第二十五話 滞らず
レイナside
通知が来たのは、統計の課題をようやく半分まで片づけた夜だった。
机の端に伏せていたスマホが短く震えて、画面に一行だけ文字が浮かんだ。お気に入りの出品者が、新しい商品を出品しました。
私はノートパソコンを閉じるのも忘れて、スマホを手に取った。
SHIN。
秋に木の葉のイヤリングを買ってから、出品者ページは何度ものぞいている。十二月に革の明かりが出たときは、気づいたときにはもうウォッチリストの登録者が百人を超えていて、入札するか迷っているうちに終わってしまった。今度もアクセサリーだろうかと思いながら画面を開く。
写真の一枚目で、指が止まった。
槍の穂先だった。
白く研ぎ上げられた細身の刃の真ん中に、溝が一本まっすぐ通っている。光の当て方のせいか、溝の底には銀色の細い線が沈むように光っていた。二枚目は袋穂の口を正面から写したもので、三枚目は柄に差して横から全体を写したものだ。
説明文を一行ずつゆっくり読む。イヤリングのときと同じ書き方だった。飾った言葉が一つもなく、できることだけが順番に並んでいる。
重心を中心線上に置き、刃の厚みは左右で揃えています。刺突時の魔力が途中で滞らず、切っ先まで通るよう回路を調整しています。
滞らず、のところをもう一度読み返す。
部屋の隅の傘立てに立ててある短槍に目をやる。大学に入ってすぐ、四人で同じ店に行って選んだ量産品だ。
迷宮で柄の魔石に魔力を通すと、穂先がかすかに震え始める。突く瞬間だけ、魔力が穂先の根元で引っかかるような感触があった。一年半使ってきて、それが普通なのだと思っていた。
普通じゃないものがあるなら、どんなふうに違うんだろう?
それに、七層の岩甲虫のことがあった。
あのときは切っ先だけが甲殻の継ぎ目に食い込み、硬い縁に挟まれて止まった。その手応えを今でも右手が覚えている。木枯らしの神の風がなかったらどうなっていたか、あの日以来なるべく考えないようにしていた。
左耳のあたりで、乾いた葉がかさりと鳴った。
肩の上に、いつの間にか枯れ葉の塊が乗っている。葉の一枚がスマホの画面のほうへ伸びて、写真の穂先を指すように細く丸まった。
「……気になる?」
葉が、かさかさと揺れた。
出品の画面を閉じて、銀行のアプリを開いた。家からの仕送りとは別にしてある、探索で稼いだお金だけを入れている口座だ。魔石と素材を売った分が一年半かけて積み上がっていて、装備はいつもこの口座から買ってきた。
残高を確かめて、頭の中に上限の数字を一つ置く。
それから入札画面に戻って、様子見の額ではなく、最初から取りにいく額を打ち込んだ。
「レイナがまたオークション?」
翌日の昼、学食のテーブルでリツが箸を止めた。
「しかも槍の穂先って、アクセサリーじゃなくて?」
「イヤリングの人なのよ。これと同じ出品者」
スマホの画面を見せると、リツは「へえ」と身を乗り出し、カナメも横からのぞき込んだ。向かいのトオルは食べかけの唐揚げ定食を前に、画面と私の顔を見比べている。
「レイナって、量産品派じゃなかったっけ?」
トオルが言った。
「みんなと同じ棚のがいいって、前に言ってたろ」
「うん。今もそう思ってる」
私はお茶の入った湯のみを両手で包んだ。
「でも、岩甲虫のとき、穂先が継ぎ目で止まったでしょ。あれから、ずっと穂先のこと考えてて」
トオルは何か言いかけて、それからうなずいた。あの日、盾で甲殻を受け止め続けていたのはトオルだった。
カナメは画面の説明文を指でなぞっている。リツとは違うところが気になるらしい。
「それ、柄に合うの?」
「もちろん、ちゃんと寸法は確かめたって。書いてある通りなら、今の柄に合うはず」
