第三十三話 だめ!
アイカside
土曜の朝、家を出る前にいつものように黒いピンを左の耳の上へ差して、角の家の前を急ぎ足で通り過ぎた。
工房の勝手口を二回叩くと、叩き終わるより先に戸が開いた。シンジはもう靴を履いていて、片手に薄紙の小さな包みを持っている。ずっと戸の内側で待っていたような顔だ。
「おはよう」
「おはよ」
二層に来てほしい、見てほしいものがある。ゆうべのメッセージはそれだけだった。また何か試すのだろうと思って、剣も防具も持ってきてある。バックラーのときも腕輪のときもそうだったから。
「行く前に、これ」
シンジは包みをこっちへ差し出す。目は包みのほうを見たままだ。
受け取ろうとして、シンジの左の人差し指に赤い跡があるのに気づく。指の腹が小さく膨れている。
「それ」
「…ばね、焼いたとき。平気」
平気、は私がよく使う言葉だ。シンジの口から聞くと、あまり平気そうに聞こえない。
薄紙を開くと白い花が出てくる。
細長い白い花びらが真ん中の黄色い石のまわりにぐるりと並んでいて、数えると十二枚ある。どの花びらにも細い銀の筋が一本ずつ走っていて、本物の花びらの筋みたいに見える。指でなぞっても、縁はどこにも引っかからない。シンジの作る物は触るとすぐ分かる。どこにも角がないのだ。
「何の花」
「マーガレット」
聞いたことのない名前だったから、マーガレット、と頭の中で一度だけ繰り返してみた。
シンジは何か言いかけて、一度やめた。それから勝手口の柱のほうを見たまま、口を開く。
「……これ、アイカのために作ったんだ」
すぐには何も言えなかった。
花を見て、シンジを見て、また花を見る。
ブレスレットをもらった日のことを思い出す。練習で作ったやつ、よかったら。あのときのシンジはそう言って、紙袋ごと突き出してきた。練習にしては彫った線が細かすぎる、と思ったのを覚えている。
今日は、練習とは言わなかった。
黒いピンを抜いてポケットにしまう。留め具をつまむと、裏の金具がゆるく弓なりに曲がっている。ピンを差していたところにそのまま当ててみると、手鏡がなくても指が場所を覚えていた。
ぱちん、と小さな音がした。
金具は頭の丸みに沿ってぴたりと収まる。首を横に振ってみて、もう一度強めに振っても、落ちないしずれもしない。
「どう?」
「…うん。合ってる」
シンジは私の耳の上を見て、それから急いで目をそらした。
「…ありがと」
やっと出た声は自分でも驚くくらい小さかった。
シンジは「うん」とだけ言って、詰めていた息を吐く。
「行こ」
顔を見られたくなくて、私は先に路地へ出た。
バスの中でシンジは髪留めの説明をしてくれた。反発の術式がどうとか、ばねを三本焼いたとか、いつもの細かいところから順番に話す話し方だ。説明しているあいだ、シンジは一度も私の耳の上を見なかった。見ないようにしているのが分かる見なさ方だった。
「裏の金具は、アイカのピンの曲がりを写したんだ。この前、置いていったやつ」
やっぱり、あのピンは捨てられていなかった。この前の夕方、黒いピンを押し込んでいたら、シンジがじっとこっちを見ていた。また見てると言ったら、ピンずれてると返された。あれは、このための目だったのだ。
説明の残りは半分くらいしか頭に入らなかった。窓ガラスに映った耳の上で、白い花はバスが揺れてもまるで動かない。そればかり見ていた。
横浜迷宮の管理棟の前では、ユズとナツメとマオが待っていた。シンジが二層で何か見せるらしいと話したら、三人とも来ると言ったのだ。ナツメは記録を取るつもりで、予定表の裏を白いまま持ってきている。
手を振りかけたユズの視線が、途中から私の左の耳の上で止まる。
マオがぽつりと言う。
「…マーガレット」
ユズとナツメが顔を見合わせる。
「へえ〜」
ユズの口の端がゆっくり持ち上がっていく。ユズがこういう顔をするときは、たいてい何かを面白がっているときだ。
「愛されてるね、アイカ」
シンジが作ってくれたことは、言わなくても分かったらしい。作ってもらったのがそんなにおかしいのだろうか。隣ではシンジが探索者のカードを財布から出したり入れたりしていて、耳まで赤い。ナツメは何も言わずに、予定表の端に何か小さく書き足した。
柱が四本立っているだけの二層の小さな広間は、バックラーを試した日と何も変わっていない。
