第二十六話 10キロの水
レイナside
翌朝、目を覚ますと、鯉はベッドの足元で跳ねていた。
ぺちん、ぺちん、と掛け布団の上を叩く音が目覚まし時計より先に聞こえた。夢じゃなかったらしい。体を起こすと、鯉は丸い目でこちらを見上げてから、また大きく跳ねた。
「……おはよう」
鯉はもう一度跳ねた。返事のつもりなのかどうかは分からない。
顔を洗いに行けば洗面所までついてくるし、トーストを焼けばキッチンの床で跳ねている。木枯らしの神は昨日の夜から鯉が気になって仕方がないらしく、ずっとその周りを回っていた。葉を一枚乗せては跳ね飛ばされ、それでもまた乗せる。朝から何度もそのくり返しだった。
「ちょっと、朝なんだから静かにして」
試しに言ってみると、鯉はぴたりと止まった。
一、二、三。
それから、さっきより大きく跳ねた。
言葉は分かっているのだと思う。ただ、言うことを聞くかどうかは別の話らしい。
床が濡れることはなかったし、跳ねた跡も残らない。この子が水を出すところも、まだ見ていなかった。木枯らしの神は、相変わらずその周りで葉を鳴らしている。
跳ねるほかには、何ができるのだろう?
穂先の横で跳ね続ける鯉を見ながら、私はコーヒーを一口飲んだ。
「鯉」
月曜日の昼、学食のテーブルで、カナメは赤ペンを止めた。
「鯉ねぇ」
「うん。前腕くらいの長さで、赤っぽい金色。床の上でピチピチ跳ねてる」
「言葉は話すの?」
「話さない。でも、こっちの言うことは分かってるみたい。静かにしてって言ったら、三秒だけ止まったし」
「三秒……」
カナメは律儀にノートに「三秒」と書いた。リツが横から肩を震わせている。
「ほかには?」
「ほかには……跳ねる」
「跳ねる。以上?」
「以上」
リツがとうとう吹き出した。トオルは唐揚げを箸で挟んだまま、なんとも言えない顔をしている。
「木枯らしの神のときと同じね」
カナメはノートを閉じずに、ペンの先でとんとんと机を叩いた。
「何ができるのか分からないなら、試すしかないか。土曜日、六層の大部屋。前と同じ場所でどう?」
「あの天井の浮き彫りのとこ?」
「そう。広くて、逃げ道が多いところ」
カナメはそう言ってノートの一番下に「土曜・六層・鯉」と書き足し、それから首をかしげた。
「それにしても、二回続けてなのね。イヤリングと、今度の穂先と」
「うん」
「出品の説明には、神様のことは書いてあった?」
「ううん、書いてなかった。イヤリングのときと一緒よ」
「でしょうね。書いてあったら、たぶん落札できなかったわよね」
カナメはペンを指の間で一回転させた。
「それに作る人も、宿るかどうかまでは分からないんだと思う。だから書かない。……それで二回続けて当てるんだから、レイナの運がいいのか、その人の腕がいいのか」
「うーん、たぶん腕だと思う」
考えるより先に、そう答えていた。
土曜日の六層の大部屋は、秋に来たときと何も変わっていなかった。
見上げるほど高い天井に、古い浮き彫りがびっしり並んでいる。波のような模様の間を何匹もの魚が泳いでいる絵で、そのうちの一匹の口には今でもリツの矢が一本刺さったままになっていた。
「まだある」
リツが天井を指さして、悔しそうに言った。
六層の空気は、相変わらず乾いていた。古い本を開いたときのような、紙と埃の匂いがする。
部屋の中央まで来ると、左肩のあたりで乾いた葉がかさりと鳴った。木枯らしの神だ。それとは別に、右手の短槍のほうで何かが動く気配がした。
鯉が出てきていた。
穂先のそばにふわりと現れて、そのまま床へ落ちる。ぺちん、と一度跳ねると、いつもより落ち着きなく床の上を跳ね回り始めた。右へ左へと乾いた石の上を叩くたびに、尾びれの音がやけに大きく響く。
