ローレライの想い~決別と決断~
「じゃあ、そこに座ってくれる?」
私は嫌がる彼を無理矢理に窓際に座らせた。
「なぁ、俺じゃなくても…」
「もう、四の五を言わないで座ってよ」
最後まで渋る彼の姿が私には新鮮だった。
何だか拗ねた子供みたいでそんな姿を見せてくれるのが嬉しかった。
心がうきうきして早く描きたい気持ちで一杯になりながら彼を座らせてポーズを細かく決めていく。
こんな気持ちになったのは何時ぶりだろう…。
本当に久し振りな気がする。
今まで描きたいものが見つからず悶々としていたのが嘘みたいで今は早く描きたい。
幸いというか、いつも通りというか私達以外にお客がいないからまるで私だけのアトリエみたいだ。
「じゃあ、動かないでね」
「はい、はい、お手柔らかにお願いします」
両手を上げて降参の動作をする彼に私は指定したポーズを取ってもらう。
窓の縁に肘を置いて頬杖をしながら窓から遠くの景色を眺めてもらうのだ。
けれど、デッサンを始めようとしてポーズをとる彼を見た瞬間……私の時が止まった気がした。
近所の公園ではしゃぐ子供の声、壁時計の秒針の音、コポコポとサイフォンから聞こえる全ての音が…私の意識から遠離っていく。
私は窓から景色を見つめる彼の瞳に息を飲んだ。
その瞳の奥の哀しさを知ってしまったんだ。
「うんっ?どうした?」
彼が不思議そうに私を見つめる。
その瞳はいつもの彼のものだった。
だけどーーー。
あぁ……だめだ。
彼の瞳に私はいないんだ。
ハッキリと分かってしまった。
ううん、違う…。
最初から分かってはいたんだ。
ただ、見ないようにしていただけ。
彼の心には私なんかじゃとても太刀打ちできないぐらい大事にしている人たちがいる。
奧さんと別れているのは娘さんのためで決して嫌になって別れたんじゃないって…。
哀しいけれど。
本当は私だけを見ていてほしいけれど。
それは無理なんだ。
分かってる、分かってるけど今だけは…。
「…何でもない、元の位置に戻って」
私は慌てて笑顔を浮かべた。
彼に心配されたくなくて…無理に笑顔を作った。
気付かれたかもしれない。
でも、苦笑気味に「はい、はい」と言って私の指定したポーズを取ってくれた。
心が痛い……でも、見せたくない。
私は笑顔で軽口を言いながらデッサンを始めた。
溢れそうになる涙を必死に堪えながら…。
*
私は描き続けた。
彼だけを見て…ただ、彼の内面は見ないようにして。絵を描いていると不思議だけれど被写体の内面が見える気がする。
きっと、それすらも描きたいって思ってるのかもしれない。そんな絵が時代を超えて人の心を魅了するんだと思う。
だけど、私は彼の内面を見ないよう必死に自分を押し殺しながら描き続けた。
「…休憩したらどうだい?」
店長の声に私はハッと我に返った。
キャンパスを見て私は……声が出なかった。
「必要だろ?」
店長がいつものやる気のない口調で私にカップを差し出してくる。
「…うん」
小さくコクリと頷きカップを受け取る。
甘い香りがした。
いつものカフェオレとは違う甘い匂い…。
ココアだった。
「頑張ってる学生には特別だ」
いつもの口調だけど店長の優しさを感じた。あぁ、分かってるんだ…バレてないと思ってたけど。
正直なところ、もし店長が声をかけてくれなかったら私は泣いていたかもしれない。
ううん…多分、泣いていたと思う。
だって、彼を描けば描くほど私の姿が消えていくのがハッキリと分かったから。
彼の心は奧さんと娘さんで埋め尽くされている。
私の這入り込む余地なんて初めから無かった。
たまたま、あの時だけ…私の入る余地があったに過ぎなかったんだ。
「…俺の分はないのか?」
少しふてくされた表情で文句を言う彼に店長は手を振って心底、嫌そうな顔を浮かべた。
「お前は自分で煎れろ」
「はぁ、そりゃひでぇよ」
ガックリと項垂れる彼をカップ越しに見ていた私は思わず吹き出してしまう。
