第30話
大陸の西――カノア王国のさらにその先に、いかなる国よりも魔導の恩恵を謳歌する大国が存在する。
ルナリア魔導帝国。
かつての大帝国崩壊後、乱立した西側の諸国を、文化も人種もすべて呑み込んで発展を遂げた異色の国家。
無数の国々が複雑な勢力図を織りなすこの大陸において、いま最も覇権に近いと目される絶対強国だった。
帝国を統べるのは、初代皇帝グリズエット。
エルフと人間の血を引く混血(半エルフ)であり、底知れぬ冷徹さと狡猾な知略を併せ持つ「狂気の王」である。
ルナリア皇宮の白亜の玉座の間に、甲高い笑い声が木霊していた。
「あはははっ! 面白いねぇ、実に面白い!」
腰まで伸びたアッシュベージュの髪を振り乱し、小柄な皇帝が愉快そうに腹を抱えて身をよじる。
定期報告に訪れていた側近の男は、主君の大笑いなど意に介さぬ様子で、無表情のまま問いかけた。
「……して、いかがいたしましょうか?」
しばらく玉座の上で折り重なるように体をひくつかせていたグリズエットは、ようやく涙目を指先で拭い、息を整えた。
「面白いけどさぁ。このまま放置しておくのも感心しないね? ……どうしたらいいと思う、リシェル?」
そう言って、隣の倚子に腰掛ける皇妃へと視線を投げた。
修道服を思わせる控えめな衣装でありながら、その手には身の丈を超える鋼鉄の大斧槍が握られている。
およそチグハグな組み合わせだが、皇妃リシェルは愛おしそうにハルバードの柄を拭きながら、ちらりと夫へ目をやった。
「結局のところ、カノア王の娘がクインズヒルに嫁いだことで、カノア側が『書院の鍵』を手に入れた……そういうことでしょ? そんなに可笑しなことかしら。誰だって思いつく策じゃない」
言いながら、リシェルは自らの三人の娘たちの顔を脳裏に浮かべた。
「そうじゃないのさ、リシェル」
グリズエットは再び湧き上がる笑いを噛み殺すように、手で顔を覆った。
「カノアはもっと周到に根回しを進めるつもりだったんだ。大陸各国へ暗躍し、綿密な条件を盛り込んで、自分たちが絶対に損をしないよう盤面を整えようとしていた矢先……それが、ぷははっ!」
こらえきれずに破顔する。
「まさか、他国が送り込んだ暗殺者の死体ひとつで、ぜんぶの計算を台無しにされるなんて……!」
格好の玩具を見つけた子どものように、肘掛けをバンバンと叩く。
「僕だって予想外だったよ! お互いを牽制するために結ばせた大陸協定を、まさかあんな形で逆手にとられるなんてね! あっははは!」
「……ひとりで笑ってばかりでちっとも要領を得ないじゃない。……あなた、説明しなさい」
苛立ちを含んだ声で、皇妃リシェルが側近へ視線を向ける。
側近は微動だにせず、淡々と事実を言葉にした。
「大陸国家間協定では、加盟国による他国への内政干渉および暗殺・妨害工作を厳しく禁じておりました。しかし今回、クレヴァス王国が放った暗殺者がカノア国内で発見されたことで、形式上カノアに協定違反の疑いがかけられたのです」
「……それで?」
「協定違反となれば、カノアは大陸全土を敵に回しかねません。事態を重く見たカノア王は焦窮し、一刻も早く『書院の鍵』を確定させるため、ほぼ無条件に近い形で王女をクインズヒルへ嫁がせざるを得なくなりました。結果としてクインズヒルはカノアの後ろ盾を得ることとなり、周辺諸国も、以前よりクインズヒルへ手を出しづらい盤面が完成しました」
「……ふーん。そういうこと」
リシェルは興味なさそうにつぶやいた。
「たかが16歳の小僧がそこまで見通していたのだとしたら、実に見事だ! 大陸協定の発起人である僕としても、感服せざるを得ないよ!」
愉快そうにグリズエットが喉を鳴らす。
「なら……」
ハルバードの凶悪な刃先に目をやりながら、リシェルがボソリと漏らした。
