第三十二話 白いマーガレット
春休みに入って三日目の夕方、勝手口を叩く音がした。二回。アイカだ。
開けると、路地のどこかから沈丁花が匂ってくる。探索の帰りに着替えてきたらしいアイカがそこに立っていた。パーカーの袖口から編み帯のブレスレットがのぞいていて、頬の赤い線はもう薄い茶色の跡になっていた。
「ナツメ、喜んでた。真ん中の段は自分だって」
「よかった」
アイカはいつもの丸椅子に座ると、左の耳の上に手をやった。横の髪を留めている黒いピンが半分抜けかけていて、アイカはそれを指で押し込み、話の合間にまた押し込む。
「…また見てる」
「ピン、ずれてる」
「すぐずれる。動くと落ちる」
アイカはピンを抜いて、指先でつまんでみせる。二本の足の先が、ハの字に開いていた。
「探索のたびに、一本はなくす。これも、もうだめ」
ポケットから小さなケースを出して、新しいピンを取り出す。手鏡も見ずに、アイカはさっきと同じ左の耳の上へそれを差した。
「いつも左なの?」
聞いてから、聞きすぎたかと思った。アイカは気にした様子もなく、剣を握る形に右手を上げてみせる。
「振ると、こっちが目に入る」
アイカは「春休みは、平日も潜る。ナツメが予定表作り直した」とだけ付け足して、ケースをポケットにしまった。開いたほうのピンは作業台の端に置いたままになっている。
「それ、捨てとく?」
「うん。百円で何本も入ってるから」
勝手口が閉まっても、捨てとくはずのピンはまだ僕の指先にあった。
作業灯の下に置いて、ルーペでのぞく。波打っているほうの足の一か所だけ黒い塗りがはげて、地金が出ている。差し込むたびに同じ深さで髪に擦れていたのだ。足の先の小さな玉は片方が欠けていて、尖った先がむき出しになっていた。地肌に当たれば痛かったはずなのに、アイカはそういうことを言わない。
開いた足を指で閉じようとして、気がついた。
ピン全体がゆるく弓なりに曲がっている。作業台に寝かせると真ん中が浮いて、両端だけが板に触れる。曲げようとしてできた形じゃない。何十回も差されるうちに、留めていた場所の丸みに沿っていったのだ。
アイカの、左の耳の上の丸みだ。
秋に直した籠手の内張りにも、あのお客さんの五本の指の形がくぼみになって残っていた。このピンも同じだ。
頭を測らせてとは言えないし、渡すまでは何を作っているのかも言いたくない。でも、このピンはもうその丸みを覚えている。
方眼紙を出す。いちばん上にアイカとだけ書いて、あの晩から一本の線も引いていない一枚だ。
ピンをその上に寝かせて、弓なりの縁に沿って鉛筆を走らせる。升目に最初の線が引けた。
作業台の引き出しも開けてみた。
薄紙にくるんだ髪留めがまだそこにある。秋の初めに出品して、じいちゃんに言われて取り下げた物だ。小指くらいの長さの真鍮の板に端材の魔石が二つはまっていて、曲がり角の一か所はじいちゃんに見られながら直した。
方眼紙の弓なりの線に、その髪留めを重ねてみる。
まっすぐな板は、線と真ん中でしか触れない。アイカの髪に留めれば両端が浮くし、柔らかい真鍮の留め具はそのうち開いてしまうだろう。誰の髪に留まるのかも知らないまま作った髪留めだ。きれいに彫れてはいても、アイカの頭には合わない。
薄紙に包み直して、引き出しに戻した。
アイカはアクセサリーをほとんど着けない。探索のとき邪魔になるからだ。それでも髪を留めるピンだけは、毎回欠かさず使っている。なくしても困らない、百円のピンを。
なら、なくさない髪留めを作ればいい。動いても落ちなくて、着けていることを忘れていられるような物を。
白い花を見つけたのは、次の日の帰り道だった。
じいちゃんに頼まれて、商店街の金物屋へ紙やすりを買いに行った帰りだ。路地の角の家の前に鉢植えがいくつか並んでいて、その一つに白い花がたくさん咲いていた。