「ぷっ、笑わせないでよ」
おかしそうに笑う私に肩を竦めながらポケットから煙草を取り出そうとした彼に店長がーー。
「ここは禁煙だ。煙草は外で吸え」
「…えっ?あぁ…うん」
その一言に店長の傍らに置かれた灰皿を見つめる彼は不服そうにしながらも渋々と頷く。
私に気を使ってくれたんだと思う。
だって私の換気扇の下には店長が吸い終わった煙草が山のように積み重ねられた灰皿があるから。
私と彼と目が合う。
私は微笑で彼は苦笑だ。
「じゃあ、10分だけね」
彼の表情があまりにも情けなくて私はついつい許してしまう。
「はいはい…仰せの通りに」
彼が扉を開いて外に置いてある灰皿へと歩いて行く。そこはちょうど店内が見えない位置…店長の優しさが私の心に浸みていくのが分かった。
「…ありがとう」
思わず口にしたお礼の言葉に
「大事なバイトだからな…」
そう言っていつも通りの表情を浮かべた店長を私は見る事が出来ずに暖かいココアを口に含む。
何でだろう…。
甘いはずのココアがしょっぱく感じるのは。
しばらくして彼が戻ってきた。
彼の性格だろうか。
時計を見るときっちり10分後に戻ってきてる。
私の前を通り過ぎていく瞬間、微かにフレーバーの香りがした。彼の匂いだなって思う。
彼とのキスでいつもそう感じてたから。
そんな風に思いながら彼を見つめていると
「うん?まだ、煙草臭いか?」
私の表情に服の匂いを嗅ぎだす。
「ううん、何でもない。じゃあ、さっきと同じポーズでお願いね」
努めて明るく振る舞いながら私は彼に指示を出す。少し元気になれた気がする。
暖かいココアのおかげかもしれない。
その後、私は黙々と描き続けた。
外が少し夕闇に陰り始めた頃、私は彼の絵を描き上げることが出来た……。
「うん、出来た」
私の声に彼はポーズを崩して窓際で疲れた様子で項垂れる姿に私はふと時計に視線を向けて驚いた。
「…えっ?もう、こんな時間なの?まだ一時間ぐらいだと思ってたんだけど…」
「ははっ…まじか。何時までも休憩を入れてくれないから死ぬかと思ったぞ」
彼の言葉に私は苦笑いで応える。
よっぽど集中していたみたいだ。
「っで、どうだ?自分の満足のいく絵が描けたか?まぁ、モデルがあれじゃ知れてるがな」
横目で彼を見てぼやくように呟く店長。
「どう言う事だよ、店長?」
同じ姿勢で凝り固まった身体を解しながら彼は苦笑いで店長のぼやきにツッコミを入れてる。
「ふんっ、言葉の通りだろ?モデルの仕事が終わったんならとっと帰りな。閉店時間はとっくに過ぎてんだ。深夜料金取られたくないならとっとと帰れ」
シッシッと邪魔者でも追い払うような仕草で鬱陶しそうに店長は彼を追い出そうとする。
「開店休業中の店が何を言ってんだか」
ブツブツぼやきながら珈琲代をレジに置いて店を出ようと扉のノブに手をかけて彼はふと立ち止まり振り返ると、少し照れたような表情で私を見つめた。
赤く色づき始めた夕暮れの光が彼を照らしだし、私はその姿に胸が高鳴った。
「うん?どうしたの?」
胸の高鳴りに気付かれないようにいつも通りの表情で小首を傾げながら彼を見つめる。
「あぁ、まぁ、格好良く仕上げてくれよな」
何だか照れ臭そうに話す彼の姿にドキッとした。私、やっぱり……好きだよ。
どうしようもないと思った。
好きなものは好きなんだって。
彼が出て行って私は力無く床に座り込んだ。
無理をしすぎたんだと思う。
「……ったく、あんま掃除してないんだから、そんなとこに座ってると服が汚れるぞ。こっちきてカフェオレでも飲んでろ。インスタントだけどな…」
「飲食店でそれはどうかと…でも、ありがとう」
店長はあんな事言ってるけど私は知ってる。
私が来る前に念入りに掃除をしていて、埃一つ落ちていないこと…だから、照れ隠しなんだと思う。
私を心配してくれてるんだ。
なんで、男の人は素直に心配してくれないんだろ。
そしたら、店長に惚れちゃうかも知れないのに。




