第三十話 まだ撃てる
四月朔カナタside
「見て、届いた」
日曜の朝、新宿迷宮の管理棟の控え室で、ナギサがそれだけ言って左の手のひらを開いた。
細い銀色の腕輪が載っていた。
飾りは一つもない。平たく潰したような楕円の輪で、片側に小さな蝶番、反対側に刻みが三つある留め金が付いている。輪の外側には小粒の魔石が一つはまっているだけだ。
「それが前に言ってた例の?」
俺が聞くと、七篠宮ナギサは小さくうなずいた。
《宵の明星》は四人しかいない。俺、四月朔カナタが前に立ち、八重森ゴウが大盾で受け、三日月セナが先を探って遠くから射る。そしてナギサが、雷で全部を終わらせる。世間はこの四人を日本最強と呼ぶらしいが、俺たちにとっては毎週潜る四人というだけのことだ。
「匿名の個人出品だろ?」
壁際の長椅子で大盾の革紐を締め直しながら、ゴウが言った。
「どこの誰が作ったかも分からん物、深いところに持っていくのかよ」
「分からない、というのは本当」
ナギサは腕輪を指先で回した。
「でも、説明文がおかしかった」
見つけてきたのはセナだった。
「掲示板でね」
セナが自分の探索端末の画面をこちらへ向けると、スレッドの題名が見えた。『SHINって何者だよ』。
「槍の穂先がすごい精度だったとか、整備所のおばちゃんが珍しく褒めたとか。あと、作ってるのは隠居した職人のおじいちゃんで、通称シンさん(推定68)」
「かっこ推定って何だよ」
「みんなが勝手に決めてた」
セナが笑う。ナギサは笑わなかった。
「出品履歴は私が見た。明かり、槍の穂先、バックラー。どれも説明文が短くて飾りがない。できることだけ書いてある。それで、今回腕輪が出た」
ナギサは端末を受け取って出品のページを開くと、細い指で説明文の一か所を押さえた。
『使用者から主触媒へ流れる魔力が途中で滞らないよう、回路を整えています。』
「滞らない、と書く職人は普通いない」
ナギサは静かに言った。
「補助の腕輪は、どれも手首のところで流れが詰まる。大手の一番上のでも大なり小なり詰まる。だから威力を上げる品は、詰まりを押し切るぶん魔力を余計に食う。誰もそれを分かっているから、滞らないとは書かない。いや、本当なら書けない」
それから、指を一番下の行へ滑らせた。
『魔法職による実際の使用での性能は、出品者の側では確認できておりません。』
「確かめていないことは確かめていないと書く人の『滞らない』なら、たぶん本当」
それが、ナギサがあの値段を払った理由だった。
「いくらだったの?」
セナが聞くと、ナギサは数字は言わずに「槍より高い」とだけ答えた。セナが口笛を吹いて、ゴウが眉を上げる。ナギサは気にした様子もなく、腕輪の内側を指でなぞっていた。
ナギサという魔法使いは、魔力の一滴にうるさい。撃つたびに端末の魔力の表示を確かめて、どの魔法にどれだけ使ったかを頭の中で帳簿のようにつけている。わずかな損でも損として数える人間だ。
「最上級品は鞄に入れておく。合わなかったら、元のに付け替える」
ナギサが今の最上級品を使い始めて、もう三年になる。大手三社の最上級品を一週間ずつ借りて、三十五層で撃ち比べてから選んだ物だ。威力の上がり方と魔力の食い方を一発ずつ端末に記録して、表にまとめていた。その腕輪は今日、ナギサの鞄の底にしまわれた。
ナギサはそう言って右の手首に腕輪をはめ、留め金は真ん中の段に掛けた。かちり、と小さな音がする。
右手で長杖を握り直して手首を何度か返しても、腕輪は手首の上で回らなかった。
「回らない」
ナギサがぽつりと言った。
ポータルで三十五層へ下りる。
この深さになると、迷宮の壁はもう切り石ではない。黒く濡れた岩肌に、ところどころ鉄錆のような赤い筋が走っている。ライトはとうに途切れて、明かりは各自の装備とナギサの杖の先にまとわせた小さな光だけだ。空気が重く、鼻の奥に金気の匂いが残る。
最初に出てきたのは、黒鉄蟻の群れだった。
膝の高さほどの働き蟻が十数匹と、その後ろに人の背丈を超える兵隊蟻が三匹。兵隊蟻は甲殻が分厚く、剣ではまともに通らない。ナギサの雷が要る相手だ。
「ゴウ、正面。セナ、右の通路を見てて」
「おう」
「右、今のところ何もなし。天井にも張りついてない」
セナの声はいつも半拍早い。蟻の足音が岩肌を伝ってくるより先に、どこから何匹来るかを数え終えている。
