第三十四話 瞬発力
始業式の日、新しい教室でもアイカの席は窓際だった。
窓の外では桜が散り始めている。左の手首には編み帯のブレスレット、左の耳の上には白い花がある。僕の作った物が、アイカの左側に二つ並んでいる。花びらの銀の筋が、窓からの光を細く拾っている。春休みのあの土曜日から、学校で見かけるたびに白い花は同じ場所に同じ角度で留まっていた。
授業のあいだ横目で見ていても、アイカは一度もそこへ手をやらない。黒いピンを押し込んでいたころは、一時間に何度も指が上がっていたのに。ときどき目だけを左の耳のほうへ動かすのは、あの小さな人がそこに座っているからだろう。僕には見えない。
落ちていないし、ずれてもいない。それを確かめるたびに、胸のどこかが静かになる。作った物が毎日使われているところは、こんなに近くで見たことがなかった。
昼休みに、ユズがこっちを振り返ってにやりと笑う。見ていたのがばれたらしい。
次に作る物が決まったのは、その週末だった。
アイカたちは管理棟の裏の地上練習場で、次の階層に向けた練習を組み直していた。緑色のフェンスに囲まれた土の広場に、古タイヤを巻いた打ち込み柱が並んでいる。秋に、ブレスレットのずれを見せてもらった場所だ。
「ベンチから見てて。全部見える」
ナツメは予定表を片手にそれだけ言って、柱のほうへ戻っていく。予定表には、次の階層の名前と練習の順番が細い字でびっしり書き込まれていた。
今日僕が見ていたのは、脚だった。
ナツメの「右!」でユズが盾を傾けると、アイカは右へ大きく踏み出す。左の足で地面を蹴って、右の足を盾の外へ投げ出すように運ぶ。剣を振り抜いたあとは右の足を軸にして体を回し、今度はその右で地面を押し返して戻ってくる。
一つの動きの中で、左右の脚がそれぞれの仕事をしている。左は前へ出るための脚で、右は止まって向きを変えるための脚だ。
ユズの脚の使い方はまた別だ。両足を開いて土に沈め、盾が叩かれるたびに半歩ずつ押し下げられながら、それでも踏ん張っている。マオは足音を消すように横へ小さく滑り、ナツメはほとんど動かずに、つま先の向きだけで体を回していた。
「アイカ、右で止まるとき、ちょっと滑る」
休憩に入ると、マオがぼそりと言った。アイカは自分の右足を見下ろして、小さくうなずく。
「分かってる。止まりきる前に、戻りたくなるから」
「三灯原くん、今日は足ばっかり見てるね」
ユズが盾を下ろしながら、こっちを見て笑った。
「うん。足を見に来たから」
「正直だなあ」
ユズは笑って、水筒をあおった。
練習が終わってから土の上に残った跡を見て回る。
アイカの左足の跡は、つま先のところだけが深くえぐれていた。右足の跡は、かかとを中心にして土が扇形にこすれている。蹴った跡と、回った跡だ。扇形の端だけが外へ長く伸びているのは、マオの言っていた滑りだろう。何十回もくり返したのに、跡はどれもほとんど同じ場所に重なっていた。
「…また見てる」
顔を上げると、アイカが水筒を片手に立っていた。左の耳の上で、白い花が日差しを受けている。
「足」
「…足?」
アイカは自分の靴を見下ろして、それから僕を見て、何も言わずに水筒の蓋を閉めた。
その晩、方眼紙に脚の形を描いた。
次の売り物は脚甲にする。脚甲に入れる身体強化の術式は昔からあって、走り出しや踏み込みのように一瞬で力を出す動きを補助する。瞬発力補助と呼ばれている系統だ。
ただ今度は、髪留めのときのように着ける人が分かっているわけじゃない。髪留めは、拾ったピンが覚えていた丸みに合わせればよかった。脚甲を着ける人の脚のことは、何も知らない。