「ふぅん、なら取り付けは整備免許のあるところでやってね。自分でやらないこと」
カナメはそう言って、スマホを返してくれた。
「あと、いくらまで出すか決めておきなよ。オークションって、熱くなると止まらないから」
「信用無いわねぇ。そのくらいは決めてあるわよ」
「えらい」
リツがけらけら笑って、私の皿から唐揚げを一つさらっていった。それから頬杖をついて、画面の「SHIN」の文字を眺める。
「ねえ、この人って何歳くらいなんだろ?こういうの作る人って、絶対おじいちゃんでしょ」
「どうかな」
私も、秋からずっと同じことを考えていた。木の葉の葉脈を一本ずつ彫った手。今度は穂先の重さの釣り合いまで整えた手。工房の奥で背中を丸めて、老眼鏡越しに刃を見ている年配の職人の姿が、なんとなく浮かぶ。
「でも、すごく丁寧な人だと思う」
それだけは、分かる気がした。
入札は、思っていたよりずっと静かに進んだ。
明かりのときのように数分おきに値段が跳ね上がることはない。槍を使う人は、明かりを使う人ほど多くないのだろう。それでも一人だけ、私が入札するたびに上回る額を入れてくる相手がいた。名前も素性も分からない。画面に出るのは、英数字を並べた短いIDだけだ。
二日目に上を行かれて、入れ直す。四日目にまた上を行かれる。
最終日の夜、残り時間が十分を切ったころには、画面の現在価格は頭の中の上限のすぐ手前まで来ていた。
部屋の窓際の椅子で、膝を抱えて画面を見ていた。マンションの十二階の窓からは、大学の時計塔の文字盤が白く光っているのが見える。
残り四分で、また同じ相手から入札があった。
現在価格は、決めていた上限をわずかに超えていた。
ここから競り勝てば、口座の残高のかなりの部分がなくなる。次の防具の買い替えも夏の合宿の費用も、しばらくは貯め直しだ。
画面の残り時間が一秒ずつ減っていく。指は入札ボタンの上で止まったまま、動かなかった。
肩の上で、枯れ葉がかさりと鳴った。
傘立ての短槍を見た。それから、左耳の木の葉に指で触れた。薄い艶の下に並ぶ葉脈は、見なくても思い浮かべられる。
この人の作る物なら、と思った。
カナメに、決めてあるって言ったのに。
残り二分で、入札額を入れ直してボタンを押した。相手は、もう重ねてこなかった。
残り時間がなくなって画面に落札の文字が出たとき、膝を抱えたまま長く息を吐いた。それから、出品者に定型の取引メッセージを一通だけ送った。
穂先が届いたのは、翌週の木曜日だった。
イヤリングのときと同じような、きちんとした箱だった。薄紙を一枚ずつ開いていくと、台紙の上に布でくるんだ穂先が留めてある。台紙から外して布を開くと、写真で見たままの刃が現れた。
窓際まで持っていって、光にかざす。
白い刃の真ん中を樋が一本まっすぐ通っていて、その底に沈んだ銀色の線は写真よりずっと細い。光の角度を変えると、白い中にかすかに青みが走る。左右の刃は、どこまで目でたどっても同じ幅で切っ先へ集まっていた。
肩から枯れ葉が一枚離れて、刃の腹にそっと触れた。すぐに戻ってきて、またかさかさと揺れる。
土曜日の朝、短槍と穂先を抱えて、迷宮管理棟の整備所の窓口に並んだ。
受け付けてくれたのは、油の染みた前掛けをした中年の女の人だった。古い穂先を柄から外すと、新しい穂先を手に取ってしばらく黙って眺める。袋穂の口をのぞき、刃を目の高さに持ち上げてまっすぐ見通す。それから指の腹で樋の底をなぞった。
「これ、どこの?」
「個人の出品者さんです。オークションで」
「ふうん」
女の人は柄の先を袋穂に合わせた。差し込むと、穂先は柄の先に吸い付くように収まった。
「ぴったりだね。標準の口径でも、ここまで合うのは珍しいよ」