「最初に、登録する」
シンジが言う。
「声と魔力で、髪留めの石に覚えてもらう。そうすると、アイカの声とアイカの魔力がそろったときしか動かなくなるんだ」
「私のときだけ」
「うん。アイカが使ったときだけ」
言い直されて、耳の後ろが熱くなった。ちょうど髪留めのあたりだ。
「言葉は、退けて」
「どけて?」
「短いほうが、とっさに言えるから。ナツメの右とか左とかと、ぶつからないし」
ナツメが予定表から顔を上げて、小さくうなずく。
「合理的」
左の耳の上の花に指を当てて、真ん中の石へ魔力を細く流す。それから教わった言葉を口にした。
「退けて」
指の下で石がほんのり温かくなって、髪留め全体が一度だけかすかに震える。何かが私の声を聞いて覚えた、そんな気がした。自分の声を自分の髪の上で覚えられるのは、なんだかくすぐったい。
「最初は、魔力をほんの少しだけにして。じいちゃんにも言われてるから」
シンジはユズのほうを向く。
「盾、構えてもらっていい?でも、踏ん張らないで。押されたら、そのまま流して」
「流すのは得意だよ」
ユズが大盾を胸の前に立てる。私は腕を伸ばせば届くくらいの距離で、白い猫のステッカーと向き合った。
花の石にわずかに魔力を通す。
「退けて」
最初に来たのは、包まれる感じだった。頭のてっぺんから足の先まで、薄い水の膜をかぶったみたいになる。次の瞬間には正面から体ごと押されていた。
足が床を二歩、三歩と滑る。首だけが持っていかれる感じはなくて、肩も腰も膝も全部が同じだけ後ろへ運ばれていく。向こうではユズも盾ごと同じくらい下がっていた。
最後の一歩で踵が引っかかって、右手を床についた。手のひらの付け根にざらりと擦れた感触があって、ひりっとしたけれど、言うほどのことじゃない。
「首は?」
シンジが駆け寄ってくる。シンジの目はいつも、私の顔より先に手首や首を見る。
「平気。体ごと押された」
「押されたっていうか、運ばれた感じ」
盾を下ろしたユズが、自分の肩を回しながら言う。シンジは私の首のあたりをもう一度見て、それからやっと肩の力を抜いた。
「二人とも、三歩」
ナツメが予定表に書き込んでいく。
押した分だけ、私も下がる。それなら下がった先のことまで考えて使えばいい。たいていそこには、ユズの盾がある。
「もう一回、見せて」
シンジは私の前に立って、留め具と花びらを一枚ずつ指で確かめていく。最後に花の真ん中へ指先を当てて、流れを探るように目を細めた。顔が近い。息を止めて、終わるのを待った。
「大丈夫。どこも緩んでない」
通路のほうで、かさりと音がした。
角ウサギが一匹、広間の入口から顔を出している。灰色の毛玉みたいな体で、額の小指ほどの角を低く構えてこっちの様子をうかがっている。
「アイカ」
マオが弓に手をかけたまま、目だけで聞いてくる。私は小さく首を振った。
角ウサギが床を蹴って、まっすぐ私の脛のあたりを狙ってくる。角が届く手前で、さっきと同じだけ魔力を通した。
「退けて」
角ウサギが、飛んだ。
灰色の毛玉は広間の端まで転がっていって、壁に当たって止まる。私のほうは半歩下がっただけで、角ウサギは起き上がると慌てて通路の奥へ逃げていった。
「うわ、飛んだ」
ユズが目を丸くしている。
「軽い相手は、相手が飛ぶ」
ナツメが書き足す。マオが弓から手を離して、ぼそりと言った。
「今の、間合い、取れてた」
「大きい相手は、まだ試さない」
シンジの顔には、親方との約束だと書いてある。
髪留めがずれていないか、指で確かめる。
そのとき左の耳のすぐ上で、草餅みたいな匂いがした。つぶした葉っぱの、青くて甘い匂いだ。顔を動かさないように、目だけをそっちへ向けた。
花の真ん中に誰かが座っている。
親指くらいの背丈の、小さな人だった。古い絵で見るような裾の短い着物を着て、自分の背丈より大きな葉っぱを一枚、両腕で抱えている。縁がぎざぎざした、ヨモギみたいな葉だ。
目が合うと、小さな人は葉っぱの陰でぱちりと一度まばたきをした。それから花びらの一枚に顔を近づけて、匂いをかぐようなしぐさをする。
左手首で、ころ、と石神様が鳴った。小さな人はそっちへ向き直って、葉っぱを抱えたまま小さく頭を下げる。
「…いる」
「何か、いる?」