「どう?出てきた?」
カナメが聞いた。
「出てきた。なんだか、落ち着かないみたい」
鯉は床の石の継ぎ目を伝って、部屋の隅のほうへ跳ねていく。そこには昔の誰かが彫ったらしい、水鉢のような窪みがあった。底には乾いた砂がうっすら溜まっている。
鯉はその窪みに、ぺちん、と飛び込んだ。
次の瞬間、窪みの底から水が湧いた。
澄んだ水がみるみるうちに縁まで満ちて、鯉の背中がすっぽり浸かる。鯉はそこで体をゆっくりくねらせると、それきり跳ねるのをやめた。尾びれだけが水の中でゆらゆら揺れている。
木枯らしの神が窪みの上まで下りてきて、水面すれすれをくるりと一周した。葉の先が水に触れそうになって、慌てたように浮き上がる。
自分が浸かる水を自分で出したのだ。
「……え、水漏れ?」
トオルが窪みをのぞき込んだ。三人には鯉が見えないから、急に床から水が湧いたようにしか見えないはずだ。
「迷宮で湧き水なんて、聞いたことないけど」
カナメもしゃがみ込む。
「……鯉が、入ってるの」
私が言うと、三人は一斉に窪みへ目を落とした。三人にはただ水が溜まっているだけに見えるはずなのに、誰も顔を上げようとしない。
「乾いてるのが嫌だったのかな」
リツが言った。たぶん、そうなのだと思う。
それから、四人で試してみることになった。
「もっと出せる?」
窪みの横にしゃがんで聞いてみた。鯉は水の中で尾びれを揺らすばかりで、出てこようともしない。
「あっちに、出せる?」
部屋の中央を指さすと、鯉はようやく窪みから顔を出した。丸い口をぱくりと開ける。
細い水の筋がまっすぐ飛んで、指さした方向にちょうど立っていたトオルの顔に命中した。
「ちょ、今度は何だよ!」
トオルが顔から水を滴らせて叫んだ。リツが床に膝をついて笑い転げ、カナメは額を押さえている。
左肩から枯れ葉の塊が離れて、トオルのほうへ飛んでいった。濡れた前髪のあたりで止まって、ふう、と小さな風を一つ起こす。トオルの濡れた前髪が、束になってぴんと逆立った。
「お前もか!」
トオルには木枯らしの神も見えない。それなのに、二柱がかりでやられたことだけはなんとなく分かったらしい。
「ご、ごめん、トオル。トオルのいるほう、指さしちゃった……ふふ」
謝りながら、私も笑いをこらえきれなかった。
カナメは笑いながらも、リュックから探索用の水質チェッカーを取り出した。窪みの水に先端を浸し、表示が落ち着くのを待つ。
画面に数字が並んだ。
「……調べられる範囲では問題なしね。濁りも、ほとんどない」
カナメはチェッカーを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「レイナ。これ、すごく大事なことじゃない?長く潜るほど、水の重さが馬鹿にならないのよ。一人一日何リットルも背負って降りてるんだから。それを減らせるかもしれないし」
言われて、自分のリュックの重さを思い出した。水筒と予備のボトルは、いつも一番底に入れている。
静かに湧かせることもできる。細く飛ばすこともできる。同じ水なのに、出し方が違う。
それなら、ほかの出し方もあるのかもしれない。
何度か試すうちに、一つだけ分かったことがあった。
鯉は水を飛ばす前に、必ず跳ねるのをやめる。床の上でも空中でもぴたりと静止し、丸い口を狙う方向へ向ける。それから水を出すのだ。
静止していないときに頼んでも、何も出なかった。
「準備ができたら止まる、ってことかしら」
木枯らしの神が葉を一枚立てるのと、同じなのかもしれない。
「なら、合図が来たら『水』って言って。私たちには見えないから」
カナメがノートに書き込みながら言った。
「了解」
