第二話 このままでいい
ポケットの中で、指が紙袋の角に触れる。
朝、家を出るときに、なんとなく入れてきた。中身はまだ空っぽで、肝心のブレスレットは家の作業台の上だ。帰ったら仕上げて、それから。
四時間目の終わりのチャイムが鳴ると同時に、前の席の男子が振り返る。
「三灯原、購買行く?」
「今日は弁当」
「裏切り者」
何が裏切りなのかはよく分からないまま、そいつは財布を握って教室を飛び出していく。
窓の外の空が、夏よりずいぶん高い。グラウンドでは、どこかのクラスが体育祭の大縄跳びの練習をしていて、数を数える声が切れ切れに聞こえてくる。
黒板には、四時間目の数学の式が消し残されている。日直が消し忘れたらしい。教室じゅうに、誰かの唐揚げと、誰かのカップ麺の匂いが混ざっていた。
窓際の後ろのほうでは、アイカがいつもの三人と机をくっつけている。
パーティーを組んでいる、同じクラスの女子たちだ。スマホの画面をのぞき込んで、次に潜る日の相談でもしているらしい。アイカはほとんどしゃべらずに、ときどき短く何か言って、ほかの三人がそれに笑う。
弁当のふたを開けると、じいちゃんが詰めた卵焼きが斜めに滑っている。
じいちゃんの卵焼きは甘い。ばあちゃんの味をまねしているらしいけど、ばあちゃんのより少しだけ砂糖が多い。本人は気づいていないと思う。
言ったほうがいいのかどうか、もう何年も迷っている。
窓際から、椅子を引く音がする。
アイカたちが弁当を片付けて、四人で廊下へ出ていく。通りすぎるとき、アイカの目が一瞬だけこっちの机に落ちる。
卵焼き、見られたかな。
放課後の廊下は、西日で床が飴色に光っている。窓の外からは、野球部の金属バットの音と、吹奏楽部の音階練習が、交互に聞こえてくる。
放課後、廊下でアイカとすれ違う。
「シンジ」
「おう」
「昨日の、プリン。サキさんにお礼言っといて」
「言っといた」
「そう」
それで終わる。
アイカは仲間の三人と一緒に昇降口のほうへ歩いていく。今日は潜らない日なのか、全員制服のままだ。
僕はポケットの中の紙袋を、もう一回だけ指でつまむ。
帰り道、どこかの庭の金木犀がもう咲き始めていた。角を曲がるたびに、甘い匂いが濃くなったり薄くなったりする。
工房までは、駅の裏から古い商店街を抜けていく。シャッターの下りた店と、まだ開いている店が交互に並んでいて、八百屋の店先には梨とぶどうが山になっていた。
商店街の終わりで一本路地に入ると、急に車の音が遠くなる。その突き当たりに、屋根瓦の黒い二階建てがある。一階の通りに面した側が店で、奥に作業場が続いている。看板は出ていない。知っている人だけが来る店だ。
工房に帰ると、じいちゃんの作業台で、昨日の胸当てが布の上に広げてある。
樹脂はきれいに固まっていて、作業灯の光をつるりと返している。
「おかえり。手を洗っておいで」
「ただいま」
手を洗って戻ると、じいちゃんが胸当てを持ち上げて、裏から作業灯に透かしている。
「シンジ、これを表の棚に。明日の10時にお見えになる方の分だよ」
「はーい」
胸当てを布で包んで、店の表へ運ぶ。
受付ではサキさんが電話をしていて、受話器を肩に挟んだまま、棚の一番上を指さしてくれる。札の名前の横に、明日の日付。そこに置いて、作業場へ戻る。
じいちゃんはもう、次の品に取りかかっている。布をかぶせてあった何かは、細長い杖の頭だったらしい。
僕は自分の作業台に座る。
工具箱の陰から、石と破片を出す。
ゆうべ角を消した裏側を、指の腹でもう一度なぞる。平らだ。