細長い白い花びらが、真ん中の黄色いところからまっすぐ外へ並んでいる。風が吹くと茎ごと揺れるのに、花びらは一枚も乱れない。派手な花じゃないけれど、路地の入口からでも白がはっきり見えた。
似合う、と思った。
誰に、とは考えなかった。考えるより先に、勝手口の柱にもたれて手首を見下ろしているアイカが浮かんでいた。
紙やすりの袋を提げたまま、しばらくその鉢の前に立っていた。
店に戻ってから、帳場のサキさんに聞いてみた。
「角の家の前に咲いてる白い花、なんていう花か知ってる?」
サキさんは伝票の上でペンを止めた。
「角のお宅の?ああ、マーガレットね。あそこは毎年、咲くのが早いのよ」
それだけ言って、サキさんはまた伝票に目を落とした。
その晩、方眼紙の弓なりの線の上に、花を一輪描いた。
真ん中に丸を一つ描いて、そこから花びらを十二枚、外へ向けて並べる。何度も消して描き直すうちに、升目の上の花は角の家の鉢の白い花に近づいていく。
この髪留めに、何をさせるか。
十層の日のことは、詳しくは聞いていない。ユズが「柱つかむの、ずるいんだよ」と言って、マオが「ずるい」と言っただけだ。それでもあの日のアイカの手のひらの赤い跡も、この前の頬の線も覚えている。
壁を出すのは石神様の仕事で、僕の髪留めが同じことをしても仕方がない。狐の根付のように受けた力を散らすだけでも、足りない気がした。アイカの剣は、振るだけの間合いがあってこそ届く。大きな相手に詰め寄られて、その間合いがなくなったときに取り直すための何かが要る。
じいちゃんの教本を開く。
反発の術式は、昔からある。盾の押し返しや護身用の魔道具に使われていて、すぐ近くにある物とのあいだに力場を作り、互いを押し離す。教本の図では、真ん中の魔石から外へ向かって細い線が何本も放射状に伸びている。
方眼紙に戻って、花びらの一枚一枚に外へ向かう線を引いてみる。
十二本の線は、教本の図とほとんど同じ形になった。
花を選んだのは、似合うと思ったからだ。術式に合わせて選んだわけじゃない。それなのに線は、最初からそこにあったみたいに花びらの上へきれいに収まった。
ただ、近くの物を何でも押すようでは困る。アイカのすぐ横にはユズの盾があるし、マオもナツメもいる。いつ勝手に働くか分からない物なんて、危なくて着けていられない。
教本の次の頁には、起動語の登録が載っている。持ち主の声と魔力を魔石に覚えさせて、その両方がそろったときだけ術式を動かす方式だ。声だけでも魔力だけでも動かないから、普段の会話で同じ言葉を口にしても、魔力を通さなければ何も起きない。
言葉は短いほうがいい。とっさに叫べて、ナツメの「右!」や「左!」とぶつからない言葉にしたかった。
退けて。
頭の中でアイカの声に言わせてみると、あのいつもの短い言い方にすんなりはまった。
「其方」
方眼紙の上で、スイ様が描きかけの花の真ん中に立っていた。
スイ様は両の袖をそろえて、目の前の見えない何かを手のひらで押す。それから自分のほうが、とと、と二歩うしろへよろけてみせた。
「押されるのは、相手だけですか?」
鉛筆が止まった。
押せば、押し返される。教本にも、力場は互いを押し離すと書いてある。相手が軽ければ相手のほうが飛ぶし、相手が大きければ飛ぶのはアイカだ。
それはいい。間合いを取り直すための物なのだから、アイカが下がるのも仕事のうちだ。
問題は、押し返される力をどこで受けるかだった。
この髪留めはアイカの頭にある。花の真ん中から押し離せば、押し返された力は全部、留めているところにかかる。巨腕猿のような相手を押したら、体より先に頭だけが後ろへ持っていかれる。
