほど層を横切るように向きを決めていく。そうすると花は、かけらの中で斜めに傾いて収まった。
糸鋸で外形を挽くと作業台の上に白い粉がうっすら積もる。骨を削ったときに似た、乾いた匂いがした。苞の裏側は指の腹で厚みを確かめながら薄くしていくけれど、根元だけは削りすぎずに残しておく。首から下げた物は、思わぬところでぶつかるからだ。
難しかったのは、綿毛だった。
フェルトの手触りを出すには、苞の表面に短い毛を何百本も彫らなければならない。練習のかけらで試してみると、深く彫れば毛は立つけれど毛糸の手袋が引っかかる。浅くすると今度は磨いた石のように光ってしまって、綿毛には見えなかった。
三つ目のかけらで彫刻刀を寝かせ、層を一枚ずつなでるように進めると、毛が浅いまま立った。根付の背中に毛並みを彫ったときと同じ手つきだ。毛糸の手袋でこすっても、どこにも引っかからない。仕上げは磨かずに目の細かい砥石で一度だけなでて、つやを消す。
真ん中の小さな花には粒を六つ彫り出した。一つずつ高さを変えて、中心の粒をいちばん高くする。粒の表面には針の先で細かい点を打っていく。綿毛の苞に囲まれると、粒の集まりは本当に花の芯のように見える。
表は、花のためだけに彫った。回路は全部、裏に入れる。
裏は平らに整えてから、肌に当たる面を浅くくぼませる。真ん中には小粒の魔石を一つ埋める。脚甲の代金で、問屋のおじさんから質のそろった物を買った。帳面に魔石の行が一つ増える。
そのまわりの、指先ほどの小さな円の中へ、去年の十一月に引き直した鞠の巡らせ方を写していく。膜を全身に同じ厚さで張らせる線は入れない。叩かれたところへ寄ろうとする流れの、邪魔をしないようにするだけだ。線の上には、根付と同じスライムの保護材を薄く二回だけ重ねる。
起動は一度でいい。迷宮に入ったら花を握って魔力を通す。開いた膜は体に触れているところから細く魔力を受け取り続けて、薄いまま張っている。衝撃が来れば、膜はそこへ寄る。魔力をたくさん使うのは、寄せるときだけだ。
「其方」
彫り終えた裏をルーペでのぞいていると、根付の上にスイ様が座っていた。烏帽子の下の面が、作業台の上の花へ向いている。
「吾の狐と、同じ牙ですね」
「端材です。根付を彫ったときの」
スイ様は長い袖を膝に重ねたまま花の裏の細い線をしばらく眺めていた。
「その膜が切れるとき、着けている方は気づけますか?」
手が止まった。
着けている人の魔力が尽きれば、膜は消える。消えたことに気づかないまま歩いていたら、身構える前の一瞬に、そこにはもう何もない。それでは秋の二層と同じだ。
魔石から膜へつながる口は、一つにまとめて細く絞ることにした。
根付の鞠では、魔力がかがり模様のあちこちから別々に膜へ出ていく。あれでは魔力が足りなくなったとき、細い出口から先に涸れて、膜はそこから破れてしまうだろう。口が一つなら、膜は一枚のまま魔力を受け取る。受け取る量が減っても、一枚のまま全体が薄くなるだけだ。
衝撃が来たときに膜が寄るのは、膜の中で厚みが動くからで、回路が押しやっているわけではない。何も当たっていなければ、膜は水が平らに広がるように、ひとりでに同じ薄さになる。どれだけの厚みを張るかは口で決めて、どこへ寄るかは膜に任せる。それなら、寄ることと全体で薄くなることはぶつからない。
薄くなっていく膜なら、着けている人の肌にも分かるはずだ。
もちろん地上では膜は張らない。工房で確かめられるのは、裏の線を魔力が通るところまでだ。魔石に指を当てて流すと、温もりは小さな円を一巡りして、縁のところでふっと止まる。
いちばん上にくる二枚の苞のあいだ、牙の厚みがいちばんあるところに細い穴を通す。錐は何度も止めて、牙に熱がこもらないようにした。その穴に、じいちゃんが銀の丸カンを付けてくれた。じいちゃんは丸カンの合わせ目を指でなぞってから、黙って帳面に工賃の行を書き足す。数字は今度も、帳場の柱の表と同じだった。
土曜日、二層の小さな広間で試した。
