第三十一話 じいちゃんに払う
三月も半ばにさしかかった月曜日、夕ごはんの片づけを終えて作業場に下りると、作業台の上でスマホが光っていた。
取引画面に新しいメッセージが一件入っている。差出人は腕輪の落札者だ。落札のときに定型の一通が届いたきりの、見覚えのないIDだった。
『腕輪、届きました。使いました。』
一行目はそれだけだ。
使いました、の五文字をしばらく眺めた。僕は魔法を撃てない。あの腕輪が撃つ人の手首でどう働くのかは、工房ではとうとう確かめられなかった。
『説明に、実際の使用での性能は確認できていないとありましたので、こちらで確かめたことだけお伝えします。』
説明文のいちばん最後にじいちゃんと二人で入れた一文だ。あそこまで読んでくれた人がいる。
『魔力は、手首のところで滞りませんでした。腕輪も、一度も回りませんでした。大切に使います。』
メッセージはそこで終わっている。
滞らなかった。回らなかった。
どちらも僕が狙って作ったところで、工房では最後まで確かめきれなかったところでもある。肘側の縁をつまんで流した魔力は、ちゃんと手側の縁まで抜けた。でもそれは僕の指から流したもので、杖へ向かって撃ち出される魔力じゃない。
二層の広間で、撃つ前に指で腕輪を回して戻していたナツメを思い出す。この人はあれをしなくて済んだんだ。
どの段で留めているのかまでは、メッセージにない。けれど、どの段で留めても流れは途切れないようにしてある。留め金の線を線路のように並べ直すのに三日かかったのは、こういう知らない誰かの手首のためだったのかもしれない。
威力のことは何も書いていない。魔力がどれだけ減らずに済んだのかも書いていない。たぶんそこは普通なんだろう。明かりのときの「明るさは普通です」を思い出して、つい笑ってしまう。邪魔をしなかったのなら、腕輪の仕事はそれで足りている。
「確かめたことだけ、ですか」
いつの間にか、スイ様がスマホの画面の上にいた。足元の文字を踏まないように、行と行の間に沓を置いている。一行ずつ見下ろしてから、スイ様は画面の縁をまたいで作業台へ降りた。
「其方と同じ書き方をする方ですね」
言われて、メッセージを頭から読み直す。
確かめたことは書いて、確かめていないことは書かない。じいちゃんに言われて僕が説明文でやったことだ。この人はそれを返事でやっている。
返事は短くした。
『ご連絡ありがとうございます。こちらでは確かめられなかったところなので、使っていただいた様子を教えていただけて安心しました。汗をかいたあとは、内側を乾いた布で拭くと長持ちします。SHIN』
入金の知らせは木曜日の夕方に来た。
買った人が受け取りを知らせてから何日かは、サイトが代金を預かっている。だから入金はメッセージより遅れて届く。手数料を引かれたあとの数字は、槍の穂先のときよりも多い。
明かりのときは画面を二度確かめた。今日は確かめるより先に、帳面のことが頭に浮かぶ。
帳場の引き出しから帳面を出して、「シンジ」の頁を開く。
明かりの売上で穂先の鋼と魔石を買い、穂先の売上で甲殻とミスリル線を買った。腕輪の地金と魔石はバックラーの売上で払っている。売って、その金で材料を買って、また作る。あの晩じいちゃんに言ったことが、気づけば帳面の上で回り始めていた。
腕輪の売上があれば、次の材料には当分困らない。問屋のおじさんが持ってくる見本の中には、値札を見て箱へ戻してきた深い層の素材もある。あれにも手が届きそうだ。
それなのに、じいちゃんの手間の行だけが相変わらずどこにもない。
腕輪が落札された晩に、今度こそ言おうと決めた。でも払うと言うなら、払うお金が口座に入ってからにしたかった。だからこの十日ほど、言い方ばかり考えていた。ただ払わせてと言えば、孫から儲けるほど困っちゃいないよ、と返されるに決まっている。ゆうべは手帳を一枚破って、じいちゃんに頼んだことを全部書き出しておいた。
その晩、シャッターを下ろす音が聞こえてから帳場へ行った。
三月になっても夜の帳場はまだ冷える。息はもう白くならないけれど、板の間から足もとへ寒さが上がってくる。じいちゃんは老眼鏡をかけて、布張りの帳面に今日の仕入れを書き込んでいる。
帳場の向かいの丸椅子に座る。前にここで話したときは、じいちゃんの鉛筆が止まるまで黙って待っていた。