アイカの首ががくんと後ろへ振られるところが浮かんで、背中が冷たくなった。
ポケットから狐の根付を出して、作業台に置く。
秋に二層でアイカに叩いてもらったとき、この根付の膜は僕の体を丸ごと包んでいた。剣の腹で肩を叩かれても、その力は肩の一点に集まらずに、体の表面全体へ広がって薄まった。最後の一撃では二歩、三歩とよろけたけれど、どこも痛めなかった。
反発の術式の手前に、あれと同じ包む術式を一段挟めばいい。
力場はまず、登録した人の体を薄く包んでから外へ押す。押し返された力は、包んだ膜ごと体全体で受けることになる。
アイカは、やっぱり下がる。大きな相手なら、大きく下がる。それでも、頭だけが持っていかれることはない。下がった先には、たいていユズの盾がある。
花びらの線の内側に、一重の輪を描き足した。
スイ様は花の真ん中から降りて、方眼紙の端で袖をたたむ。それきり、何も言わなかった。
次の日、帳場でじいちゃんに頼んだ。
「中ランクの魔石を一つ。黄色っぽいのがいい。それと、ばねにする鋼の薄い板」
「何を作るんだい」
「髪留め」
じいちゃんの鉛筆が止まった。
「売る物かい」
「…売らない」
じいちゃんは老眼鏡の上から僕を見たけれど、それ以上は聞かずに「シンジ」の頁を開いた。魔石の行が一つ増える。ばねにする鋼は、端材の箱から出してくれた。
「ばねの作り方、教えてほしい」
「腕輪のときは、頼んでくれたのにね」
「これは、全部自分の手でやりたいんだ」
じいちゃんはしばらく黙っていた。やがて老眼鏡を外すと、作業場のほうへ顎をしゃくった。
鋼の板を細く切って形に曲げるところまでは、じいちゃんの手つきを見ていればできた。
「焼きを入れるよ」
真っ赤になるまで熱した鋼を油に落とすと、じゅっと音がして白い煙が上がった。引き上げた鋼は硬くて、指で押してもびくともしない。
「このままだと、硬いけど折れる。今度は温めて、ねばりを戻すんだ。青くなったら止めなさい」
じいちゃんはそれだけ言って、自分の作業台に戻っていった。
バーナーの炎に鋼をかざすと、銀色の地に薄い麦わらの色が差した。そう思った次の瞬間には茶色を通り越して、紫から青へ、青から灰色へと色が走っていく。慌てて炎から外したときには、鋼はくすんだ灰色になっていた。
髪の代わりに、いちばん太い筆の毛の束を挟んでみる。振っただけで、束はするりと抜け落ちた。指で開くと、ばねは開いたままの形で止まって戻ってこない。戻しすぎだ。
二本目は色が走るのが怖くて、紫が差したところで炎から外した。今度は強くて、自分の指を挟んでみたら声が出た。
ところが開け閉めを繰り返していると、二十回目でぱきんと乾いた音がした。ばねが根元から二つに折れている。硬さが残りすぎていた。
折れたばねを持っていくと、じいちゃんは断面をルーペでのぞく。
「炎に直に当てると、色が走るよ。鉄の板を温めて、その上に載せてごらん」
バーナーで温めた鉄板の上に、三本目の鋼を寝かせる。今度は色がゆっくり這うように変わっていく。麦わらの色から茶色へ、紫を経て、その先に青がにじんでくる。鋼全体が同じ青に染まるのを待って、ピンセットでつまみ上げた。
筆の束を挟んで振っても、もう落ちない。指を挟んでも痛くない。
そこから開け閉めを百回繰り返して、十回ごとに筆の束を挟み直しては振ってみる。百回目のあとも、挟む強さは一回目と変わらない。
黒いピンの片方の足が波打っているのは、髪を噛ませて滑らせないためだ。挟む口の内側にも、同じように細かい刻みを入れた。
花びらは、明かりと同じ缶から白っぽい魔石の欠片を選んで削った。角の家の花びらに、いちばん近い白だ。