アイカたち四人が、今日もついてきてくれた。柱が四本立っているだけの広間には、ひんやりした空気がたまっている。
「それ、誰の?」
アイカが、僕の首から下がった花をじっと見ていた。
「売り物」
「…そう」
アイカはそれだけ言って、左の耳の上の白い花に一度だけ指を触れた。
ナツメが探索端末を操作して、僕を一時的にパーティーに入れる。画面の帯に四人の名前と並んで僕の名前が出て、その横に僕の魔力の残りが細い帯で表示される。
「最初は待機の膜がどれだけ持つか。次にユズの盾、最後に不意打ち。途中で減り方を見る」
不意打ちの役はマオだ。マオは何も言わずにうなずいた。
花を手のひらに包んで、魔力を通した。
裏の魔石から線をたどって、流れが小さな円の中を巡る。巡りきったところで、ふっと外へ開いた。首から肩へ、胸から足の先へと広がっていく。秋に根付で張った膜より、ずっと薄い。息を止めて意識すると、肌の上に水が一枚あるのが分かる。気を抜けば忘れてしまいそうなくらいだ。
指を離しても、膜はそのまま残っている。
それから一時間、僕は柱にもたれてアイカたちの練習を眺めていた。ナツメはときどき端末に目を落として予定表の裏に何か書き込んでいる。
「三十分で、ほとんど減ってない。一時間で、帯の端がちょっと動いただけ。三灯原くんの魔力でこれなら、たいていの人は困らない」
次は、ユズの盾だった。
「三灯原くん、いくよ」
白い猫のステッカーが貼られた大盾が、僕の右肩を軽く押す。押された瞬間に肩のまわりの水が厚くなって、紅い粒がそこへ集まる。押される力は残っても、肩の一点には何もぶつからない。
「…秋の、紅」
アイカが小さく言った。根付の膜と同じ色だ。
「当たった瞬間だけ減った。それ以外は、さっきと同じ」
ナツメが端末を見ながら言う。二回目、三回目とユズが強さを上げるたびに、帯の端もそのぶんだけ短くなっていく。三回目は、ユズが体ごと押してきた。僕は二歩よろけたけれど、肩はどこも痛まない。
「三回目だけで、待機の一時間の何倍も減った。強く寄せるほど、たくさん使う」
ナツメは予定表の裏に書いたその数字だけ、ペンで丸く囲んだ。
「三灯原くん、全然痛そうな顔しないね」
ユズが盾を下ろして笑った。
最後は、不意打ちの試験だ。
いつ来るのかは聞かないことにして、壁のほうを向いたままナツメと話していた。予定表のことや次の階層のこと。話が途切れかけたところで、背中に何かが触れた。
触れられたと思ったときには、もう背中の水が厚くなっていた。振り返ると、マオが弓の先を引っこめるところだった。足音は一つも聞こえなかった。
「…膜のほうが、先」
マオがぽつりと言った。僕が気づくより先に、膜は寄っていたのだ。ナツメの端末では、帯の端がかすかに短くなっただけだった。
帰りの通路で、角ウサギが出た。
脇の細い通路から灰色の毛玉が飛び出してきて、気づいたときにはもう右の脛にぶつかっていた。ごつ、と押される感じだけがある。脛のまわりの水が一度に厚くなって、紅い粒が散る。角が当たったはずの場所に、痛みはない。跳ね返った角ウサギは、アイカの剣が払った。
秋と同じ通路で、角ウサギがまた同じ右の脛にぶつかってきた。あのときは膜を張るのが間に合わなかった。今日は何もしていない。花を握ってさえいなかった。
道具だけが、秋より前に進んでいる。僕の足は相変わらず遅いし、目はやっぱり毛玉を見落とした。
「…秋と、同じとこ」
アイカが僕の脛を見下ろしていた。
「うん。でも、今日は何もしてない」
アイカは目を細めて、剣を鞘に戻した。
ナツメが端末に目を落として、帯がまた一段減った、と短く言った。
一層へ上がる階段の途中で、肌の上の水が薄くなり始めた。
急に消えたりはしない。一段上がるごとに、水が遠のいていく。息を止めて意識しても、もうほとんど分からないくらいだ。
「三灯原くん、帯がもう残り少ない」
ナツメが端末を見て言った。階段を上りきるころ、膜は消えた。最後の一枚が、肌の上から静かに引いていく。
