第一話 左の線
あと少しだけ、左の線が気になる。
ミニルーターを止めても、耳の奥ではまだ回転音が鳴っている気がする。
開けっぱなしの窓から、ツクツクボウシの声が一匹ぶんだけ入ってくる。九月も終わりなのに、まだ鳴いている。首振りの壊れた扇風機が、僕の背中にだけぬるい風を送り続けていた。
作業場は、店の奥に建て増しした古い平屋だ。天井には黒ずんだ梁がむき出しで、そこから裸電球が二つと、作業灯のコードが何本もぶら下がっている。床板は工具を落とした跡だらけで、じいちゃんの作業台の前だけ、長年の足の運びで木の色が白っぽく抜けていた。
壁一面の工具棚には、彫刻刀が刃の幅の順に、ヤスリが目の粗さの順に並んでいる。棚の縁に貼られた小さな札の字は、半分がじいちゃんの字で、半分がばあちゃんの字だ。
油と、削った石の粉と、ニスの匂いが混ざって、この部屋だけの空気になっている。窓から差し込む午後の光の中で、宙に舞った魔石の粉がときどき青くきらめいた。
指先でつまんだ魔石の破片を、作業灯にかざす。小指の爪より小さくて、青みがかっていて、じいちゃんが籠手の飾りを作ったときに出た端材だ。捨てるなら、と缶ごともらってきた中で、いちばん色がきれいだったやつ。
その面に、細い溝を何本も彫ってある。
円を描いて、枝分かれして、また一本に戻る。同じ模様が、破片をはめる台座の石にも続いている。
石は河原で拾ってきたものだ。灰色に少し緑が混じっていて、アイカに似合いそうだと思って拾った。本人には、まだ言っていない。
拾ったときはただのでこぼこした楕円だったのを、砥石で何日もかけて削って、平たいドームの形にした。親指の先より一回り大きくて、手のひらに載せると、伏せたお椀を小さく押しつぶしたみたいに見える。
そのてっぺんに、破片をはめるくぼみを彫ってある。くぼみを中心に、同心円の溝が裾へ向かって何重にも広がっていく。水面に小石を落としたときの波紋を、真上から見たような形だ。
その輪を一本ずつ横切るように、中心から裾まで放射状の細い線をびっしり彫った。はめたときに、破片の線と石の線がぴったりつながるように。
つながれば、流した魔力は破片から石へ、そのまま抜けていくはずだった。
破片をくぼみに仮置きして、指先から魔力を細く流す。
中心から外へ。ほとんどの線は、するすると通る。
左の一本だけ、つなぎ目でかくんとつまずく。
ルーペで追う。石側の溝と、魔石側の溝。
……魔石のほうが浅い。ほんのちょっと。髪の毛の、さらに半分くらい。
石の線はもう彫り終えてるから、触るなら魔石だ。
ビットをいちばん小さい球のやつに替えて、回転を落とす。魔石は見た目よりずっと脆くて、去年は一個、ぱきっとやった。あのときの音は、まだ耳に残っている。
溝の底に当てるんじゃなくて、なでる。
一回。止めてのぞく。もう一回。
精密ヤスリでばりを払って、また流す。
さっきより、ましだ。
でもまだ引っかかる。深さじゃない。向き、かな。魔石の線が、石の線よりほんの少し右を向いてる。
気のせいかもしれないと思って、もう一回流す。
気のせいじゃなかった。
「シンジ、三番の目打ちと、検査機を出しておいてくれるかい」
隣の作業台から、じいちゃんの声がする。
「はーい」
破片を布の上に置いて、石は工具箱の陰に押しやる。べつに見られて困るものじゃないのに、なんでか手がそうする。
じいちゃんの作業台は、今日も渋滞している。
彫り終わった短剣の柄と、樹脂が固まるのを待っている胸当てと、布をかぶせた何か。壁の棚には納品日の札をぶら下げた品がずらっと並んでいて、いちばん手前の札は明後日の日付だ。
うちの工房で道具を作っているのは、じいちゃん一人だけ。
それでこれだけ回っているのが、今でもちょっと不思議だ。
工具棚から目打ちを抜いて、下の段から検査機を出す。
