第三十五話 なんで、かまど?
ミナside
届いた箱は、思っていたより軽かった。
薄紙を二枚めくると、脚甲が左右そろって寝かせてある。脛を覆う甲殻は灰色がかった茶色で、ゆるい丸みを帯びている。足首から足の甲までは柔らかい革で、くるぶしの両側には小さな蝶番が付いている。
片方を持ち上げてみると、甲殻の厚みのわりにずっと軽い。前に使っていた金属の脚甲なら、片方だけで手首にずしりと来たものだ。
説明文は入札する前に三回読んだ。決め手になったのは『魔力を通した側の脚』という一文だ。
量産品の中には、踏み込んだ衝撃で勝手に働く脚甲もある。蹴る人間にとって、あれほど困るものはない。軸足に欲しい力が蹴り足のほうへ出てしまうからだ。どちらの脚に力を通すかを自分で決められるなら、それだけで買う理由になった。
掲示板では、SHINの品には神様が宿ることがあるという話で盛り上がっていた。結局ガチャじゃねえか、という書き込みまである。あたしが欲しかったのは神様ではなく、ちゃんと働く脚甲のほうだ。
終了の前の晩、値はいくつかのIDのあいだで少しずつ上がっていった。あたしは寝る前に一度だけ値を足して、それきり画面を閉じた。次の日の夜に開いてみると、落札の通知が届いていた。届くのが楽しみです、とメッセージに書き足したのは本当のことだ。
床に座って、右の脛に当ててみる。
あたしの膝の下の周りは37センチある。蹴りで太くなったふくらはぎのせいで、量産品の帯はいつもいちばん端の穴でぎりぎりだった。説明文には30センチから38センチとある。帯を回してみると、緩いほうから二つ目の穴でちょうど締まる。
足首の上の帯と足の甲の留め具も締めて、部屋の中を何歩か歩いてみる。革は足の甲に吸いつくように沿っていて、縫い目がどこにも当たらない。膝を胸まで引きつけてみても、外側に付いた魔石は腿に触れもしなかった。
それから足首を前へ曲げて、後ろへ反らす。
動く。
前の脚甲は、足首まで金属で固めてあった。そうしないと回路が継ぎ目で切れてしまうのだと、店の人は言っていた。おかげで回し蹴りの最後につま先を伸ばしきろうとすると、そのたびに脚甲に引き止められた。何年も、蹴りとはそういうものだと思って蹴ってきた。
補助の具合のほうは、潜ってみるまで確かめようがない。魔道具が働くのは迷宮の中だけだ。
箱の底には、メモ用紙が一枚残っている。
『ありがとうございました SHIN』
字が右に傾いている。掲示板で頑固そうだと言われていた、あの字だ。一画ずつ迷わずに書いてあって、たしかに頑固そうに見える。あたしは一人で笑ってしまった。
脚甲を外して床に並べたとき、内側の面に細い溝が彫ってあるのに気づいた。ミスリルの入った回路の線のほかに、何も埋めていない溝が半円を描いている。両端はどちらも縁のところで途切れている。
もしかしてと思って左右の内側を合わせると、二つの半円がつながって一つの輪になった。継ぎ目がどこにあるのか、指でなぞっても見つからない。部屋の明かりの下で溝の縁だけが細く光っている。
きれいだな、と思っただけだった。
次の日曜、テツとハルカと三人で新宿迷宮の十九層へ下りた。
テツは大盾を担いだ大柄な盾役で、ハルカは風を使う魔法職だ。三人で組んで、もう四年になる。テツが前で受け止めているあいだに、その脇からあたしが蹴り込む。ハルカの風は、あたしたちの後ろから飛んでくる。
十九層は天井の岩の割れ目から細い根が何本も垂れ下がった薄暗い階層だ。足もとは湿った土で、踏み込むたびにかかとがわずかに沈む。
最初に出てきたのは灰牙狼の群れだった。灰色の毛並みの狼が四匹、岩陰から低く回り込んでくる。
「左、二匹」
ハルカが言い終わるより先に、あたしは左の軸足に魔力を通していた。
踏み込んだ一歩が思ったところへ思ったとおりの速さで届く。湿った土にかかとが沈むより先に、体はもう前へ出ていた。狼の鼻先まで一気に距離を詰めたところで、魔力を右の蹴り足へ移す。
いつもなら、ここで引っかかりが来る。
腰が回りきってから足首が伸びきるまでに、一拍だけ遅れが出るのだ。脚甲に引き止められる、あの一瞬だ。