今日は待たなかった。
「じいちゃん、ちょっといい?」
「何だい?」
じいちゃんは鉛筆を持ったまま顔を上げた。僕は取引画面を開いて、スマホを帳面の横に置く。
「腕輪の人から来たんだ」
じいちゃんは老眼鏡をかけ直して、画面に顔を近づける。短いメッセージをゆっくり最後まで読んで、それから一行だけ読み返している。
「回らなかった、かい」
帳面の上で、じいちゃんの右手の親指が小さく動く。人差し指との間に見えない輪を挟んで、その平たいところを指の腹でなぞるような動きだ。本人はたぶん気づいていない。
「楕円に曲げたのじいちゃんだよ」
「図面のとおりに曲げただけだよ」
「僕も一回、端材で曲げてみたんだ。平たいところが、どうしても波打った」
じいちゃんはスマホから目を離した。
「それは、平たいところから曲げようとするからだよ」
鉛筆を置いて、両手の指で小さな輪を作ってみせる。
「先に両端の丸みを決めてね。平たいところは、当て木の上で叩いて伸ばすんだ」
そんなやり方があるなんて、今まで知らなかった。
僕は帳面の上に、手帳から破った紙を置く。
バックラー 縁の金具、持ち手の固定
腕輪 楕円の曲げ、蝶番、三段の留め金、ばね、留め金の角の手直し
「これ、帳面に付けてほしい。金具の材料と一緒にじいちゃんの手間も」
じいちゃんは紙を手に取って、上から順に目で追っていく。その指先が、ばね、のところで止まった。
「ばねを強くしたのまで、書いたのかい」
「ばねが弱いと、当て板が線から浮くから」
じいちゃんは最後の行まで読み終えると、最初の行へ目を戻した。
「説明文を一緒に考えたぶんは入っていないね」
「それは、教わったことだから」
じいちゃんは紙から目を上げて、しばらく僕の顔を見ていた。
「材料は付けるよ。でも、手間賃はいらない」
「鍛冶屋さんの仕事には払ってるのに、じいちゃんの仕事だけただなのはおかしいよ。同じ職人の仕事なのに」
じいちゃんは、すぐには答えなかった。
帳面をめくって「シンジ」の頁を開き、一番上の行から順に目で追っていく。鍛冶屋さんの穂先鍛造の行まで来ると、じいちゃんは乾いた指先でその行をとん、と一度叩いた。
「……そうかい」
じいちゃんは鉛筆を取り上げた。
「なら、うちの工賃で付けておこうかね」
頁の空いた行に品名が書き足されていく。じいちゃんは一行書くたびに鉛筆の先を紙から上げて、字を確かめていた。
縁金具、一式
蝶番・留め金・ばね、一式
工賃、縁金具取付・持ち手固定
工賃(腕輪)、成形・蝶番・留め金取付・調整
金具の二行の横には、前と同じように仕入れ値が入った。工賃の二行の横に書かれた数字を見て、帳場の柱に目をやる。武具整備の免許証の額の下に、お客さん向けの工賃の表が貼ってある。同じ数字だった。
店の値段でいいよ、と言いかけて、口を閉じた。もう、店の値段だった。
じいちゃんは僕の書いた紙を二つに折って、帳面の裏表紙の内側へ挟んだ。お客さんから預かった注文の控えを挟んでおくところだ。
それから帳面を閉じかけて、手を止めた。
「今日ね、籠手のお客さんが来たよ」
秋に、ひびの入った板を替えて内張りを残した、あの白髪のお客さんだ。
「直した板の具合を見せに、寄ってくれてね。あの方は今でも頼まれて、東京の深いところへ潜っているだろう?」
僕はうなずいた。サキさんから、前に聞いたことがある。
「一緒に潜っているのは、上のほうの一番深いところまで行く人たちでね。その人たちの間で、最近SHINって名前をよく聞くんだそうだよ」
背中がすっと冷たくなった。
上のほうの人たち、と聞いて浮かぶのは、トップランカーと呼ばれる人たちだ。コンビニに並ぶ探索者向けの雑誌の表紙でしか見たことのない顔が、いくつか頭をよぎる。
「…なんて答えたの」
「そうかい、とだけね」
知っているとも、知らないとも言っていない。
じいちゃんは老眼鏡を外して、レンズを指で拭った。拭き終わっても、すぐにはかけ直さない。
「シンジ。名前が知られるのは、悪いことじゃないよ。品物がいいって話だからね」
「うん」
「ただね、品物を買いたい人ばかりが寄ってくるとは限らないからね」
じいちゃんの声はいつもと同じ高さだった。それでも言い終えたあとで、下ろしたシャッターのほうへ一度だけ目をやったのが見えた。