目釘を打ち終えると、女の人は穂先の根元を握って強く引き、それから左右にひねった。柄の尻を作業台に軽く打ちつけて音を確かめ、もう一度引く。どこにもがたつきがないのを確かめてから、ようやく顔を上げた。
「前のは、魔力を通すと穂先が少し震えたんです」
そう言うと、女の人は外した穂先に目をやった。
「柄の魔石は、今までどおり魔力の送り口だよ。この穂先は、根元の魔石で受けて先へ送る作りになってる。前の穂先の回路が震えのもとなら、今度は収まるはずだね」
「震えなくなるんですか?」
「中で使ってみれば分かるよ」
短槍を返してもらうと、女の人はもう次の客の名前を呼んでいた。
その日は四人で、七層まで潜った。
入口のポータルから五層の下り階段の手前へ飛び、六層の広い通路を抜けていく。木枯らしの神は私の左肩に乗ったまま、いつもより落ち着きなく葉を鳴らしていた。ときどき一枚だけ葉を伸ばしては、右手の短槍の穂先のほうへ向けて、またすぐ引っ込める。
「新しいのが気になるの?」
小声で聞くと、葉がかさかさと揺れた。
最初に出てきたのは灰色狼の三匹組だった。トオルが盾で正面を受け、リツの矢が一匹目の足を止める。カナメの炎の礫が二匹目を下がらせたところで、私は盾の右側から滑り出た。
柄の魔石に魔力を通す。
穂先は震えなかった。代わりに、手元から送った魔力が柄を上っていって、穂先の根元で一度だけ受け止められる。そこから先へは引っかかりもなく抜けていった。いつもなら根元でもたつく一瞬が、どこにもない。
滞らず、と書いてあった。そのとおりだった。
軽い、と思った。穂先が軽くなったわけじゃない。重さは前の穂先とほとんど変わらないのに、突こうとした瞬間に腕にかかっていた小さな抵抗が、まるごと消えている。
一匹目の狼の前足を狙って突く。浅く入れてすぐ引くつもりだったのに、穂先は狙った場所へまっすぐ、思っていたより深く入った。
その深さに驚いて、引き始めるのが一拍遅れた。
狼が刺さった穂先を振り払おうと身をよじった。柄ごと腕が引かれる。その横から、三匹目が低い姿勢で飛び込んでくるのが見えた。
間に合わない、と思ったところへ、トオルの盾が横から滑り込んできた。三匹目の牙が盾の縁で弾かれる。
「引け、レイナ!」
言われて引くと、穂先はどこにも引っかからずにするりと抜けた。狼が悲鳴を上げて跳び退く。
「レイナ、今の深くない?」
後ろから、カナメの声が飛んだ。
「……すごい深かった。ごめん」
こんなに深く入るとは思わなかった。前と同じつもりで突けば、前より深く入る。引くタイミングも、それに合わせて変えなければいけない。
二匹目からは、突く力を少しだけ抜いた。刃が入る手応えを確かめたら、すぐに引く。力を抑えても、前の穂先を強く突いたときほどには入る。引き戻すのは、さっきよりずっと楽だった。
二匹目、三匹目と突くうちに、もう一つ気づいたことがある。
私には、下から突き上げる癖がある。トオルの盾の横から出るときに盾の縁を避けようとして、いつの間にかついた癖だ。前の穂先では、突き上げたあとに切っ先がわずかにぶれていた。
新しい穂先は、ぶれなかった。
下から突き上げれば、その角度のまままっすぐに入る。穂先のほうからどこかへ行こうとしない。自分の手の延長が、ただ先まで伸びているだけのような感じだった。
三匹目が倒れたところで、カナメが後ろから声をかけてきた。
「レイナ、引きが速くなってる。トオルの横、もう半歩前に出られる?」
「大丈夫、出られる」
答えてから、自分でも驚いた。前なら、突いたあとに穂先を引き戻す一瞬が怖くて、盾の陰からあまり離れられなかった。今は、引くときのことをほとんど考えなくていい。