今日はそれが来ない。腰が回りきるのと同じときに、つま先の先まで伸びている。最後に足首を伸ばす、そのひと押しにまで補助が乗っている。
右足の甲が狼の首筋をとらえる。狼は横へ吹き飛んで、岩に当たったきり起き上がらなかった。
速くなった、と言うだけでは足りない気がする。何年もかけて体に覚えさせた動きに、脚甲が一拍も遅れずについてくるのだ。勝手に動かされている感じは、どこにもない。
二匹目が横から跳びかかってくる。右足を下ろしながら魔力をそのまま右に残して、今度はその右で踏み切る。跳んだ宙で左へ魔力を移し、左足の甲で狼の顎を下から蹴り上げた。
一つの動きの中で軸足と蹴り足が何度入れ替わっても、魔力を通した側だけがちゃんと応えてくれる。通していないほうの脚は、ただの脛当てのままだ。魔力の減りも思っていたより軽い。
残りの二匹は、テツの盾に弾かれたところをハルカの風がまとめて岩壁へ叩きつけた。
息を整えながら、右の脛の帯に指を入れてみる。あれだけ蹴ったあとでも、帯はどこも緩んでいない。
群れを片づけると、テツが盾の陰から顔を出した。
「今日、速くないか」
「脚甲」
「SHINのか」
ハルカも後ろから首を伸ばして、あたしの足もとをのぞき込む。
「足首、動くんだ」
「動くし、動かしても途切れない」
右の足首を曲げ伸ばししてみせると、ハルカはふうんと感心したような声を出した。説明文に書いてあったことは全部そのとおりだった。テツはまだ首をかしげながら、盾にこびりついた狼の毛を払っている。
神様が出てきたのは、それから三日後の夜だった。
部屋で脚甲の革に油を塗っていると、ふっと煤の匂いがした。右の脛当ての縁に、何かが腰かけている。
手のひらに載るくらいの、小さなおじいさんだった。煤けた着物にたすきをかけて、竹の筒を一本、杖のように抱えている。田舎のばあちゃんちで風呂を焚くときに見た、火吹き竹だ。頬はまるくふくらんでいて、鼻の頭だけが赤い。
目が合うと、おじいさんは眉をぎゅっと寄せた。あたしの手の布を火吹き竹で指して、大きくかぶりを振る。それから革の上で手のひらを小さく往復させて、指先でぐいぐいと押してみせた。
油が多い、と叱られている気がした。布を置いて、革に残った油を指で薄く伸ばしながら揉み込んでいく。おじいさんはそれを最後まで見届けてから、ようやく腕を組んでうなずいた。
掲示板の噂は本当だったらしい。瞬発力補助の脚甲なのだから、もし来るとしたら風の神様か、足の速い獣の神様だろう。入札する前に、そのくらいのことはほんのちょっとだけ考えた。
「あの、神様ですか」
おじいさんは胸を張って、こくりとうなずいた。
声は一度も出さない。口を固く結んだまま、身振りだけで何かを伝えようとしている。
「何の神様?」
おじいさんは火吹き竹を口に当てて、頬をいっぱいにふくらませた。吹き口から、ぷう、と息の音だけが漏れる。火は出ない。
「火の神様?」
おじいさんはまたかぶりを振った。今度は両手で何かをかき混ぜる手つきをして、それから箸を口へ運ぶまねをする。
「…お腹すいたの?」
火吹き竹の先が、脛当ての甲殻をこんと叩いた。どうやら外れだ。
「じゃあ、なんで脚甲に来たの?」
おじいさんは脛当ての縁をぽんぽんと叩いて、満足そうに撫でた。それから窓のほうをじろりと睨んで、人差し指を一本立てる。その指で自分の鼻を指してから、脛当ての上にどっかりと座り直して腕を組んだ。
この脚甲が、よほど気に入ったらしい。窓のほうを睨んだのが何だったのかは見当がつかないけれど、指を立てて得意そうにしているところを見ると、誰かと競争して勝ったつもりなのかもしれない。
「誰かと、取り合いでもしたの?」
おじいさんはふいとそっぽを向いて、鼻の頭をこすった。それ以上は、何を聞いても教えてくれなかった。
一つだけ、確かめておきたいことがあった。
「日曜に速かったのも、神様が?」
おじいさんは顔の前で手をぱたぱたと振った。それから火吹き竹の先で脚甲をこんこんと叩いて、うなずく。自分ではなく脚甲の出来だ、と言いたいのだ。
「じゃあ、いつからいたの?」
