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ローレライの想い~彼女の卒業式~


 私は彼の絵を描き続けた。


 どれだけ描いても彼の瞳に私の姿がない。


 でも、私はそれでいいと思ってた。


 それを店長が店に飾ってくれた。


 バイトをしていた子達と同じように。


 挫折と苦悩と幸せと哀しみが混じり合った私のいろいろな感情を込めた絵を店長は飾ってくれた。


 それから、しばらく私は自分の気持ちに嘘をつきながら彼と接し続けた。


 たまにお店に来てくれる彼の笑顔と優しさがあったら大丈夫…それだけで充分、幸せだったから。


 でもーー。


 彼は一度も振り返ることなく飛び出していった。


 それを追いかける勇気も私はにはない。


 多分、彼はまたここに来る。


 私に会いに来てくれると思う。


 だけど、私には……無理だと思う。


 耐えきれない。


 だから、私は描き終えた彼の絵を店長に渡すことにした。ここでバイトをした子達は辞めるときに店長に絵を渡す。


 それが、この喫茶店の卒業式。


 誰が始めたか分からないけど皆それをしているみたい。私が店長に渡した彼の絵は上手く描けているとは全く思えない。


 けれど、これが今の私だと思った。


「…店長、私ね」


 差し出された絵をいつものぼんやりとした瞳で見つめている店長に話しかける。


「ああ…」


「……ここ、卒業する」


「そうか。ようやく踏ん切りが付いたか…ふん、長かったな。お前さんは俺の卒業生の中でとびっきり手の掛かる奴だたよ……じゃあ、祝いだ」


 コトンッ。


 そう言って店長は私の前に香ばしい薫りのするブレンドが注がれたカップを置いた。


 それは憔悴しきっていた彼に一度だけ店長が煎れた珈琲で、器も同じもので…それは、店長からの伝言。私は何も言わずに一口それを飲んだ。


「…苦い。でも、美味しい」


 普段は甘めの物しか飲まない私にはブラックはやっぱり苦いと感じたけど、何でだろう…。


 それが堪らなく私の心に染み渡っていく。


「てんちょ~、わたし、わたしーー」


 涙が溢れてくる。


 自分でもどうしたら良いのか分からない。


 私は隠してきた心の嘘を、本当の気持ちを、泣きながら…子供みたいに泣きじゃくりながら私は店長に話したんだ。


「…そうか、頑張ったな」


 店長は優しく私の頭を撫でてくれた。


 子供をあやすようにとても優しく、私が泣き止むまで何時までも何時までもーー。


 どれくらい泣いたのかすら分からない。


「ぐすっ…化粧室に行ってくる」


 まだ見てないけど私の顔はきっと涙でぐしゃぐしゃになってとても人前になんて出られない。


 もう少ししたら常連さんが来る時間だ。


 私は化粧ポーチを持って化粧室に向かう。


「うわぁ……」


 鏡に映る自分の顔に思わず声が出てしまった。


 泣きすぎて目が真っ赤に腫れて化粧も完全に落ちてしまっていて本当に酷い顔だった。


 でも、そんな姿に自然と笑みが溢れる。


 私はスッキリしていた。


 心の中のモヤモヤを全部はき出せたから。


 冷たい水で顔を洗うと心地良くて私は何度も顔を洗って目元の腫れを冷やすと薄く化粧をする。


「…う~ん、まだ少し赤いかな。まぁ、でもさっきよりかは幾分ましだから…いっか」


 鏡の自分と向き合って小さく頷く。


 新しく一歩を踏み出さなきゃ。


 気分を切り替えて私が化粧室の扉を開く。


「にゃぁ~」


 可愛らしい声が聞こえた気がした。


「うん?」


 周囲を見渡すけど何もいない。


 気のせいかな……猫の鳴き声を聞いた気がしたんだけど。


 小首を傾げながら席に戻ってくると新しく煎れてくれた珈琲が芳ばしい香りを漂わせながら私を出迎えてくれる。


 今度は私の好きなカフェオレだった。


「飲んでいい?」


 お預けを食らった犬のようにじぃーとカフェオレを見つめる私に店長が苦笑する。


「あぁ、冷える前に飲んでくれ。泣き虫のお子様にはその味がちょうど良いだろうからな」


「…むぅ」


 少し頬を膨らませて怒ってみるけど店長は口元に微笑を浮かべ楽しそうにしている。


 敵わないな…店長には。


 この喫茶店は本当に診療所だと思う。


 店長はあまり語らない、干渉しない、けれど、ちゃんと見ていてくれて本当に必要なときだけ処方箋をしてくれる。


 私にとっての処方箋はこれ…。


 甘い、甘いカフェオレ、ほんの少しの苦みがアクセントで…でも、それが私の心を癒してくれる。


 店長が作ってくれた初めてのカフェオレは彼がいつも作ってくれた物と何が違うだろう……。


「じゃあ、いただきます」