品物を買いたい人のほかに、誰が寄ってくるのか。じいちゃんはそれ以上言わなかったし、僕も聞かなかった。
「今までどおりでいい。変えるほうが、かえって目立つからね」
「うん」
じいちゃんは老眼鏡を胸ポケットにしまって、閉じかけた帳面をこちらへ押してよこした。
「付け間違いがないか、見ておきなさい。先に上がるよ」
階段のきしむ音が二階へ上がっていく。
気がつくと、スイ様が電卓の上に正座していた。
「おや、今度は貸し借りではないのですね」
開いた頁を見下ろして、スイ様が言う。白い面が、新しく増えた四行をゆっくり一行ずつたどっていく。
前にこの帳場で似たことを言われたとき、僕は返事を飲み込んだ。なぜ自分で払いたいのか、まだうまく言えなかったからだ。
「はい」
今夜は声をひそめる必要もない。
「じいちゃんの仕事に、払うんです」
スイ様は面をこちらへ向けたまま、少しのあいだ黙っていた。それから「そうですか」とだけ言って、正座のまま帳面のほうへ向き直る。
僕も四行を上から読み直した。付け間違いは一つもなかった。
土曜日の夕方、作業台で彫刻刀を研いでいると、勝手口が二回鳴った。アイカの叩き方だ。
開けると、アイカが立っていた。探索から直接来たらしく、胸当ても外していない。その縁には、乾いた土が白くこびりついている。ほかの三人はもう帰ったらしい。
「ナツメが、腕輪どうなったか聞いてこいって」
そう言ったアイカの右の頬に、赤い線が一本走っている。
頬骨のすぐ下で、長さは指の幅くらい。血はもう止まっていて、線の端に小さな粒になって乾いている。まわりの肌が、うっすら赤い。
「そ、それ」
自分の頬を指さすと、アイカは手の甲でそこに触れた。
「平気。石が跳ねただけ」
「消毒は?」
「マオがした」
「絆創膏あるけど…」
「いい。貼るとかゆくなる」
アイカは頬から手を下ろす。それで話は終わり、という顔だ。
「腕輪、使えたって。魔力が手首で滞らなかったって」
「回らなかった?」
「回らなかったって」
「ふうん。ナツメ、たぶん喜ぶ。自分の手首が真ん中の段だって、ちょっとうれしそうだったから」
アイカは左の手首に目を落として、ブレスレットの石を右手の指で一度だけ叩いた。
編み帯の端の三目だけ、革のつやがわずかに違う。前腕の防具に当たらないように、秋に僕が編み直したところだ。帯は手首の上でまっすぐに座っていて、石のドームも甲の側から動いていない。
十層から帰ってきた日、アイカはこの勝手口で「ブレスレットのこと、忘れてた」と言った。手首を気にせずに剣を振れたのなら、それでいいと思っていた。
あの日も、アイカの右の手のひらには赤い跡が残っていた。今日はそれが頬にある。
次に同じことがあったら、と考えかけて、やめた。やめても、赤い線は目の前から消えない。
「…何」
アイカが眉を寄せる。気づかないうちに、ずっと頬を見ていたらしい。
「なんでもない」
「見すぎ」
アイカはそう言って顔をそむけると、勝手口の取っ手に手をかけた。
「帰る。ナツメに言っとく」
「うん。…気をつけて」
「うん」
勝手口が閉まる。路地を遠ざかっていく足音は、いつもより重かった。
その晩は作業台の前に座っても手が動かなかった。練習用の端材に刃先を当てても、線が数ミリで止まってしまう。十層の日も、こうだった。
ブレスレットを渡した日、僕は「練習で作ったやつ。よかったら」と言って、紙袋ごと突き出した。本当は、練習のつもりで彫った線なんて一本もなかったのに。
端を編み直したときは、防具に当たる音を消すためだった。
どちらも、アイカのために手を動かしたことに変わりはない。それでも口にしたのは、いつも別の理由のほうだった。
今度は、売る物でも何かの直しでもなく、初めからアイカのためだけに作りたい。
剣も防具も、アイカはもう自分に合った物を使っている。そこへ余計な物を足して動きの邪魔になるくらいなら、作らないほうがいい。
何を作ればいいのかは、まだ一つも浮かばなかった。頬の赤い線を思い出しても、手首の上でまっすぐに座っていた編み帯を思い出しても、それが形にならない。
新しい方眼紙を一枚出して、作業台に広げる。
鉛筆を取って、いちばん上の升目に先を置いた。図面の題を書くときと同じ大きさで、アイカ、と書く。
その下には、まだ何も描いていない升目が、紙の端までずっと並んでいる。




