第37話
ディランが、古代アークである『エンリルの腕輪』を身に着けている理由は単純だった。
ライザとリシェルの戦いが視界に入る直前、地面に転がっているのをたまたま拾ったのだ。
中庭を抜け、ライザたちのいる裏庭へ向かおうと渡り廊下を歩いていたとき。ちょうどその真上が、ディランの寝室だった。
先ほどの魔導弾の破片がかすめたのだろう。部屋の床の一部が崩落し、ベッドの枕元にしまってあったはずの腕輪が、階下の渡り廊下へと落っこちていた。
ディランとて、この不思議な腕輪がその辺に放置しておいて良い代物ではないことくらいは分かる。
取り急ぎ自分の左手にはめ、再び歩き出した。
そして、裏庭へ出たディランの視界に飛び込んできたのは――巨大なハルバードが、少女に向かって落ちていく絶望的な光景だった。
――危なっ……
そう思った一瞬だった。
『エンリルの腕輪』の加護は、装着者本人のみならず、装着者が「認識した相手」までも危険から強制的に回避させるという、極めて規格外な代物だったのだ。
気がついた時には視界がぐにゃりと歪み、なぜか少女をお姫様抱っこした状態で、皆の後方に立っていた。
――……またこれだ。
久々に味わう不快感。酷い馬車酔いをさらに悪化させたような、胃がひっくり返るような気持ち悪さ。
ディランは思わず、ライザと、その目の前に立つ見知らぬ女へ不快げな視線を向ける。
「ねぇ。何やってるの? 一体」
おかげで自分は、こんなゲロ吐きそうな思いをしているというのに。
まあ、結果的に少女の命を救えたし、悪いことばかりでもない。
……ただ、あの強烈な吐き気は当分味わいたくない。
そんなふうに先ほどの様子を思い出し、ディランは左手から腕輪を外した。
これ以上、勝手におかしな魔法(?)が発動してはたまらないと、傍らのフィーネに手渡す。
「ごめん。これを僕の寝室のクローゼットにしまってきてもらえる?」
「はい。……ええと、これは何でしょうか? ディラン様の装飾品に、このようなものがありましたっけ?」
「前に拾ったんだよ」
「……一国の王様が、拾い物を身につけるのはどうかと……」
ジトッとした非難の目を向けながらも、フィーネは言われた通り腕輪を預かり、寝室へと向かった。
ディランはその後ろ姿を見送り、皆の待つテーブルへと歩き出した。
和やかに宴が始まった。
どこの国の法律でも、酒はだいたい十五歳から飲めることになっている。
ディランもサリアも、他の者たちもみな、上質な葡萄酒を煽って程よく気分を良くしていた。
目の前にはテーブルを埋め尽くすほどのご馳走。
草原から吹き抜ける、心地よい夜風。
自然と、その場にいる者たちの心もほぐれていった。
しばらく経った頃、ディランがふと思い出したように声を上げる。
「あ、そういえばさ。君たち、誰?」
リシェルとレイアのことだ。
今さら尋ねるのかと、リシェルが小さくため息をつく。
「……紹介が遅れたわね。私はルナリア魔導帝国皇妃、リシェル・エル・ルナリアよ」
事情を知らないリゼとランが、息を呑む。
フィーネもさっと顔色を失った。
「ルナリア魔導帝国ね……ふーん」
だが、肝心のディランは国名を口ずさみながらも、さほど興味がなさそうだった。
その様子に、リシェルがわずかに眉をひそめる。
普通、『ルナリア』という国名を出せば、大抵の者は怯んで顔色を変える。
巨大な帝国の権力を恐れ、虎の尾を踏むことを避けるからだ。
だが、目の前の男にはそれが一切ない。
一国の王がルナリア帝国を知らぬはずもないだろうに。
――虚勢……? 恐れを悟られぬよう、無表情の下で計算を働かせているのかしら……?
だが、数多くの者たちの命乞いを聞き、嘘や虚勢を見抜いてきたリシェルの目をもってしても、ディランは本当に帝国に微塵も興味がないように見えた。
「そして私が、第三皇女のレイア・エル・ルナリアです! クインズヒル王陛下っ」
レイアが頬を赤らめ、ディランの腕にぴったりと肩を寄せながら言った。
反対側に座るサリアが、ディランのもう片方の腕を自分の方へ強く引き寄せながら、冷ややかに尋ねる。
「それで……ルナリア皇妃。先ほど、我が国の王を『殺しに来た』とおっしゃっていましたが……理由を伺っても?」
――え? 殺しに来た?