アイカは左で蹴って、右で回る。でもそれはアイカの脚の話で、右で蹴る人もいれば両方を同じように使う人もいる。どちらの脚で踏み切るのかは、買った人にしか分からない。
知らない人の脚に合わせることはできない。それでも、その人の動きの邪魔をしないようにはできる。
だから、左右とも同じ回路にした。
左右の脚甲をつないで魔力を融通させることも考えたけれど、やめた。片方がもう片方の魔力を勝手に持っていくようでは、使う人が困る。それぞれの脚甲は独立して働き、使う人が魔力を通した側の脚だけを補助する。どちらで踏み切るかを決めるのは、着けている人だ。
素材はバックラーを切り出したあとに残った、岩甲虫の甲殻にした。
人の背中ほどもあった一枚から盾の円を切り出しても、両脇にはまだ大きな端材が残っている。自分で払った素材の残りだから、帳面の行は増えない。自分の脛に当ててみると、甲殻のゆるい丸みがそのまま脛の丸みに沿った。
量産の脚甲は、足首まで金属や甲殻で固めてある物が多い。守るためにはそのほうがいいのだろう。ただ、練習場で見たアイカの足首は、蹴るたびにも回るたびにも大きく曲がっていた。
甲殻で覆うのは脛だけにして、足首は固めないことにした。足首が動かなければ踏み込みも切り返しもできないし、止まるときの踏ん張りも利かない。足首から足の甲にかけては革で覆い、脛の甲殻とは左右の金具でつなぐ。
金具は、じいちゃんに頼んだ。
「くるぶしの両側に、蝶番を一つずつ。足首が前にも後ろにも曲がるように」
じいちゃんは図面を見て、黙ってうなずいた。帳面には魔石が二つと新しいミスリル線、それにじいちゃんの工賃の行が増える。工賃の数字は、今度も帳場の柱の表と同じだった。
甲殻の端材から、脛当てを二枚切り出す。
一枚目の形を紙に写し、裏返してもう一枚の端材に当てる。左右は鏡に映したような形でなければならない。ただ、甲殻は場所によって層の厚みがまちまちだ。光にかざして厚みが左右でそろう場所を探してから、線を引いた。
魔石は、問屋のおじさんが持ってきた中から重さのそろった二つを選ぶ。片方だけ重ければ、脚を振るたびに左右で引っぱり方が変わってしまう。足の甲を覆う革は、工房の端材の中からいちばん柔らかいものを選んだ。縫い目が足の甲に当たらないよう、縫い代は外側へ逃がして縫い合わせる。
留め具は外くるぶしの側に付けてもらうことにした。アイカの足運びを見ていると、左右の脚は思っていたよりずっと近くですれ違う。内側に留め具があれば、反対の脚の脛に引っかかる。
脛当ては、膝の下と足首の上の二か所で帯を回して留める。帯は工房の端材の厚い革で作り、穴を七つずつ開けた。細い脚にも太い脚にも締められるようにするためだ。足の甲の革は、腕輪の留め金と同じように三段階で留められるようにした。
魔石は、脛当ての外側の膝のすぐ下に据えた。腕輪で手の甲の側に魔石を置いたのと同じで、小さな穴を通して内側の回路とつなぐ。膝を深く曲げても腿に当たらない高さは、自分の脚で何度も確かめた。
回路は甲殻の内側に彫る。魔石の穴から脛の中心線に沿って線を下ろし、くるぶしの蝶番を越えて足の甲の革まで届かせる。線の幅は、脛の太いところでは太く、足首に近づくほど細くした。脚の太さが変わっても、流れる魔力の量がそこで変わらないようにするためだ。溝にはバックラーのときと同じ加減で、ミスリルを沈めていった。
左右の内側の面には、回路とは別に、半円の基準線を一本ずつ彫った。魔力は通さない、ただの目印だ。左右を並べて内側を向かい合わせると、二つの半円が一つの輪になる。脛当ての形も回路の位置も左右で正確にそろっていれば、輪の継ぎ目に段はできない。どちらかが髪一本ぶんでもずれていれば、そこで線が食い違う。溝の縁は、光が当たると細く光るように磨いておいた。