弁当箱くらいの箱に、端子が二本。通るか通らないかしか分からない機械だよ、とじいちゃんはよく言う。
「親方、14時のご予約の方がお見えです」
店のほうから、サキさんが顔を出す。
それから僕を見て、声を落とす。
「シンジくん、あとで冷蔵庫のプリン食べていいからね。今日までなの」
「え、いいんですか」
「親方、甘いもの控えてるから」
じいちゃんが聞こえないふりをしているのが、背中で分かる。
前はばあちゃんがやっていた受付を、今は近所のサキさんがパートで引き受けてくれている。
「ああ、今行くよ。ありがとう」
じいちゃんは手袋を外して、僕を振り返る。
「シンジ、それを持って一緒においで」
店の表は、作業場から扉一枚なのに、別の建物みたいだ。
引き戸の向こうは、通りに面した明るい部屋だ。磨き込まれた板張りの床に、ガラスの陳列棚が二つ。中には、じいちゃんが若いころに作ったという兜の飾り金具や、柄に細かな模様を彫った短剣の見本が、紺色の布の上に並んでいる。どれも売り物じゃない。腕を見せるための品だと、前にサキさんが教えてくれた。
壁際の柱時計が、こち、こち、と遅れぎみに時を刻んでいる。表の通りを走る車の音は、厚いガラス戸に遮られて遠い。削り粉の匂いも、油の匂いもしない。
ここに入るときだけ、僕はなんとなく背筋を伸ばす。
応接のソファにいたのは、何度か見たことのある男の人だった。
30代くらいで、日焼けしていて、腕が太い。テレビの探索特集で見た人だと気づいたのは、たしか三回目に来たときだ。
「お、シンジくん。また背伸びた?」
「伸びてないです。たぶん」
「伸びてるって。前はじいさんの肩くらいだったろ」
そんなに小さかったっけ。
テーブルの上には、革と魔物の甲殻を合わせた籠手がある。
甲の魔石から手首のほうへ、細い模様がびっしり伸びている。この人が来るたび、僕はこっそりこの模様を見るのを楽しみにしている。
「お忙しいところ、すみません」
「いえいえ、ちょうどお約束の時間ですよ。どうぞ楽になさってください」
じいちゃんが向かいに座る。僕は目打ちと検査機をテーブルの端に置いて、半歩下がる。
「左の手首が、最近擦れて痛いんです。あと、中で魔力を流したときに、前より一拍遅い気がして。受けたときの衝撃の散り方が、こう、ワンテンポずれる感じで」
「一拍、ですか」
「ええ。浅いところなら気にならないんですけど、深いところだと、その一拍が」
客はそこで言葉を切って、苦笑いする。
じいちゃんはうなずきながら、籠手の内側の革の縁を、指で順に押していく。
「受けるときは、正面からですか。それとも、流すほうが多いですか」
「流すほうですね。正面からだと、腕ごと持っていかれるんで」
「そうでしょうね。受けたあと、手首を少し内へ返す癖がおありのようだ」
「え」
客が自分の左手首を見て、動かしてみる。確かに、少し内に入る。
本人も知らなかったらしい。僕も知らなかった。革の擦れ方を見ただけで、そこまで分かるものなんだろうか。
じいちゃんは検査機の端子を魔石の脇に当てて、反対の手のひらを甲に添える。
ここは地上だから、魔力を流しても籠手が衝撃を散らしたりはしない。流れる道がつながっているかどうかだけは、どこでも確かめられる。
検査機は、通る、と示す。
「通ってはいますね」
そう言いながら、じいちゃんは手を離さない。
手のひらを模様に沿って、少しずつ手首のほうへずらしていく。縁の金具のところで、止まる。
「ここですね。擦れて金具がわずかに寄って、下の溝を押している。機械は、通るか通らないかしか教えてくれませんから」
「一拍の正体、それですか」
「おそらくは。……シンジ」
急に名前を呼ばれる。
「ちょっと触ってごらん。どんな感じがするかい」
え、今? お客さんの前で?