ディランがひきつった顔でリシェルを見る。
そう、サリアは確かに聞いていた。リシェルとレイアが破壊された魔導船から飛び降りた直後、ライザとの会話で、クインズヒル王を殺しに来た、と言っていた言葉を。
――……この人たちも殺し屋なの? やれやれ、夕食になんか招待するんじゃなかったなぁ……
ディランはうんざりしたように、手元の葡萄酒を飲み干した。
「深い理由なんてないわ。……それに安心して。今さら王を殺すつもりはないから」
リシェルが不満げに肩をすくめる。
「お母様! 当然です!! クインズヒル王陛下を殺すなんて絶対にやめてください! 私の夫にするのですから!!」
レイアがディランの腕にぎゅっとしがみつく。
「夫ですって……?」
サリアのこめかみに、青筋がピキリと浮かんだ。
「……失礼ですがレイア様? ディランは私と結婚するんですのよ?」
無理やり笑顔を作ろうとしているが、顔面がピクピクと痙攣している。
「あら。まだ結婚式は挙げていないのでしょう? 神殿で神に誓いを立てない限り、まだ夫婦とは言えないわ」
勝ち誇ったような顔で、レイアが堂々と告げる。
サリアがギュッと拳を握りしめた。その華奢な身体から、恐ろしい殺気が漏れ出す。
「サリアさん。落ち着きなさい」
ライザが冷ややかな金の瞳をサリアへ向けた。
師の言葉を聞き、サリアがぐっと殺気を押し殺す。
「……すみません、師匠」
「はぁあ……」
リシェルが深々とため息をついた。
「レイア、あんたも勝手なこと言わないの。帝国に婚約者がいるでしょ?」
「あのいけ好かない公爵家の次男坊でしょ? 嫌よ。あたしは認めてないから!」
レイアはプイッと顔を背けた。
リシェルが頭痛を堪えるように頭を押さえる。
「ごめんね、僕はサリアと結婚する予定だからさ」
ディランがへらっと笑って言った。
大体、ついさっきまで自分を殺そうとしていた国の人間と結婚など、まっぴらごめんだ。
ここは全力で断らなければ。
「……なら、第二夫人で我慢するわよ……」
レイアが渋々と、妥協したような様子で呟く。
「……いや、そういう問題じゃないからね?」
困ったようにディランが言うが、もはやレイアの耳には届いていない。
「お母様、いいでしょ? どうせ私は三女だし、公爵との婚姻を断っても大事にはならないはずよ?」
リシェルが頭を抱えたまま唸る。
「……まあ、その通りではあるけれど……」
「ねぇ、お母様?」
レイアが上目遣いで、瞳を潤ませながらねだる。
「……はぁ。グリズエットに聞いてみるわ」
「やったぁぁーー!!」
レイアが歓喜の声を上げ、ディランに思い切り抱きついた。
「ちょっ……まだ決まったわけではないでしょう!? 離れなさいよっ!!」
サリアが必死にディランから引き剥がそうとするが、レイアは抱きついたまま決して離れようとしない。
ディランは、困り果てたような曖昧な笑顔を顔に貼り付けたまま固まっていた。
微妙な雰囲気を孕んだ宴も、やがて終わりに近づいた。
山のようにあったご馳走もあらかた無くなり、樽で用意した葡萄酒も底をついた。
ルナリアの魔導船は全て大破してしまったため、迎えをよこすようリシェルの配下たちが通信魔法で本国へ連絡を取る。
しかし、新たな魔導船の迎えが到着するのは明朝になるという。
仕方なく、一行はクインズヒル城へ一泊することになった。
「窓ガラスは全部割れてるけど、それ以外は特に問題ないだろ」
心配するフィーネの前で、客室の掃除をしながらリゼが言った。
「壊滅的な被害は免れた。崩れたのはディランの部屋だけ」
ランが無表情に呟く。
二人は城の状態を隅々まで点検したが、外壁や屋根の一部が吹き飛んでいたものの、室内自体はほとんど壊れていなかった。
唯一、ディランの寝室だけが致命的に崩れ落ちていたが。
客間は窓ガラスが割れた程度で無傷だったため、全員が泊まれるだけの部屋数は十分に確保できた。
「ディラン……あなたは、どこで寝るの?」
サリアが、ディランの服の袖をきゅっと掴んで言った。
「……どうしよっかなぁ」
さも悩んでいるような口調だが、その実、何も考えていない。
「……良かったら、私の寝室に、来たら……? その……ベッドだって、広いし……」
サリアの頬が、みるみるうちに赤く染まる。
リゼとラン、そしてフィーネはその様子を見て目を丸くしたあと、口元にニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あー、そりゃいいね? ルナリアの皇女もディランを狙ってることだし、さっさと既成事実を作っちまった方がいいだろ」
リゼが言った。
「ばっ……!! そういうんじゃないからっ!!!」
サリアが耳まで真っ赤にして怒鳴る。
だが実際、リゼの言う通り、ルナリア皇女レイアの強烈なアピールに焦りを覚えていたのは事実だ。
うかうかしていると、ディランがふらふらとレイアの方に流されていってしまいそうな気がした。
ディランの腕を、ぎゅっと自分の方へ引き寄せる。
「……私の寝室じゃ、嫌……?」
上目遣いで見上げるその瞳は、恋する乙女そのものだった。
「全然嫌じゃないよ? ありがとー」
ディランはあっけらかんと言い放つ。
女性と寝室を共にする意味を、この男は本当に理解しているのだろうか――周りの誰もが不安になるような、あまりにも軽い返答だった。
そうして、嵐のように騒がしい一日が終わり、夜が更けてゆく。