最初に合わせたとき、輪は一か所だけわずかに食い違った。右の脛当ての縁が、髪一本ぶん張り出していたのだ。そこを削り直すと、継ぎ目は指でなぞってもどこにあるのか分からなくなった。
じいちゃんが蝶番を付け終えたのは週の半ばだった。
蝶番のところは腕輪のときと同じように金具の板どうしを重ね、重なる面に当て板を貼ってある。膝下の魔石に指を当てて魔力を流すと、温もりは脛を下りて蝶番を越え、足の甲の革まで抜けた。
「其方」
蝶番の上に、スイ様が腰かけていた。両足をぶらぶらさせながら、金具の継ぎ目を見下ろしている。
「足首を曲げたら、その線はどうなりますか?」
足の甲の革をつまんで、前へ曲げてみる。蝶番の上でスイ様の体が一緒に傾いて、長い袖がふわりと揺れた。
温もりが、蝶番の手前でぷつりと途切れる。後ろへ反らしても同じだった。足首がまっすぐのときだけ、当て板が線の上に重なっている。曲げれば板がずれて、線から外れてしまうのだ。
脚甲は、足首が曲がっているときにこそ働かなければならない。踏み込む瞬間も止まる瞬間も、足首は曲がっている。練習場の土に残っていた、あのえぐれたつま先の跡が浮かんだ。
腕輪の留め金を思い出す。
あのときも、真ん中の段でしか線がつながらなかった。だから差し込む向きに沿って線を何本も並べて、どの段に当て板が来ても同じ線の上に乗るようにしたのだ。線路の上に車輪が乗るように。
蝶番は、くるぶしの芯棒を中心に回る。それなら線のほうも、芯棒を中心にした弧にすればいい。
重なる金具の板を扇形に作り直してもらって、その面に芯棒を中心にした細い弧の線を何本も並べて彫る。足首がどの角度に曲がっても、当て板は同じ弧の上を滑っていくだけで線から外れない。
それでも、つま先を思いきり伸ばしたところで流れが細くなった。曲げる角度が大きくなると、板どうしがわずかに浮くようだ。じいちゃんに頼んで芯棒に小さなばねを仕込んでもらい、どの角度でも板が押しつけられるようにした。
足の甲を前へ曲げて、後ろへ反らして、また戻す。何十回くり返しても、温もりは蝶番の弧を越えて足の甲の先まで抜けていく。左の脚甲で確かめてから、右でも同じだけくり返した。
最後に、両方を自分の脚に着けて作業場を歩いてみる。片足ずつ持ち上げて重さを比べても、左右の違いは感じられない。足首を回しても、甲殻の縁はどこにも当たらなかった。
土曜日に、二層の小さな広間でアイカに着けてもらった。ナツメたちも、記録を取ると言ってついてきている。
アイカは靴の上から脚甲を当てて、膝の下と足首の上の帯を締める。まずは魔力を通さずに広間を一周歩いてもらい、それから軽く走ってもらった。
「足首、邪魔しない」
それが最初の一言だった。
「最初は、魔力をほんの少しだけ。蹴るほうの脚に通して、軽く踏み込むだけにして」
アイカは柱に向かって腰を落とし、半歩だけ踏み込んだ。左の脛当ての膝の下で、魔石がかすかに光る。踏み込んだ足は、いつもより拳一つぶん先の床をとらえていた。
アイカは足を戻して、足首を何度か回した。
「平気。もう少し、通していい?」
「うん。次は、走り出しで」
広間の端から端まで走ってもらうと、最初の三歩がいつもより短い間に終わる。一歩目が、いつもより低くて速い。アイカは二、三度それをくり返してから、立ち止まって自分の脚を見下ろした。
「一歩目が、勝手に出る」
「勝手に?」
「出そうと思ったら、もう出てる。思ったより先に、じゃない。思ったのと同じとき」
「反対の脚に、何も当たらない」