ゴウの大盾が通路を塞ぐ。働き蟻がまとめてぶつかってきても、ゴウの足は半歩も下がらない。盾の脇からはみ出してくる働き蟻は、俺が斬り払っていく。壁を這い上がろうとした一匹は、セナの弩が縫い止めた。
「兵隊蟻が来るよ!」
セナの声と同時に、ナギサの杖の先が白く光った。
雷が落ちた。轟音のあとに焦げた匂いが来て、兵隊の一匹が甲殻の継ぎ目から煙を上げて傾く。
いつもの一撃だった。少なくとも、そのときはそう思った。
二発目、三発目とナギサは淡々と撃ち続ける。働き蟻がまとめて痙攣して転がり、兵隊蟻が二匹目、三匹目と崩れていく。群れを片づけて先へ進むと、角を曲がったところでまた別の群れが来た。
雷の音が、いつもと違う気がした。ナギサの雷には、杖から出る瞬間に低い唸りのようなものが混じる。それが今日は、聞こえない。気のせいだと思って、俺は目の前の働き蟻に集中した。
戦いながら、左の手首の端末にちらりと目をやった。四人の名前と、それぞれの体の状態と魔力の残りが、細い帯になって並んでいる。
ナギサの癖は、誰よりも知っているつもりだった。
大きいのを五発撃つと、ナギサの魔力の帯は三割ほどまで減る。そこで一度後ろへ下がって息を整え、回復薬を一口飲む。六発目はそれからだ。何年も前から、そうやって組んできた。
五発目の雷が、二つ目の群れの兵隊蟻を貫いた。
「ナギサ、次で一度下がれ」
いつもどおりに言った。
「まだ撃てる」
返ってきた声は、いつもどおりではなかった。
「……何?」
振り返ると、ナギサは杖を構えたままこちらを見もしなかった。肩が上下していない。五発撃ったあとのナギサは、いつもなら唇を薄く開けて浅い息をしているはずだった。
端末の帯を見直した。
半分近く残っている。
「下がれ、とは言わない。でも、おかしいと思ったらすぐ言え」
「分かってる」
六発目。七発目。
七発目の雷は、通路の奥から現れた一番大きな兵隊蟻に落ちた。黒鉄蟻の兵隊蟻は、ナギサの雷でも二発いる。いつも一発目で甲殻は割れて、中も焼けかける。それでも焼き切るところまでは、あとわずかに届かない。だから、もう一発が要る。何十回も見てきた手順だった。
だが兵隊蟻は、一発で崩れた。
甲殻の継ぎ目から青白い火花を散らして、そのまま前のめりに倒れる。ゴウが盾を構えたまま、それを見下ろした。
「…一発かよ」
群れが片づいたところで、ナギサが杖を下ろした。右の手首の腕輪に目を落としたまま、しばらく黙っている。
「…変。軽い」
それだけ言った。
俺はもう一度、端末の帯を見た。七発撃ったナギサの魔力は、まだ四割近く残っていた。
「今日はここまでにする」
三人が俺を見た。
「何も起きてないよ?」
セナが首をかしげる。
「起きてないから戻る。正体の分からない装備が三十五層で急に止まったら、困るのはナギサだ。確かめてから、また来ればいい」
ナギサは何も言わずにうなずいた。腕輪を外そうとはしなかった。
管理棟には、試射場がある。
正確には、迷宮の一層の入口近くに管理棟が切り分けて設けた区画だ。迷宮の外では魔法は使えないから、試射場はどうしても迷宮の中に置くしかない。分厚い石壁に囲まれた細長い部屋の奥に、当たった魔法の強さを数字で返す測定用の標的が並んでいる。装備の調整に来た探索者が、新しい杖や補助具を試す場所だ。
その日の午後、俺たちはそこを一時間借りた。
「手順を決めておくね」
セナが端末に表を作りながら言った。
「腕輪なしで十発。最上級品で十発。それから、例の腕輪で十発。全部同じ魔法で、同じ距離、同じ標的。一組撃つごとに休んで、魔力をもとの量まで戻してから次にいく。威力は標的の数字で、消費は端末の魔力の表示。最後に平均を出す」
「腕輪なしを基準にするのか」
「うん。素の状態を一として、どれだけ上がって、どれだけ食うか」
ナギサが部屋の端に立って、長杖を構えた。
最初は補助具なしで撃った。雷の槍が標的に吸い込まれて、脇の表示に数字が出る。セナがそれを一発ずつ書き留めていく。十発撃つと、ナギサは壁際の長椅子で回復薬を飲み、端末の帯がもとに戻るまで目を閉じていた。
次に、最上級品の腕輪をはめて十発。
大手の最上級品は、さすがだった。雷の槍は見るからに太くなり、標的の数字も目に見えて上がる。そのかわりナギサの魔力の帯が減るのも速い。いつものことだ。威力を取れば魔力を食う。誰もが知っている取引だった。
最後に、あの腕輪をはめた。
ナギサは留め金を真ん中の段に掛けて、手首を一度だけ返した。撃つ前に腕輪を直す、という仕草は、一度もしなかった。