それから、部屋の端に転がっている石の柱のかけらを見た。秋に木枯らしの神の練習で何度も魔物に見立てた、あのかけらだ。
今度は指ではなく、短槍の穂先を向けた。
鯉が空中を泳ぐように近づいてきて、穂先のすぐ横でぴたりと静止した。口がかけらのほうを向いている。
「……水」
鯉の口から、水の塊が飛び出した。
さっきまでの細い筋ではない。両手で抱えるほどの、丸くまとまった水の塊だった。それが一直線に飛んで、柱のかけらに当たる。
当たっても、すぐには飛び散らなかった。
水の塊はかけらの表面に貼りつくように形を変えた。一拍遅れて、重い石がずるりと動き出す。破れない水風船に、重みごと押し込まれているみたいだった。石が床の上を鈍い音を立てて二歩、三歩ぶん滑ったところで、水はようやくまとまりをほどいて床いっぱいに広がった。
部屋の中が、しんとした。
「……今の、水?」
トオルが言った。三人には、私の槍の先から突然水の塊が飛び出したように見えたはずだ。
「水」
「盾で受けたくないな、あれ」
トオルはまだ濡れている前髪をかき上げて、真顔でそう言った。
カナメはノートに何か書きつけてから、顔を上げた。
「もう一回、いつもの形でやってみましょう。トオルが前、レイナは盾の横から。合図が来たら『水』で、トオルは盾を少し下げる」
秋に「風」でやったのと同じ練習だ。トオルが盾を構え、私はその右側から半歩出る。鯉が穂先の横で静止したのを確かめて、「水」と声に出す。トオルが盾を下げた隙間を水の塊がまっすぐ抜けていって、かけらをまた床の上で滑らせた。
「……いけるわね」
カナメはノートの「鯉」の下に、二本線を引いた。
それから私たちは六層を抜けて、七層へ降りた。
岩甲虫に出会ったのは、七層の中ほど、太い柱が何本も並ぶ部屋だった。
最初に気づいたのは、いつものようにリツだった。
「……転がってくる音」
その一言で、背中が冷たくなった。秋の通路の暗がりが、一瞬だけ目の前に重なる。
柱の間の暗がりから、丸まった岩甲虫が転がり出てきた。甲殻が床を削る音を部屋中に響かせながら、一直線にトオルの盾へ向かってくる。
「トオル、正面で受けないで!流して!」
カナメの声が飛ぶ。
トオルが盾を斜めに構えた。正面から止めるのではなく、転がりを横へ逸らすための角度だ。秋の通路では、こんなふうに構える余裕もなかった。ここは広いし、逃げ道もある。
私は盾の右側へ大きく回り込んだ。
左肩で、葉が一枚まっすぐ立った。風なら、あの体の向きを少しは変えられるかもしれない。けれど、あれだけの重さを横から押し続けるなら。
右手の短槍のそばで、鯉が泳ぐように前へ出る。転がってくる岩甲虫の横腹へ口を向けて、ぴたりと静止した。
「水!」
穂先を向けて叫ぶ。
水の塊が飛んで、転がる岩甲虫の側面に当たった。
水は飛び散らなかった。甲殻の丸みに沿って形を変えながら貼りつき、横から押し続ける。一拍遅れて、転がる向きがぐっと左へずれた。トオルの盾の真ん中へ向かっていた甲殻が、盾の左の端へ逸れていく。
トオルはそれを待っていた。斜めに構えた盾の面で甲殻を受けて、擦らせながらさらに外へ流す。歯を食いしばって盾ごと体を押し込むと、岩甲虫は左へ大きく逸れて、柱の台座の段差に乗り上げた。
丸まった体がぐらりと傾き、そのまま横倒しになった。甲殻の隙間から白っぽい腹がのぞいて、脚が宙をかいている。
トオルが盾を構え直して、倒れた岩甲虫へ距離を詰める。私もその右についた。
「今!」
カナメの声と同時に、私は踏み込んでいた。
トオルの盾の横から、半歩前へ。穂先を替える前なら、出られなかった距離だ。
柄の魔石に魔力を通す。手元から送った魔力が根元で一度だけ受け止められて、切っ先まで引っかかりもなく抜けていく。