消える前に、ちゃんと気づけた。これなら着けている人も、膜が消える前に下がって休める。
説明文はまた、じいちゃんと二人で考えた。
じいちゃんは下書きを読みながら、作業台の花を取り上げる。苞の先を指の腹でなぞってから、裏の線を明かりにかざす。最後に丸カンを軽く引っぱった。人に渡す物を確かめるときの手つきだ。
「守る物はね、守れないときのことも書いておくんだよ」
そう言って、僕の下書きの最後に二行を足させた。強い衝撃を必ず防げるものではない、と書くのは怖い。けれど書かずに渡して、守れなかったときのほうが、きっともっと怖い。
『暴走ボアの牙を用いた、エーデルワイスの花をかたどったペンダントトップです。横幅はおよそ2センチで、鎖は付属しません。防御膜の術式を施しています。迷宮の中で一度握って魔力を通すと起動し、身につけているあいだ薄い防御膜を保ちます。衝撃を受けた際は、受けた部分へ膜を寄せて衝撃を和らげます。起動しているあいだは、身につけている方の魔力を少しずつ使います。魔力が少なくなると、膜は少しずつ薄くなってから消えます。強い衝撃を必ず防げるものではありません。迷宮の外では防御膜は働きません。』
出品の写真は、表と裏を一枚ずつ撮った。綿毛の陰が出るように、作業灯を横から低く当てる。裏の写真には、小さな円の中を巡る線と、真ん中の魔石が写っている。
出品する前の晩、スイ様に花を見てもらった。
「…どなたも、来ていませんよ」
スイ様はそれだけ言って、根付の上で袖を重ね直した。それで構わなかった。神様がいなくても、膜は寄る。二層の通路で、もう確かめてある。
入札は、出したその日から集まり始めた。
終了の前の晩にはいくつものIDが値を重ねて、腕輪の落札額をあっさり超えた。防御膜の魔道具は珍しくない。どうしてここまで上がるのか、僕には見当もつかなかった。数字が切り替わるたびに、作業台の上の花が遠くへ行くような気がする。じいちゃんは画面をのぞき込んでから、何も言わずに湯のみを置いた。
どんな人が落とすのだろう、と思った。防御膜の首飾りなら、後ろで杖を構える魔法職か、身軽さが大事な斥候かもしれない。
落札したのは、見覚えのないIDだった。定型の一文のあとに、もう一行書き足してある。
『落札させていただきました。小学校で迷宮学習が始まる娘に、お守りとして持たせたいと思っております。エーデルワイスの形がとても気に入りました。』
娘、という字のところで目が止まった。
小学生が、これを首から下げる。知らない女の子が迷宮の入口で、白い花を手のひらに包むところを思い浮かべた。
僕はもう一度、花を手に取った。苞の先を指でなぞってみても、尖ったところはどこにもない。今度は、毛糸の手袋でこすっても引っかからなかった綿毛を自分の首に当てて動かしてみる。丸カンの合わせ目も、もう一度じいちゃんに見てもらった。
「子供さんかい」
「うん。迷宮学習だって」
じいちゃんはしばらく黙ってから、返信の下書きをのぞき込んだ。
「外では働かないことは、もう一度書いておきなさい。親御さんは、外でも守ってくれると思うかもしれないからね」
『ご連絡ありがとうございます。お嬢さんがお使いになると伺い、あらためて角と留め具を確かめました。迷宮に入ったら、まず一度、花を手のひらで握って魔力を通してください。膜が張ると、肌の上に薄い水をまとったような感じがします。迷宮学習のあいだは、ときどき花に触れて、その感じが続いているか確かめてください。鎖は、強く引っかかったときに外れる留め具のものをお勧めします。迷宮の外では膜は働きませんので、その点だけはご承知おきください。SHIN』
じいちゃんは送信を見届けると、何も言わずに作業場を出ていった。
僕もそのあとで、店の表へ出た。
帳場の端で、サキさんの鉢のエーデルワイスが二つ目の花を開いている。綿毛をかぶった苞は、やっぱり一枚ずつ長さが違っていた。