樹脂を掛ける前に、溝の掃除をする。昨日削ったまま寝かせたから、溝の底に白い粉がうっすら貼りついていた。細い溝だと、このくらいでも流れが鈍くなる。
柔らかい毛の筆で粉をかき出して、残ったところはアルコールを含ませた綿棒でそっと拭く。石の溝は深いから奥まで、魔石の溝は浅いから、なでるだけ。
破片をくぼみに仮に置いて、魔力を流す。昨日直した左の線も、ほかの線も、全部すっと抜けていった。
破片の裏に接着剤をほんの少しだけのせて、くぼみに落とす。
すとん、と入る。はみ出した分を、つまようじの先で拭き取る。
接着剤が落ち着くのを待つ間に、腕に巻く部分を用意する。
引き出しから、平たい革紐を二本出す。靴紐を細く薄くしたような、幅の狭いレザーレースだ。
それぞれを真ん中で折り返すと、四本の帯になる。折り返した輪を楕円の両端の穴に一つずつ通して、そこから先を編んでいく。
平四つ編み。四本のうち、いちばん外側の一本を、隣を越えて内側へ。反対側の外側も、同じように内側へ。
革は表と裏で手触りが違う。表のなめらかな面がいつも上に来るように、一本ずつ指先でひねりを直しながら重ねていく。少しでも引く力が偏ると、編み目が片側だけ詰まって、帯がゆるく曲がる。
編み目が、麦の穂みたいに並んでいく。
指でなぞると平らで、角がない。これなら、手首の内側に当たっても痛くない。
両端には、小さな留め金を付ける。
留め金の表には、昨日のうちに模様を入れておいた。細い鏨を金槌で軽く打って、刃の角を少しずつ蹴り進める、蹴彫りという彫り方だ。打った跡が小さなくさび形の点になって、それが連なって線になる。
石の同心円に合わせて、波が寄せては返すような曲線を三本。作業灯の下で傾けると、点の一つ一つが光を拾って、細い波がきらきら揺れて見えた。
アイカの手首の太さは、昨日なんとなく見て覚えた、ような気がする。
……いや、たぶん合ってるはず。念のため、編み帯の長さは少しだけ余裕を持たせておく。
「じいちゃん、UVのランプ借りていい?」
「いいよ。右の引き出しの二段目だね」
じいちゃんは杖の頭から目を離さずに答える。
樹脂は、透明なやつを使う。
石の表面の溝に沿って、ごく薄く伸ばす。溝を埋めるんじゃなくて、模様の上に薄い膜を一枚張るくらい。厚く盛ると、せっかくの彫りがぼやけて見える。
泡が一つ、溝の角に残っている。
針の先でつついて、消す。
ランプの下に置いて、スイッチを入れる。紫っぽい光が作業台を照らす。
待つ。
この待ち時間が、いつも少し苦手だ。
手を動かせないから、余計なことを考える。たとえば、これを渡したら、アイカはどんな顔をするか、とか。
たぶん、特に何も言わない。
アイカは昔から、いいものをもらっても「ありがとう」の一言で終わる。小学生のころ、じいちゃんが作った鈴付きのキーホルダーをもらったときもそうだった。あれ、まだランドセルに付いていた気がする。
ランプが消える。
爪の先で軽くつついてみる。固まっている。
二回目を、もっと薄く重ねる。今度は石の縁から魔石の縁まで、全部。
もう一回、待つ。
二回目が固まったところで、検査機の端子を当てて、魔力を流す。
通る、と出る。
それから、端子を外して、自分の指で流し直す。
樹脂の膜の下で、線がちゃんとつながっている。重さもない。膜一枚ぶん、流れが少しだけ遠く感じるけど、それだけだ。
次に、手首の内側に当ててみる。
裏側はどこも引っかからない。編み帯を回して留め金を留めると、石が手首の上でちょうど平らに座る。
外して、作業灯の下で回してみる。
灰色の中に、ほんのり緑。
てっぺんの青い魔石を中心に、同心円の輪が裾まで何重にも広がっている。その輪を、中心から放射状に伸びる細い線がびっしりと横切っている。樹脂の膜のせいで、線の一本一本が少しだけ光って見える。