欠片の白さは一つずつ違う。並べたときに一枚だけ灰色がかって見えないよう、缶の底まで探して色のそろった十二個を選んだ。一枚ずつ指先ほどの大きさに整えて、縁はどれも丸く落とす。髪に引っかからず、転んで頭を打っても肌を傷つけない丸さにした。
五枚目を削っているとき、薄くしすぎた先が欠けた。缶に戻って、同じ白さの欠片を改めて探した。
花びらの付け根から先へ、髪の毛ほどの細い溝を彫る。
溝に沈めるのは、バックラーのときに残ったミスリル線にした。反発の術式は、一瞬で大きな魔力を通す。花芯の魔石から十二枚の花びらへ同時に魔力を届けるなら、通りのいいミスリルがいい。線の先にある花びらの魔石が、そこから力場を外へ押し出す口になる。
溝が細いぶん、魔力もいつもより細く絞らなければならない。髪一本ぶんの魔力を指先から流し続けて、柔らかくなった銀を一本ずつ溝の底へ沈めていく。花芯のまわりの包む輪も、同じミスリルで巡らせた。
十二本の線は、どれも付け根で包む輪につながっている。白い花びらの上に、銀の筋が一本ずつ走っている。角の家の花びらにも、よく見るとこういう細い筋が通っていた。
台座の金具は、拾ったピンの弓なりに合わせて曲げた。平たいところは当て木の上で叩いて伸ばす。この前、帳場でじいちゃんに教わったやり方だ。
花の高さはできるだけ低くした。フードをかぶっても横になっても、花が頭に押しつけられることはない。
真ん中に黄色い魔石を据えると、十二枚の白い花びらがその周りに並んだ。
手のひらに載せて、拾ったピンと重さを比べる。黒いピン三本ぶんくらいだろうか。これ以上重くすると、髪ごと下へずれていく気がした。
魔石の裏には、声と魔力を覚えさせるための回路が、何も書き込まれないまま残っている。ここだけは、アイカがいないと仕上がらない。
指先で魔力を流してみる。温もりは包む輪を一周してから、十二本の線に分かれて花びらの先まで抜けた。工房で確かめられるのは、ここまでだ。力場が本当に人を押し離すのかは、迷宮の中でしか確かめようがない。
じいちゃんに、仕上がった髪留めを見せた。
「人に渡す物だからね」
じいちゃんはそう言って、まずばねを何度も開け閉めした。次に花びらの縁を一枚ずつ指の腹でなぞり、最後に魔石の裏へ指を当てて、長いあいだ黙っていた。
「包むほうから先に流れるね」
「うん。頭だけ持っていかれないように」
じいちゃんは髪留めを作業灯にかざしたまま、小さくうなずいた。
「ばねも、自分で焼いたんだね」
「うん」
「いい色だ」
じいちゃんはそれから少し声を低くした。
「登録は、本人とするんだね」
「うん。土曜に、二層で」
「なら、最初は軽く試しなさい。いきなり大きな相手で使わせないこと」
「分かった」
じいちゃんは髪留めを僕の手のひらに戻した。
「これなら、渡していいよ」
その晩、作業台に方眼紙を広げて、髪留めをその真ん中に置いた。
スイ様が方眼紙の縁に膝をついて、じっと髪留めを眺めている。白い面が、花びらを一枚ずつたどっていく。
「…もう、待っている方がいるようですよ」
「誰ですか」
「吾にも、まだ見えません。眺めに来ただけかもしれませんし」
スイ様はそれだけ言って、面を伏せた。
目を凝らしても、作業台の上には白い花が一輪あるだけだ。宿るかどうかは、僕が決めることじゃない。それよりも、アイカがこれを左の耳の上に留めたときのことばかり考えていた。
スマホを出して、アイカに短く打った。
『今度の土曜、二層に来てほしい。見てほしいものがある』
返事はすぐに来た。
『行く』
方眼紙に目を戻す。
いちばん上には、アイカ、と書いてある。その下では、ピンから写した弓なりの線の上に白い花が一輪咲いていて、花びらから伸びた細い線は升目の端まで届きそうだった。
あの晩は白いままだった升目が、もうほとんど残っていない。