じいちゃんが場所を空けてくれたので、断る間もない。甲にそっと手を置いて、魔力を細く流す。
魔石から模様をたどって、手首の縁へ。
金具の下で、何かが肩をすぼめて通り抜けるみたいに、ぎゅっと狭くなる。
「……手首のとこ、ちょっと詰まってる」
「うん、そうだね」
じいちゃんはそれだけ言って、籠手を引き取る。
客が「へえ」という顔で僕を見ているので、僕はさっきより一歩多めに下がる。
「甲殻も魔石も、まだまだ持ちます。縁の金具を据え直して、押された溝だけ彫り直しましょう。革の当たりも、手首の返しに合わせて逃がしておきますね」
「助かります。量産品も一応見てみたんですけど、どうもしっくりこなくて」
「手に馴染んだ道具は、そう簡単に手放すものじゃありませんよ。次に潜られるのは、いつごろですか」
「三週間後です。その前に一回、浅いとこで慣らしたくて」
「それなら、10日いただけますか。先にお納めする品が二つありましてね。樹脂が固まるのを待っても、慣らしの日は取れるでしょう」
「十分です」
サキさんが帳面を持って来て、引き取りの日を書き込む。じいちゃんが籠手に札を結ぶ。
帰り際、客はドアノブに手をかけたまま振り返る。
「そういや最近、入口が高校生でぎゅうぎゅうなんですよ。昔はもっと空いてたのに」
「試験明けですからね」
「俺が高校のころは、ダンジョンで小遣い稼ぎなんて言ったら親にぶっ飛ばされましたけどね。できて30年も経つと、変わるもんだなあ」
じいちゃんは笑って、何も言わずに見送る。
表から作業場に戻ると、窓から差し込む光がいつの間にか橙色になっていた。作業台の端に置いた砥石の影が、さっきより長い。
プリンのことを考えていたら、裏の勝手口が二回、軽く鳴る。
「こんにちは」
勝手口の外は、隣の家との間の細い路地だ。夕日が塀の上だけを照らしていて、足元はもう薄暗い。隣のおばあさんが育てている朝顔の鉢が、すっかり枯れた蔓を支柱に絡ませたまま並んでいる。
二葉瀬アイカだ。
スポーツバッグを肩に掛けて、ジャージの上にパーカー。肩口まであるボブの毛先が、汗で少しだけ頬にくっついている。
アイカは昔から、表じゃなくてこっちから来る。予約のお客さんの邪魔になるからと小学生のころにじいちゃんに言われて、それからずっとだ。
「おかえり、アイカちゃん。怪我はないかい」
「はい。浅いところだけだったので」
じいちゃんに小さく頭を下げて、アイカは入口の丸椅子に座る。そこがアイカの席、みたいになっている。
「シンジ、充電器ある?」
「机の端」
アイカは黙ってスマホをつないで、画面が点くのを確かめてから、やっとバッグを下ろす。
「みんなは?」
「駅で解散」
「今日、どうだった」
「まあまあ。シューズ、買い替えられるくらい」
「おお」
「前のは底が減ってて。今日、一回滑った」
「え」
「避けた。平気」
アイカは自分のつま先を見ている。
平気なら、いいんだけど。
表からサキさんがお茶を二つ持ってきて、ついでに僕とアイカの前にプリンを一つずつ置いていく。
「アイカちゃんも、どうぞ」
「……ありがとうございます」
アイカはふたを慎重にはがして、スプーンを容器の縁に沿わせる。ふたの裏についた分まで、ちゃんとすくう。昔からそういう食べ方をする。
しばらく、スプーンの音だけがする。
「おじさんたち、連絡あった?」
プリンを半分くらい食べたところで、アイカが言う。
父さんと母さんのことだ。二人とも冒険者で、夫婦であちこちのダンジョンを回っている。今どこにいるのかは、正直よく知らない。
「連絡はない。でも今月も、振り込みはあったって」
「そう」
「元気なら、それが一番だけれどね」
じいちゃんが、短剣の柄から目を上げないまま言う。
「でもね、シンジの顔を見に帰るくらいは、できるだろうに」
穏やかな声なのに、柄を削る手が止まっている。
アイカのスプーンも止まる。
こういうとき、何を言えばいいのか、僕はまだよく分からない。
「……今度、言っとくよ。顔見せろって」
「ありがとう。まあ、言って聞く二人なら、とっくに帰ってきているだろうけれどね」
じいちゃんは小さく息をついて、また削り始める。
アイカは空になった容器に、はがしたふたをきっちりかぶせる。
それから、アイカの目が僕の手元に落ちる。