アイカがぽつりと付け足す。留め具を外くるぶしの側にしたことには、何も言わなかった。それでも、すれ違う脚が引っかからなかったことには気づいていたらしい。
切り返しと跳躍は、最後に回した。
ナツメの「右!」に合わせて、アイカは右へ大きく踏み出す。左の足が床を蹴った音がしたと思ったら、もう柱の向こうにいる。そこで右の足を軸にくるりと回って、今度は右に魔力を通した。止まった右足は床の上で一度も滑らずに、戻ってくる一歩が行きよりも短く鋭い。
「右も、滑ってない」
柱のそばで見ていたマオが言った。アイカは右の足首を回して、考えるような顔をする。
跳んでもらうと、アイカの頭はいつもより手のひら一つぶん高いところまで上がった。着地のときも足首はちゃんと曲がっていて、膝で衝撃を逃がしている。ナツメが予定表の裏に、試した順に結果を書き込んでいく。
「魔力は、どのくらい減る?」
「剣の魔石より、ちょっと多い。でも、蹴るときだけだから」
アイカはそう言ってから、左の耳の上に目だけを動かした。
「…この子も、見てる」
花の真ん中の小さな人が、脚甲のほうをのぞき込んでいるらしい。僕にはやっぱり何も見えなかった。
脚甲を外しながら、アイカが聞いた。
「これ、売るの?」
「うん」
「ふうん」
アイカはそれだけ言って、左の耳の上の花に一度だけ指を触れた。
出品する前の晩、左右の脚甲を作業台に並べて、内側を合わせてみた。二つの半円が、一つの輪になる。
スイ様が輪の前に膝をついて、しばらく黙っていた。
「……どなたかが、気にしておられるようですね」
「誰かが、来てるんですか」
「さあ。気にしているだけかもしれません」
スイ様はそれ以上は言わずに、烏帽子を片手で押さえて立ち上がった。
説明文はまた、じいちゃんと二人で考えた。
「踏み切った側、と書くと、勝手に働くと読まれるよ」
じいちゃんに言われて、その一文を「魔力を通した側」と書き直す。
合う脚の太さも書くことにした。帯をいちばん緩めたときと、いちばん締めたときの周りを巻き尺で測って、その範囲だけを書き込む。
『岩甲虫の甲殻を用いた脚甲です。脛を甲殻で、足首から足の甲までを革で覆い、足首は前後に動かせる構造にしています。身体強化の術式を施し、回路にはミスリルを用いています。魔力を通した側の脚の、走り出しや踏み込みなどの瞬発力を補助します。左右は同じ回路で、それぞれ独立して働きます。足首をどの角度に曲げても、回路は途切れません。膝の下の周りがおよそ30センチから38センチ、足首の上の周りがおよそ19センチから24センチの方に合います。足の甲の留め具は、三段階で調整できます。』
神様のことは、どこにも書かなかった。
入札は出してすぐに集まり始めた。腕輪のときほど派手ではなかったけれど、終了の前の晩にはいくつかのIDが値を重ねて、脚甲は出品した週の終わりに落札された。
落札したのは見覚えのないIDで、届いたメッセージには、定型の一文のあとにもう一行だけ書き足してあった。
『落札させていただきました。蹴り技が主体なので、届くのが楽しみです。』
蹴り技、と口の中で繰り返す。剣でも盾でもなく、脚そのもので戦う人だ。その人がどちらの脚で蹴るのかも、どんな高さを蹴るのかも、僕は知らない。それでも、左右どちらで蹴っても同じように働くはずだ。
蹴る瞬間、その人の足首はきっと思いきり伸びている。つま先を伸ばしたときに流れが細くなった、あの晩のことを思い出した。ばねを仕込んでおいてよかった。
箱に詰める前に、もう一度だけ左右の内側を合わせた。継ぎ目のない輪が、作業灯の下で細く光っていた。