十発。
雷の槍は、最上級品のときと同じくらい太かった。ただ、杖の先から出るときの音が違う。最上級品のときは何かを押し出すような低い唸りが混じるのに、あの腕輪ではそれがない。すっと抜けるように飛んでいく。三十五層で聞こえなかったのは、気のせいではなかった。
十発を撃ち終えて、ナギサは長椅子に座らなかった。
「疲れてない」
それだけ言って、立ったまま端末を見ていた。
セナは黙って、表の数字を計算していく。指が止まって、最初から計算し直す。それからもう一度。
「…ナギサ、休んでからでいいから、その腕輪でもう十発撃てる?」
「撃てる」
「一組だけだと、偶然かもしれないから」
ナギサは端末の帯がもとに戻るのを待って、もう一度十発撃った。雷の槍は、さっきと同じ音で飛んでいった。セナは二組ぶんの数字を並べて、平均を出し直した。
「出た」
セナが、端末の画面を俺のほうへ向けた。
腕輪なしを一としたとき、最上級品は威力が1.19、魔力の消費が1.31。
あの腕輪は、威力が1.22、消費が0.79。
「…約1.2倍と、約0.8倍」
セナが小さく言った。
「端末も標的も、多少の誤差はあるよ。でも、この差は誤差じゃ説明できない」
部屋の中が、しばらく静かだった。
大手の最上級品で威力をおよそ1.2倍にすれば、魔力の消費はおよそ1.3倍になる。どこのメーカーのどの等級を見ても同じだ。威力を上げれば消費が増え、消費を抑えれば威力が落ちる。何かを伸ばせば何かが重くなる。補助具というのは、そういう物だと思っていた。
あの腕輪は、威力を最上級品と同じだけ上げて、そのうえ消費を減らしていた。
「…逆だな」
ゴウが、いつもより短く言った。
ナギサは腕輪を外して、内側を明かりにかざしていた。指先で内側の面をゆっくりなぞる。
「樹脂。中に、青い粉が混ざってる」
「粉?」
「たぶん魔石の削り粉。それも、等級の高いもの」
ナギサは腕輪を傾けて、内側の線をのぞき込んだ。
「線がねじってある。継ぎ目のところで、線の向きが変わってる。それに、この形」
ナギサは自分の右の手首に、外した腕輪をもう一度当ててみせた。平たい楕円の内側が、手首の形にぴたりと沿う。
「手首は丸くないのに、腕輪はみんな丸い。だから回るし、回ると流れが乱れる。この人は、手首のほうに腕輪を合わせてる」
ナギサがこんなに長くしゃべるのは、珍しかった。
「新しい術式じゃない」
ナギサは腕輪から目を離さずに言った。
「補助の腕輪の回路は、教本に載ってる昔からのもの。その回路のまま、手首の形も継ぎ目も、線の一本一本まで全部詰めてある。誰でも知ってるやり方で、誰もやらないところまで」
「神様が宿ってる、とかじゃないのか?」
ゴウが聞いた。
依代に神が宿れば、持ち主にはその姿が見える。ナギサは腕輪を手のひらに載せてしばらく見つめてから、首を振った。
「何もいない。普通の魔道具」
その一言が、数字よりも重く聞こえた。
剣も同じだ、とふと思った。同じ鋼の、同じ形の剣でも、研ぎ師が違えば切れ味は変わる。刃の角度がわずかに違うだけで、魔物の甲殻に入るか入らないかが決まる。何本も剣を替えながら、俺はそれを覚えてきた。
補助の腕輪で、誰かがそれをやった。
「SHINって、何者なんだ?」
気づくと、口に出していた。
「掲示板じゃ、シンさん(推定68)だよ」
セナが言った。
「隠居したおじいちゃんの職人で、端材を使うのが好きで、字が頑固そうなんだって」
「六十八って、年齢のことかよ」
ゴウが腕を組んだ。
「それで、この手の細かさか。…かなり目がいいんだな」
「運営に聞いても、何も教えてくれないと思うよ。あそこ、そこだけは本当に固いから」
「知らなくていい」
俺は言った。
「誰が作ったかは、どうでもいい。何を作ったかは見れば分かる」
セナが俺の顔を見て、それから小さく笑った。
「じゃあ、どうするの?」
「次に出したら、全部見ておいてくれ。盾でも明かりでも、何でも」
「了解」
「お礼は書く」
ナギサがぽつりと言った。
「何て書くんだ?」
「数字は書かない」
ナギサは腕輪の留め金に、指先で触れた。
「向こうは確かめられないって書いてた。だから、こっちで確かめたことだけ。…滞りませんでした、って」
ナギサは何も言わずに、腕輪をもう一度右の手首にはめた。留め金を真ん中の段に掛けて、手首を返す。
腕輪は、やっぱり回らなかった。