……あれ。
これ、けっこう、いいんじゃないか。
自分で作ったものを、そう思ったのは初めてかもしれない。
いつもはどこか一か所、あとからあとから気になるところが見つかる。今は、どこを見ても、それがない。
「できたのかい」
いつの間にか、じいちゃんがこっちを見ている。
「たぶん」
「たぶん、ね」
じいちゃんは笑っただけで、手を伸ばしてこない。
見せてとも言わない。僕が見せないのを、分かっているみたいに。
紙袋をポケットから出して、ブレスレットを入れる。
中でころんと転がる音が、やけに大きい。
勝手口が鳴ったのは、それから30分くらいしてからだ。
「こんにちは」
制服のままのアイカが、顔を出す。
廊下で話したときと同じ格好で、肩口のボブが風で少しだけ乱れている。
開いた勝手口の向こうは夕焼けで、金木犀の匂いが一緒に入ってきた。
「あれ、今日潜らないんじゃ」
「潜らない。通っただけ」
アイカはそう言って、いつもの丸椅子に座る。
通っただけ、にしては、ちゃんと座る。
じいちゃんは、いつの間にか表のほうへ行っている。
店のほうから、サキさんと誰かの話し声がかすかに聞こえる。
作業場に、僕とアイカだけ。
ポケットの中で、紙袋がかさっと鳴る。
じいちゃんは表で、サキさんも表だ。
「これ」
気づいたら、紙袋を突き出している。
「練習で作ったやつ。よかったら」
アイカは紙袋を見て、それから僕の顔を見る。
受け取って、中をのぞく。
指で、そっとつまみ出す。
作業灯の光の下で、アイカはブレスレットをしばらく見ている。
表を見て、裏を返して、また表を見る。魔石から放射状に伸びる線の一本を爪の先でたどろうとして、触れる直前でやめる。
「これ、彫ったの」
「うん」
「全部?」
「全部」
アイカはもう一度、石に顔を近づける。
「細かい」
それだけ言って、また黙る。
長い。
色、やっぱり地味だったかもしれない。
「……ありがとう」
小さい声だった。
それだけ言って、アイカはまたブレスレットに目を落とす。
いつもどおりの、一言。
分かってたはずなのに、ちょっとだけ肩の力が抜ける。
アイカは編み帯を手首に回して、留め金を留めようとする。
片手だと、うまくいかない。二回、三回と、金具の先が輪の横を滑る。
「貸して」
言い終わる前に、アイカはもう手首をこっちに出している。
留め金をつまむ。
アイカの手首の内側に、指の背が少しだけ触れる。思ったより細くて、あったかい。
留まる。
「きつくない?」
「平気」
「石、骨に当たってない?」
「当たってない」
アイカは手首を返したり、握ったり開いたりしている。
石は、手首の上でちゃんと平らに座っている。
「長さ、もうちょい詰めたほうがいいかも。ここ、ちょっと遊んでる」
「このままでいい」
「そう?」
「うん」
アイカは僕のほうを見ないで答える。
視線は、手首の上だ。
それから、急に立ち上がる。
「帰る」
「え、もう?」
「宿題ある」
さっき通っただけって言ってたのに。
勝手口に手をかけたところで、アイカは一度だけ振り返る。
「シンジ」
「なに」
「……また明日」
「うん。また明日」
扉が閉まる直前、アイカが手首を目の高さまで上げる。夕方の光で、石が少し明るい色になる。
じいちゃんが表から戻ってきたのは、そのすぐあとだ。
僕の空になった紙袋と、閉まった勝手口を見て、何か言いかけて、やめる。
「夕飯、何がいいかい」
「……なんでもいい」
「そうかい」
じいちゃんは、それ以上何も聞かない。