 先ずは香りを楽しむのが通らしいけど、私は泣き虫のお子様だから関係ない。


 早速、飲んでみる。


 口に含んだ瞬間、カフェオレの甘さが口一杯に広がって私の顔が一気に綻んでしまう。


 美味しいものを食べたり飲んだりすると人は自然と笑顔になる。それは幸せを感じるからだと思う。


「どうだ?…って、その顔を見れば分かるか」


 店長はどこか呆れたような表情を浮かべては緩みきった表情で口の中の余韻を楽しむ私を見ていた。


 さっき飲んだブレンドが苦かったから、余計に甘さが引きだっている気がする。


 カフェオレを少しずつ味わいながら飲んでいた私に店長は思い出したかのように話しかけてきた。


「あぁ、そう言えば…」


「う~ん、なぁ~に?」


 私は完全に緩みきってふにゃあってなりながら幸せに包まれている中で店長が一言ボソリと呟いた。


「…就職はどうするんだ?」


 ビクッと身体を震わせた私はカップを持って立ち上がると店長と視線を合わせないようにしながら少し離れた席に移動しようとするーー。


「こらっ…逃げるな、ここに来て座れ」


「はいっ…」


 しぶしぶ元の位置に座る。


 さっきまでの幸せモードがいきなり二者面談に早変わりして俯きながらチラリと店長を盗み見る。


「…決まってるのか?」


「いえ、ぜんぜん」


 私の答えに店長は深い溜息をつく。


「はぁ…どうするんだ?」


「…どうしよう」


 どこか他人事な私。


「全く……本当にできの悪い奴だな」


 店長の言葉に私はますます小さくなって目の前のカフェオレをじいっと見つめる。


「…ほれっ」


 店長が小さく折りたたんだ白い紙をカフェオレと私の間を塞ぐように差し出した。


「なにこれ?」


 おずおずと受け取りながら中身を確認してみると、この街の小さな美術館の名前が書かれていた。


 私のお気に入りの場所だ。


 あの白亜の外見が好きでよく見に行っていた。


「そこは兄貴夫婦が経営してるんだが、彼奴らも歳だからな。館内で雑務やってくれる学芸員を探してるだと…っで、どうする?」


 どうするとは?えっと、どう言う事だろうーー私の頭の中で上手く整理が出来ない。


 紙と店長を交互に見ながら私が考え込む姿に店長は差し出した紙をヒョイッと取り上げて自分で眺め始めた。


「…えっ?」


 キョトンとする私に店長は困ったような表情を浮かべていた。


「そうだよな、嫌だよな…小さい美術館で給料も安いだろうし別の奴に話を「行くぅ~!私、その美術館で働きたい!」…えっ?」


 私は思わず立ち上がって店長の言葉を遮った。


 行きたい、働きたい、あんな場所で働けるならば給料も安くても良い、私の中で感情が爆発しそうになる。


「いや多分、給料は死ぬほど安いぞ?」


「いい!」


「兄貴夫婦だけだから雑用いっぱいあるぞ?」


「大丈夫!」


「あと、一人だぞ?」


「……えっ?」


 言っている意味が分からなかった。


 美術館と言えば絵の管理や修復作業といった様々な職種に溢れていて一人では管理は絶対に不可能だ。


 素人の私でも分かる。


「だよなぁ、俺もそう思う…だけどな、事実だ。あの美術館は学芸員を一人しか募集していない」


 頭が真っ白になった。


 私に絵の管理や修復作業なんて無理……。


 私はガックリと項垂れる。


「…ぷっ、あははっ」


 私の姿を見て店長が笑った。


 しかも、声を出して。


 初めて見た気がする。


「…何で、笑うのよ」


「悪ぃ、悪ぃ…いやな、お前さんの喜んだり落ち込んだりする姿が近所の犬にそっくりなもんだから……くくくっ」


「…ふんっ、もう知らない」


 笑いを堪えながら、頬を膨らませてそっぽを向く私の姿にまた思い出したかのように笑う。


 私はどかっと座ってカフェオレに口を付ける。


 うっ……笑われるのは癪だけど、やっぱり美味しいな。店長の煎れてくれたカフェオレは笑顔にしてくれる。


「まぁ、お前が行ってみたいんなら良いんじゃないか?まぁ、入って直ぐの新人に絵画の管理や修復なんてやらせないと思うからな……っで、どうする?」


 あの美術館の求人の紙を私の鼻先で左右に振るのをじぃっと見つめながら考えてみる。


 挑戦してみたい。


 あの美術館でーー。


「働いてみたい……」


 ボソリと呟くと


「じゃあ、行ってみな。兄貴達には連絡しといてやるから、できの悪い教え子が働きたいってな」


 店長が私に紙を手渡し、慈愛に満ちた瞳で私の頭を優しく撫でてくれた。


「………卒業、おめでとう」


 そして、私は店長の紹介であの白亜の美術館で働くことになったのだ。

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