おじいさんは首をひねってから、指を二本立てた。
「二日前?」
おじいさんがこくりとうなずく。それなら、日曜の十九層にはまだ誰もいなかったことになる。なんだ、と思った。がっかりしたのか、ほっとしたのか、自分でも決めかねる。
試しに台所のコンロの前まで脚甲を持っていってみた。神様はコンロをのぞき込んで、つまらなそうに口をとがらせる。火吹き竹をひと吹きしてすぐにやめると、床を指さして、足を二度踏み鳴らした。
「下?」
言ってから、迷宮のことだと気づく。
「迷宮でなら、ってこと?」
おじいさんは大きくうなずいて、脛当ての縁にごろりと寝そべった。
次の土曜は二十層まで下りた。休憩所は岩壁をくり抜いたような乾いた小部屋で、ほかのパーティーの姿はない。
荷物を下ろしたとたん、右足のほうでこんこんと音がした。見ると、おじいさんが帯の留め具の上に陣取って、火吹き竹でそこを叩いている。
「外せってこと?」
火吹き竹がもう一度、留め具を叩く。言われたとおりに脚甲を外して、床に放り出した。
おじいさんが跳び上がった。
火吹き竹をぶんぶん振り回しながら、転がった脚甲のまわりを駆け回る。左の脚甲を指して、右の脚甲を指して、それから両手のひらをぱんと打ち合わせた。
二つを合わせろ、ということだろうか。外側どうしをくっつけて置くと、おじいさんは地団駄を踏んだ。向きを変えて、つま先どうしを突き合わせてみる。今度は火吹き竹で床をばしばし叩いて、首を横に振る。
テツとハルカには見えないから、二人の目には、あたしが一人でぶつぶつ言いながら脚甲を並べ替えているようにしか映らないはずだ。
おじいさんは火吹き竹の先で、宙に大きな丸を描いた。
それで、部屋で見つけた半円のことを思い出した。左右の内側を合わせて、二つの半円が一つの輪になるように置き直す。
おじいさんはぴたりと動きを止めて、輪に顔を近づけた。指先で輪をぐるりとなぞって、継ぎ目のところで指を止める。それから大きく一つうなずいた。
そのまま輪の縁にしゃがみ込んで、火吹き竹を口に当てる。頬がいっぱいにふくらんで、ふう、と細い息が輪の中へ吹き込まれる。
輪の上に、火が生まれた。
薪も炭もないのに、手のひらほどの炎が輪の上で揺れている。顔を近づけると、ちゃんと熱い。ハルカが目を丸くして、テツは思わず盾に手を伸ばしかけた。
「今の、何」
「神様。脚甲に来てるの」
「さっきから一人で何してるのかと思ったら」
ハルカはしゃがみ込んで、炎の根もとに手をかざす。
「魔力の流れ、何も感じない。その線も、どこにもつながってないよね」
回路のミスリルは脛の真ん中を通っていて、この半円とはつながっていない。ハルカの言うとおりだ。神様は炎の向こうで、輪の縁を手のひらでいとおしそうに撫でている。線に力が通っているからではなく、この輪の形そのものが気に入っているように見えた。
炎をぼんやり眺めていると、おじいさんがまた火吹き竹を振り上げた。炎とあたしの顔を交互に指して、両手でぐるぐると何かをかき混ぜる。箸を口へ運ぶまねは、部屋のときより何倍も大げさだった。
「料理しろってこと?」
おじいさんは何度も強くうなずいた。
火吹き竹に、煤けた着物。火を起こしたら、今度は飯を作れとせっつく。そういう神様なら、思い当たるのは一つしかない。
「…なんで、かまど?」
思わず声に出ていた。ハルカが顔を上げる。
「かまど?」
「かまどの神様、みたい」
ハルカは脚甲とあたしの顔を見比べて、なんで脚甲に、とつぶやいた。それは、あたしが聞きたい。
ハルカが湯沸かし用に持ち歩いている小鍋を借りる。ふだんは固形燃料ひとつで、三人分のお茶を沸かすのがせいぜいの鍋だ。水を張って輪の上の脚甲にそのまま載せようとすると、おじいさんが両腕を広げて立ちはだかった。
器に鍋を載せるな、ということか。神様は休憩所の隅に転がっている石を指して、指を三本立てる。石を三つ拾ってきて輪のまわりに据え、その上に小鍋を載せると、神様はようやく広げていた腕を下ろした。湯はすぐに沸いた。
テツの干し肉と乾燥野菜をひとつかみ放り込む。塩の袋に手を伸ばしたところで、おじいさんが袋の上に飛び乗った。