「カノアもクインズヒルも、まとめて滅ぼしてしまえばいいんじゃないかしら? 協定なんて、今ここで破棄してしまえば済む話でしょう?」
その物騒な提案に、グリズエットはいたずらっぽく人差し指を振ってみせる。
「何を言いだすんだいリシェル。そんなことをしたら、せっかくのゲームが終わってしまうじゃないか」
「あなたねぇ……」
呆れたように深いため息をつく。
「ゲーム、ゲームって、いつもそればっかり」
すでに絶対的な大国として君臨し、放っておいても遠からず大陸の覇権を手にするであろうグリズエットにとって、「王権書院」の存在は格好の暇つぶしでしかなかった。
うっかり大戦が勃発して国々が自滅し合っても興ざめだし、どこかの大国が武力であっさりクインズヒルを粉砕してしまうのも味気ない。
だからこそ、帝国の威圧を利用して「大陸国家間協定」を各国の首脳に呑ませたのだ。この趣深い玩具で、少しでも長く遊び続けるために。
人間とエルフの混血は、普通の人間とは比較にならない長命を誇る。
数百年という途方もない歳月を生きてきたグリズエットは、世界そのものにすっかり退屈していた。
「……けど、俄然興味が湧いてきたな。凶王なんて大層な二つ名までついて……ディラン・クインズヒルとはどんな男なんだろうねぇ」
赤い瞳が楽し気に細められた。
「いっそ、私が殺してきてあげましょうか? あなたは嫌がるでしょうけど」
片手に持ったハルバートを、まるで羽毛か何かのように軽々と振って見せるリシェル。
「ふーむ……? いや、それも悪くないかもしれないね」
「あら?」
てっきり制止されると思っていたリシェルは、夫の意外な反応に驚いた。
「クインズヒル王はこの数ヶ月で、無数の刺客を退けている。……案外、君をもってしても難しいかもしれないよ……?」
にやにやと挑発するように笑う夫に、リシェルは心外とばかりに立ち上がった。
「……あなた、聞き捨てならないわよ? それ」
一瞬にして部屋を満たした殺気にも動じることなく、グリズエットは両手を上げておどけてみせる。
「あっはっは! 君の強さを疑っているわけじゃないよ、リシェル。でもね、ちょっと見てみたいんだ。君という脅威を前にしたとき、クインズヒル王がどう立ち回るのかをね」
トントンとこめかみを指で叩きながら、嗜虐的な思考に没頭し始める夫。
その様子にあきれ果てたように、リシェルは肩をすくめた。
「いいわ。じゃあ、殺してくるわね。後で、惜しい駒を失った、なんて文句を言わないでよ?」
「くっふっふ、構わないとも。いつ発つんだい?」
「そうね……今から行ってくるわ」
まるで近所の市場へ買い物にでも出かけるような、気負いのない口調。
命を奪うことが日常の延長線上に過ぎない二人にとって、それはあまりにも自然なやり取りだった。
「今からとなると、僕は同行できないなぁ。公務が山のように溜まっているからねぇ」
心底残念そうに呟いたあと、グリズエットは膝を打った。
「レイアを連れていくといい。彼女、最近外へ出たがっていたからね」
レイアは、二人の間に生まれた三人娘の末っ子だ。
「そうね。じゃあクインズヒル王を殺したあと、カノアへ寄り道しましょうか。評判の菓子店があるらしいから、レイアも喜ぶわ」
物騒な単語さえ除けば、ごくありふれた睦まじい家族の会話であった。
「あなたの魔導船を借りるわよ。――皆、支度をしなさい」
控えていた側近たちへ冷ややかに命じるリシェルに、グリズエットはひらひらと手を振る。
「いってらっしゃい。面白い土産話を期待しているよ」
「それは、クインズヒル王次第かしら」
わずかに横顔だけを振り返って告げると、リシェルはヒールの音を響かせて玉座の間を後にした。
――ちょうど、裏庭でサリアたち三人が、剣聖ライザによる手ほどきを受け始めていた朝と、同じ時刻の出来事であった。