僕は空の紙袋を丸めて、ゴミ箱に放る。縁に当たって、床に落ちる。
夕飯のあと、自分の部屋の机に白い画用紙を広げる。
僕の部屋は、工房の二階の、通りに面した六畳だ。窓の下を、ときどき自転車のライトが通り過ぎていく。
本棚の一段は、失敗作の置き場になっている。線が途中で割れた魔石、削りすぎて薄くなった石、模様の向きを間違えた真鍮の板。捨てられずに、薄紙にくるんで並べてある。
窓を少し開けると、鈴虫の声と、まだほんのりぬるい夜の空気が入ってくる。
並べるのは、練習で作ったものの残り。
どれも、アイカのブレスレットより前に作ったものだ。
魔石と木を組み合わせた、木の葉の形の片耳イヤリング。小さなペンダントトップが一つ。髪留めが一つ。
全部、端材の魔石と、その周りに彫った模様でできている。
スマホのライトを横から当てて、写真を撮る。
上から一枚。斜めから一枚。模様が見えるように、ぐっと近寄って一枚。
イヤリングの木は、じいちゃんが杖の柄を削ったときに出た切れ端だ。
木目がきれいだったから、桜の葉みたいな形に削り出して、付け根の魔石から葉先へ葉脈を彫った。葉脈がそのまま回路になっている。ニスを何度も重ねたら、最後は飴色になった。
片耳にしたのは、一対にすると左右で模様をそろえるのが大変だったからで、それ以上の理由はない。
そのイヤリングは、写真が難しい。
正面からだとのっぺりして、彫った線が全然写らない。斜め下からライトを当てると、溝の影がくっきり出る。これだ。
十何枚撮って、三枚ずつ残す。
いつものオークションサイトを開く。
出品者の欄には、昔、登録するときに適当に決めたIDが出ている。
SHIN。
シンジのシン。ほかに思いつかなかった。
取引するときも、相手に分かるのはこのIDだけで、本名も住所も、学校も工房も出ない。それが気楽で、ずっとこのサイトを使っている。
説明文には、いつもどおり材料と大きさだけを書く。
魔石(端材)と木材の、木の葉形の片耳イヤリング。手彫りの葉脈模様入り。
ニス仕上げ。大きさは縦22mm、横14mm。
魔石が入っているのは、魔道具の練習だから当たり前だ。
でも、こんな爪の先みたいな欠片じゃ、魔力は通っても何の効果も出ない。ダンジョンの中でも、ただの飾りだ。お守りみたいなものだと思う。見た目が気に入った人が、普段着けてくれればそれでいい。
売れたお金は、だいたいビットと砥石に消える。
それで次の練習ができるなら、ちょうどいい。
三つ出品し終えたところで、スマホが震える。
アイカからだ。
写真が一枚。
机の上に置いた手首。その上に、ブレスレット。部屋の明かりで、石がさっきより少し黄色っぽく見える。
その下に、一行だけ。
『ありがとう』
……二回目だ。
返事を打つ。
「どういたしまして」は硬すぎて消して、「似合ってる」まで打ったところで、手首しか写ってない写真に似合ってるもないだろと思って、また消す。
『きつかったら言って。直すから』
結局、いちばん普通のやつになる。
送信する前に、もう一回だけ写真を見る。
手首の角度が、ちょっとだけ石がきれいに見える向きになっている。たまたまだと思う。
送信。
既読がつく前に、画面の上に別の通知が出る。
『出品中の商品に入札がありました』
片耳のイヤリングだ。
出してから、まだ十分も経っていない。
へえ、と思う。
誰が買うんだろう。耳に着けて、鏡を見たりするんだろうか。
スマホを伏せて、机の端の画用紙を片付ける。
それから、もう一回だけスマホを表に返す。アイカからの返事は来ていない。既読はついている。
下から、じいちゃんが風呂が空いたよと呼ぶ。