「指」
「え?」
「白い」
見ると、指先が削り粉でうっすら白い。
アイカの視線はそのまま、布の上の破片とルーターのほうへ移る。
「何、作ってるの」
「練習。いつもの」
「ふうん」
ふうん、のわりに、目が作業台から動かない。
工具箱の陰の石は、そこからは見えない。見えないのに、僕はなんとなく椅子ごと少し横にずれる。
「そのうち見せるよ」
言ってから、しまったと思う。そのうちって、いつだ。
アイカは一回だけ僕の顔を見て、それから充電器のほうに目をやる。
返事は、少し遅れて来る。
「……うん」
スマホを外して、ケーブルを丸めて元の場所に戻して、立ち上がる。
その手首に、何もついていないのが目に入る。探索のとき邪魔だからと、アイカはアクセサリーの類をほとんど着けない。
あの手首に巻いたら、どんなふうに見えるんだろう。
「お邪魔しました、タツヒコさん。プリン、ごちそうさまでした」
「サキさんに伝えておくよ。気をつけてお帰り」
「シンジ。また明日」
「うん。また明日」
勝手口が閉まる。足音が遠くなって、聞こえなくなる。
約束、しちゃった。
工具箱の陰から石を出して、破片と並べる。
作業灯の下だと、灰色の中の緑がちゃんと見える。
いや、まずは左の線だ。
くぼみに置いて、流す。やっぱり、つなぎ目で右に逃げる。
窓の外はすっかり暗くなっていた。ツクツクボウシの代わりに、草むらで鈴虫が鳴き始めている。開けた窓から入ってくる風が、昼間よりずっと涼しい。
作業場の明かりは、もう作業灯だけだ。じいちゃんの手元と僕の手元に、丸い光が二つ落ちている。光の外側では、工具棚の刃物が鈍く光っていて、梁の影が天井にのびていた。路地の向こうの家から、テレビの笑い声とカレーの匂いが流れてくる。
隣で柄を削る音が、しばらくして止まる。
「河原の石かい」
「……うん。練習」
「そうかい。どこが気になるんだい」
「左の線。つなぎ目で、ちょっと右に逃げてる」
「うん。シンジがそう感じるなら、そうなんだろうね。直したら、もう一度通してごらん」
それだけ言って、じいちゃんは自分の作業に戻る。
「……こんなとこ、誰も見ないと思うけど」
ルーペでやっと分かる、線一本の向きだ。
じいちゃんは手を止めずに、少し笑う。
「神は細部に宿る。本当に神様は宿るんだよ」
出た、と思う。
小さいころは本気にしていた。作業台の下をのぞいて、神様がいないか探したこともある。
神様の宿った道具は、世の中に本当にある。宝箱から出たとか、どこかの神社の鏡がそうだとか、ニュースでたまに見る。でもそれは、このごちゃごちゃした作業台とは関係のない、どこか遠くの話だと思う。
だから、じいちゃんのそれは、手を抜くなって意味だと思って聞いている。
なのに、言われると手が勝手に次の工程へ行くのは、なんでなんだろう。
球のビットを、溝の右の壁にだけ、ちょっとだけ当てる。
削るっていうより、線を左へ押し戻すくらい。ヤスリで縁をなでて、くぼみに落とす。
すとん、と入る。
流す。
中心から、左の線をたどって、つなぎ目を越えて、石の外側まで。
今度は、どこにも引っかからない。
……よし。
隣でじいちゃんが、うなずいたような気がした。見たら、たぶん知らん顔をされる。
あとは樹脂を掛けて、固まるのを待って、腕に巻くところを付ければ終わり。のはず。
なんとなく、石を裏返す。
手首に当たる側は、平らに削ってある。
指の腹でなぞると、真ん中より少し下に、ほんのわずかな角がある。着けても、たぶん誰も気づかない。
でも、手首に当たるのは、ここだ。
机の端では、僕のプリンがふたも開けないまま汗をかいている。それを作業台の奥へ寄せて、いちばん目の細かい砥石に水を含ませた。
石を裏返しに持つ。角を落とすんじゃなくて、面の中に溶かし込むくらいの気持ちで、小さく円を描く。
十回。止めて、指でなぞる。まだ少しある。
もう十回。
…なくなった、かな。
目をつぶって、もう一度なぞる。それから、手首の内側に当ててみる。ひやっとするだけで、どこにも当たらない。
うん。これなら。
これで、残りは本当に樹脂と編み帯だけだ。
明日、アイカが来たら、これを渡そう。
そう決めてから、やっとプリンのふたを開けた。すっかりぬるくなっていたけど、甘さはちゃんと残っていた。




