第36話
レイアの思考は完全に停止していた。
咄嗟に死を覚悟したのも束の間、ほんの一瞬視界が激しく揺れたと思ったら、ついさっきまで自分が立っていた場所――その背後の石壁に、巨大なハルバードが深々と突き刺さっている。
そして、自分をしっかりと抱きかかえる誰かの腕。
反射的に体を硬直させながら、おそるおそる顔を見上げた。
――息を呑む。
あどけなさの残る中性的な顔立ち。
ふわりとした癖のある黒髪に、透き通るような白い肌。
レイアの心臓が、跳ねるような音を立てて高鳴った。
瞬時に頬が熱く染まり、耳の先まで真っ赤になる。
そんな彼女の様子など微塵も気に留めず、ディランはライザとリシェルを見つめた。
「もう喧嘩は終わり。いいね?」
まるで幼子に言い聞かせるような、優しくも突っぱねる声。
リシェルのこめかみに青筋が浮かぶ。
だが、ディランに抱えられた愛娘と、石壁に刺さったハルバードを交互に見比べ、最後はぐっと項垂れるしかなかった。
ライザが静かに大剣を背の鞘へ納め、身体をディランの方へと向ける。
「……その子を助けていただき、ありがとうございます、クインズヒル陛下。……今回は、私の失態です」
金の瞳を伏せるライザ。だが珍しいことに、その瞳には悔しさが滲み出ていた。
「クインズヒル……陛下……」
レイアがつぶやく。
――この人が……クインズヒルの王……? こんなに若いの……!?
自分と大して年は変わらないはずだ。
それにもかかわらず、死の運命から自分を完璧に救い出してみせた。
その事実が、レイアの胸を激しく波立たせる。
武芸の心得がないレイアであっても、母が尋常ではない強さを持っていることくらいは知っている。
そして、その母の一歩上をいくライザが、とんでもない怪物だということも。
そんな化物たちの死闘の余波。
弾き飛ばされた凶器に直撃するはずだった自分を、完璧に救い出す――それがどれほど奇跡的な所作なのか、レイアにだって痛いほど理解できた。
九死に一生を得たレイアにとって、命を救ってくれたディランは、もはや白馬に乗った王子様という生易しい言葉では言い表せない存在になっていた。
ディランの傍らへ、サリアがツカツカと歩み寄ってくる。
「ディラン、ありがとう、その子を助けてくれて。……でも、いつまで抱っこしてるの?」
思い切りふてくされていた。
夫であるディランの誇らしい立ち回りに、妻として自分事のように鼻が高く思える。
だが同時にディランが抱きかかえているのは自分と同年代の若き乙女なのだ。
この時ばかりはサリアも18歳の等身大の少女に戻り、露骨な嫉妬を隠そうともしない。
「うん、そうだね。君、降りてもらえる?」
へらっと力なく笑うディラン。
だが、今のレイアの視界には強烈な桃色のフィルターがかかっていた。
柔らかく微笑むディランが、自分を優しく見つめている。
これまでの人生で出逢ったどんな男よりも美しい顔で――。
「……好き……っ!」
「……え?」
ガバッとディランの首へ抱きつき、腕を回した。
「ちょ、ちょっと離れなさいよ、あなたっ!?」
サリアが慌てて引き剥がそうと掴みかかるが、「嫌よ! あんたこそ誰よ!?」と叫んで、レイアは必死にディランにしがみつく。
その泥沼のような様子を、リシェルは複雑極まりない表情で見つめていた。
クリュードは呆れたように肩をすくめ、ライザは興味を失ったようにあっさりと背を向けた。
それから少しして、城の庭には長いテーブルと椅子がずらりと並べられていた。
テーブルの上には料理長グリムドルが腕を振るった豪勢なご馳走が所狭しと並び、グラスには並々と上質なぶどう酒が注がれている。
さらにテーブルの隙間を埋めるように、リゼとランが次々と出来立ての料理を運んできていた。
城は各所が壊れ、庭の芝生もあちこちが黒焦げになっていたが、ディランはもはや気にしていない。
出来上がった料理は、温かいうちに食べるのが一番美味しいのだ。
だから、予定通り豪華な晩餐会を開催することにした。
「ディラン様……あの方たちは一体どなたなんですか……?」
フィーネが、遠くのリシェルとレイアを見やりながら尋ねる。
今やその二人だけではない。追従していた後続の魔導船に乗っていた護衛たちも無事に合流し、ボロボロの服のまま、訳もわからず椅子に座らされていた。
「さあ? 誰なんだろうね? まあでも、大勢で食べた方が美味しいからさ。別に誰でもいいんじゃない?」
あっけらかんと言い放つディラン。
確かに料理の量は十分すぎるほどあるが、どこの馬の骨かも分からない者たちまで晩餐に招くとは……器が大きいのか、単に何も考えていないだけなのか。
フィーネは複雑な心境でディランの横顔を眺めた。
「……なぜ、あなたまで当然のようにここにいるのですか?」
ご馳走を前にしたライザが、隣に座るリシェルへ冷たく問いかける。
「……知り合いみたいな顔しないでよ。クインズヒル王が、食べていけっていうから座ってるの。……しょうがないでしょ」
「断れば良いのでは?」
「断りたいわよっ!! ……でも……レイアがねぇ」
深いため息交じりにレイアへ視線を送る。
レイアの瞳は、少し離れた場所でフィーネと立ち話をしているディランへ釘付けになっていた。
うっとりと頬を赤らめ、瞳を潤ませてディランを見つめている。
ちっ……とリシェルが盛大に舌打ちした。
だがそんな母の苛立ちすら、今のレイアには一切届いていなかった。
「意外ですね。あなたにそんな子煩悩な一面があるとは」
「意外って何よ! ……大体、あんたこそいつまで独り身なのよ! いい加減、剣ばかり振り回してないで身を固めなさいな!」
「……大きなお世話です」
ライザはプイッと顔を背けた。
「それにしても……」
リシェルが肘をつき、頬杖をつきながらディランへ視線を飛ばす。
「何だったのよ、あの動き」
ディランがレイアを救い出した一瞬のことを言っているのだ。
現場にいた誰もが、レイアの凄惨な死を確定事項として思い浮かべた。
あまりにも一瞬の出来事で、誰であっても救出など不可能なはずだった。
それなのに、ディランは動いた。
達人であるリシェルの目すら捉えきれない、圧倒的なスピードで。
ライザもちらりとディランへ視線を向け、ふう……と深く息を吐き出す。
「あの方には勝てませんよ、リシェル。……おそらく、私であっても」
「はぁ!? あの坊やが? バカ言わないでよ」
「事実です。先日、あの方に命を脅かされました」
リシェルが目を見張った。そして信じられないものを見るような目で、ディランを注視する。
「……グリズエットの直感が当たっていた、ということね……」
すっと目を細めながら、リシェルが呟く。
「ルナリアの皇帝陛下が……ですか?」
ライザがつぶやくと、リシェルは悔しそうに吐き捨てた。
「私にはクインズヒル王は殺せないって言ったのよ、あの男。本当に頭に来るわ」
「…………まさか、それがここへ来た理由ですか? 売り言葉に買い言葉で、クインズヒル王を殺しに来たと……」
「何よ。文句あんの!?」
ライザは無言のまま、呆れ果てたように本日何度目かのため息をついた。
あらかたの料理が並び終えたところで、ディランも皆のいる食卓へと向かう。
そこで足をとめた。
左腕にはめた黒いブレスレットに、ふと目をやった。