息をのんだシンジには、見えていないのだ。ブレスレットに石神様が来たときもそうだった。
「ちっちゃい人。葉っぱ、持ってる」
シンジはしばらく何も言わずに、私の左の耳の上を見ていた。
「狐が、誰か見に来てるって言ってたんだ。…いつから、いたんだろう」
それは私にも分からない。今来たのかもしれないし、最初からそこにいて、私が気づかなかっただけかもしれない。
シンジがもう一度、花の向きを確かめようと手を伸ばしてくる。その左の人差し指に、朝の赤い跡がまだ残っている。
小さな人が、ふいに立ち上がった。
葉っぱを抱えたまま花びらの縁を歩いて、シンジの指先へひょいと飛び移る。シンジは何も感じていないらしく、指を伸ばした格好のまま止まっている。
小さな人は赤い跡の上に立って、葉っぱを傘みたいにかざした。
また、草餅の匂いがする。
膨れていた指の腹がすうっと平らになっていく。赤い色も薄くなって、まわりの肌と見分けがつかなくなった。
「痛くない」
シンジが自分の指を目の前に持ってきて、何度も裏返している。
「消えた」
小さな人は葉っぱを抱え直して、私の髪留めへ戻ってきた。シンジは自分の指を見つめてから、私の左の耳のほうへ小さく頭を下げる。見えない誰かに向かって、ちゃんと。あの火傷は、この髪留めを作るときにできたものだ。
右の手のひらを開くと、さっき床についたところで細い擦り傷が三本、うっすら血をにじませている。
左の耳の上で、葉っぱの擦れる音がした。小さな人は髪から肩へ、肩から腕へと伝い下りてきて、私の手のひらの上でも葉っぱをかざす。
ひりひりしていた感じがすっと引いていく。傷は薄い桃色の線になって、それも消えた。あの大きな葉っぱは、このためにあったらしい。
「治った?」
ナツメが予定表を書く手を止めていた。
「アイカのだけじゃない。三灯原くんの指も」
「すご」
ユズが私の手のひらをのぞき込む。マオは何も言わなかったけれど、弓を握った手がゆるんでいた。
「え、いいなあ」
ユズが私の手のひらとシンジの指を見比べる。
「私も三灯原くんにおねだりしたら、作ってもらえるかな〜」
「だめ!」
思っていたよりずっと大きな声が、広間の柱に当たって返ってきた。
ユズが目を丸くしている。ナツメのペンが止まって、マオがこっちを見た。シンジまで、きょとんとした顔で私を見ている。耳の上では、小さな人が葉っぱで顔を半分隠していた。
顔が、一気に熱くなった。
なんで、だめなんだろう。シンジが誰かのために何かを作るのは、いつものことだ。知らない人に売る物だって、毎月のように作っている。それなのに口のほうが先に動いていた。
私のために作ったって、シンジは言った。その声を思い出すと、どうしても、いいよとは言えなかった。
「…ユズなら、髪留めより盾のほうがいいと思うけど」
シンジが真面目な顔で言う。分かっていない。ぜんぜん分かっていない。
ユズは吹き出しそうになるのをこらえて、私のほうへ身を乗り出した。
「でも、お金払ったらやってくれるかな?」
ニヤニヤしているユズには返事をしないで、剣の柄を握り直した。
「…盾、だめだった?」
シンジが小声で聞いてくる。ユズがとうとう吹き出して、ナツメがまた何か書き足した。マオの口の端もかすかに上がって見えた。
帰りのバスでも、髪留めは一度もずれなかった。
バス停から工房までの短い道で、気づくと何度も指が髪留めに触れていた。落ちていないか確かめるためじゃないことは、もう分かっていた。
勝手口の前で、シンジが戸に手をかけてから振り返る。
「どうだった?」
どう、と言われても困る。言いたいことは、たぶんいくつもあった。
「…着けてるの、忘れそう」
言ってから、もう少しましな言い方があったかもしれないと思った。
シンジは一瞬きょとんとして、それからじわっと笑った。
「よかった」
それだけ言って、戸が閉まった。
路地を歩いていて、角の家の前で足が止まる。
鉢植えに白い花がたくさん咲いている。細長い白い花びらが、真ん中の黄色いところからまっすぐ外へ並んでいる。
左の耳の上に指をやると、同じ形の花びらが指先に触れた。
着けているのを忘れそう、と言ったのは本当だ。髪のほうは、もうこの重さに慣れかけている。それでも勝手口で聞いた声だけは、何度でも思い出せる気がした。
指を離すと、草餅の匂いがかすかに残った。