七層の奥でパラライズバイパーが台座の陰から飛び出したときには、もう力加減が手に馴染み始めていた。トオルが盾で頭を押さえたところへ、短く突き入れる。狙った深さまで、刃がすっと通った。
前の穂先なら、鱗の上を滑らないように二度、三度と突き直していたところだ。切っ先が鱗の隙間へ吸い込まれるように入って、バイパーの体から力が抜ける。トオルが盾を上げて、振り返った。
「……マジか、一回?」
「一回」
トオルは何も言わずに、盾を持っていない手で私の肩を軽く小突いた。
帰りのポータルの前で、リツが私の短槍をのぞき込む。
「それ、そんなに違うの?」
「びっくりするくらい違う」
私はうなずいて、穂先の銀の線を指でなぞった。
「別に前のが悪かったわけじゃないと思う。でも、これは……なんて言うのか、邪魔をしない感じがする」
うまく言えなかった。リツは「ふうん」と首をかしげたけれど、それ以上は聞かなかった。トオルだけが、盾を背負い直しながら、なんとなく分かるというふうにうなずいていた。
管理棟で魔石と素材を換金すると、口座の数字がほんの少しだけ戻った。落札で減った分には、まだ全然届かない。それでも画面を見ながら、不思議と払ったお金が惜しいとは思わなかった。
その夜は部屋の床に新聞紙を広げて、穂先の手入れをしていた。
柔らかい布で刃の脂を拭って、樋の底に残った汚れを細い綿棒で取る。銀の線は一日使っても曇り一つない。木枯らしの神は机の上の小皿に収まって、ときどき葉を一枚だけかさりと動かしていた。
綿棒を替えようとして、短槍を新聞紙の上に置いたときだった。
背中のほうで、ぺちん、と何かが床に落ちる音がした。
湿った、柔らかいものを叩きつけたような音だった。綿棒を持ったまま振り返った。
フローリングの真ん中で、何かが跳ねていた。
ぺちん。ぺちん。
前腕ほどの長さの、小ぶりな魚だった。赤みがかった金色の鱗が、天井の明かりを受けてちらちら光る。床の上で体をくねらせて尾びれで何度も床を叩き、そのたびにじりじりと位置を変えている。
鯉だった。
どう見ても、鯉だった。
綿棒を握ったまま、しばらく動けなかった。
水槽なんてないし、窓も閉まっている。それなのに部屋の真ん中で鯉が跳ねていて、床は少しも濡れていない。
魚が床の上にいたら、死んでしまう。とっさにそう思って腰を浮かせかけ、そこでやっと気づいた。鯉は苦しそうにしていない。むしろ元気よく、楽しそうに跳ねている。
ふと、新聞紙の上の穂先に目をやった。
樋の底の銀の線が、さっきよりかすかに明るく見える。
木の葉のイヤリングのときも、こんなふうに突然だった。
「……依代?」
声に出すと、鯉がぴたりと跳ねるのをやめた。
丸い目が、こちらを向いている。言葉が分かったのだろうか?そう思った瞬間、鯉はさっきより大きく、ぺちん、と跳ねた。
机の上で、枯れ葉の塊がふわりと浮き上がった。
木枯らしの神は小皿から離れて、床の鯉のほうへゆっくり下りていく。少し離れたところで止まって、それから鯉の周りをくるくると回り始めた。一周、二周。葉が一枚、鯉の頭の上にそっと乗る。
鯉が跳ねた。
葉が散った。
鯉はそのまま床の上をぺちぺちと進んで、新聞紙の端までたどり着いた。穂先のすぐ横でぴたりと止まって、尾びれを一度だけ振る。そこが自分の居場所だと言わんばかりだった。
木枯らしの神は散った葉をかき集めるように丸まり直すと、少し間を置いて、また鯉のほうへ近づいていった。
私は綿棒を新聞紙の上に置いた。
床の上では、鯉がまた跳ね始めている。その周りを、枯れ葉がくるくる回っている。
「……なんで、鯉?」
答える者はいなかった。
鯉はもう一度、ぺちん、と大きく跳ねた。