両腕を顔の前で交差させて、ぶんぶんとかぶりを振っている。それから鍋の干し肉を火吹き竹で指して、自分の舌の先をちょんとつついた。
味を見てからにしろ、ということだろうか。しばらく煮てから汁を一口すすると、干し肉の塩気がもう十分に溶け出していた。袋の上のおじいさんが、ほら見ろという顔で鼻を鳴らす。結局、塩の袋は開けずに済んだ。
乾燥野菜もふっくらと戻っている。それだけの汁なのに、立ちのぼる湯気の匂いで三人とも黙り込む。迷宮の中で汁物をすするのは、いつ以来だろう。
最初の一杯を輪の脇に置くと、おじいさんは湯気に鼻を近づけて、気持ちよさそうに目を細める。
食べ終わってしばらくすると、不思議と体が軽くなった。十九層から歩き通しだった脚の重さがどこかへ抜けている。
「…膝が、軽い」
テツがぼそりと言って、自分の膝をさすった。大盾を構えていちばん踏ん張っているのは、テツの膝だ。ハルカも手を握ったり開いたりしながら、首をかしげている。ただの干し肉の汁で、こうはならない。
「これ、毎回できるの?」
ハルカに聞かれて、そのまま神様に聞いてみる。おじいさんは胸を張ってうなずき、その拍子に大きなあくびをした。
あくびのあとは火吹き竹を抱えて、輪の縁でこくりこくりと船を漕ぎ始める。炎もだんだん小さくなっていく。長く焚けば、神様も疲れるらしい。
左右の脚甲を離すと、火はふっと消えた。
片づけを済ませて三人で壁にもたれているあいだも、神様は脚甲の上で丸くなって眠っていた。休憩所を出る前に着け直すころにはすっかり目を覚ましたようで、うんと伸びをしてから右足の蝶番の上へよじのぼってくる。
二十層の奥で、絡み蔦に出くわした。
ハルカの端末の図鑑によれば、太い蔦が何本も絡まり合って一つの塊になった魔物らしい。塊は人の背丈の倍ほどもあって、ずるずると床を這いながら鞭のような蔦を振り回してくる。
「止める」
テツが大盾を突き出して、蔦の鞭を受け止める。鞭が盾の縁に巻きついて、塊の動きが一瞬止まった。その脇から、あたしは左の軸足に魔力を通して踏み込む。
右の蹴り足へ魔力を移して、塊の真ん中へ回し蹴りを叩き込んだ。
当たった瞬間、甲の先から火が移った。
蔦の表面に小さな炎がぱっと咲いて、乾いた葉を伝って燃え広がっていく。ハルカがすかさず風を送り込むと、炎は塊全体を包んだ。燃えながら伸びてきた最後の一本は、左で踏み込み直して右の脛で払い落とす。蔦の魔物は身をよじって、やがて焦げた塊になって動かなくなった。
あたしの右足は熱くもなんともない。
「…燃えた?」
ハルカが言った。あたしも同じことを言いたかった。
右足の蝶番の上では、おじいさんが火吹き竹を高々と掲げている。得意そうに鼻を鳴らす音まで聞こえた。あれだけ脚を振り回したのに、振り落とされた様子はない。
「蹴ったら燃えるなんて、聞いてない」
言ってから、この神様が一言もしゃべらないことを思い出した。おじいさんは知らん顔で、火吹き竹の先の煤をふっと吹き払う。
帰りの階段で、あたしは自分の脚甲を見下ろした。一段上がるたびに、蝶番の上でおじいさんが小さく揺れる。ハルカは、掲示板に書いたら絶対に騒ぎになる、と後ろでずっと笑っている。
日曜の十九層には、神様はまだいなかったはずだ。それでもこの脚甲は、軸足から蹴り足へ魔力を移す一瞬にも、つま先を伸ばしきる最後のひと押しにも遅れずについてきた。そこへ頼んでもいないかまどの神様が、勝手に入ってきただけだ。
その晩、取引画面を開いた。落札したときに送ったメッセージの下に、新しく書き込む。
『脚甲、とても使いやすいです。蹴りの踏み込みが驚くほど速くなりました。ありがとうございました。それと、神様が宿りました。かまどの神様のようです。なぜ脚甲にかまどなのか、私にもよく分かりません。』
掲示板では、SHINは字の頑固そうなおじいさんの職人ということになっている。その人がこれを読んで首をかしげるところを思い浮かべる。たぶん、あたしと同じ顔をするのだろう。
送信してから、蝶番の上を見る。
おじいさんは火吹き竹を抱えたまま、すうすう寝息を立てていた。