腹の継ぎ目を狙って、突いた。
力は入れすぎない。それでも穂先は継ぎ目の奥までまっすぐに入った。秋には硬い縁に挟まれて止まった切っ先が、今度は止まらなかった。
すぐに引く。するりと抜ける。
岩甲虫が軋むような音を上げてのたうった。そこへリツの矢が継ぎ目に刺さり、カナメの炎の礫が続けて飛び込む。トオルの剣が、最後に振り下ろされた。
部屋が静かになった。
私は短槍を下ろして、右手を見た。
震えていなかった。
「……いけたね」
カナメが珍しく、はっきり笑った。リツが黙って拳を差し出してきたので、私はそこに自分の拳を軽くぶつけた。
床の上で、鯉が跳ねていた。
さっきまでより跳ね方が鈍い。ぺちん、と一度跳ねて、間を置いてからまた跳ねる。大きな水の塊は、六層で二発、今ので三発目だった。
「疲れたの?」
聞くと、鯉はゆっくり尾びれを一度だけ振った。
木枯らしの神がそのそばに下りていって、葉を一枚、鯉の頭にそっと乗せた。今度は、その葉を跳ね飛ばさなかった。
帰りのポータルの前で休んでいるとき、カナメがリュックから折りたたみのタンクを取り出した。広げると、10リットルと書いてある。
「レイナ。さっきの水の塊がどのくらいの量だったか知りたいの。同じだけ、静かにここへ入れてもらえないかしら」
私は床の鯉を見た。ぺちん、と跳ねて、また間を置く。頭には、木枯らしの神の葉を乗せたままだ。
「……今日は、やめておきたい」
カナメは私の顔と、私が見つめている足元を見比べた。それから黙ってタンクをたたみ直した。
「そうね。次でいいわ。明日、もう一度来られる?」
疲れているときにまで頼みたくなかった。力を貸してくれるのは、この子のほうなのだ。
翌日の日曜日、四人でもう一度六層まで降りた。
昨日の大部屋に入ったとたん、鯉は穂先のそばから飛び出して、窪みまで一直線に跳ねていった。すっかり元どおりの跳ね方だった。
カナメが10リットルのタンクを広げて、床に置く。
「……昨日の大きな水と同じだけ、ここに入れられる?」
鯉に聞くと、一拍おいてからタンクの口のそばまで泳いできた。そこでぴたりと静止する。
今度は飛ばさなかった。丸い口から、水が静かに流れ落ちていく。
タンクがみるみる膨らんでいく。水の音が止まったとき、タンクは口のすぐ下までちょうどいっぱいになっていた。
カナメがタンクの目盛りを見る。
「10リットル。水なら、ほぼ10キロね」
トオルがタンクの持ち手をつかんで、片手で持ち上げた。中の水が大きく揺れ、もう片方の手を底へ添える。
「……これで一発ぶんか」
それから、部屋の端の柱のかけらに目をやった。昨日、水の塊に押されて床を滑った、あのかけらだ。
「……これが、あの速さで飛んでくるのか」
誰も、すぐには何も言わなかった。
その夜、部屋の床に新聞紙を広げて穂先の手入れを終えてから、私はスマホを手に取った。
取引の画面を開くと、SHINの名前の下に、落札したときに送った定型のメッセージが一通だけ残っていた。
何度か書いては消して、最後にこう打った。
『先日、槍の穂先を落札した者です。以前は木の葉のイヤリングでもお世話になりました。』
『穂先、本当にありがとうございました。突いたときに魔力が引っかからず、引き戻しも驚くほど軽くて、仲間と一緒にびっくりしています。苦手だった魔物にも、昨日は落ち着いて向き合えました。』
『それから、イヤリングに続いて、今回の穂先にも神様が宿りました。今度は鯉の姿をしています。よく跳ねます。』
『大切に使わせていただきます。』
送信ボタンを押してから、「よく跳ねます」は余計だっただろうかと思った。
新聞紙の上で、鯉が尾びれを一度だけ振った。




