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父の署名

手帳の革が、乾いていた。


カイは表紙を両手で持っていた。指の腹に細かい傷の筋が伝わってきた——長年の折り目が革に刻まれていた。父の手帳だった。毎朝確認する習慣があった。現場に出る前に机の上で開く。今日はまだ開いていなかった。朝から工程確認が詰まっていた。


城門北側の基礎杭を打ち終えた週だった。


昼を過ぎていた。


集会所の外で声がした。


複数の足音だった。石畳の上を叩く、硬い靴底の音——ハルムの住民の足音ではなかった。住民は革底か木底で歩く。あの金属音は、踵に鉄を打った靴だった。厚底だった。石を歩くための靴ではない。土を一度も踏んだことのない者の靴だった——踵が石に当たるたび、硬く、乾いた音が壁を伝った。


扉が開いた。


「失礼する」


五十代に見えた。肩幅が広く、背が高かった。毛皮の外套を羽織っていた——安物ではなかった。縁取りが細かく、染めの色が均一だった。右手の指に指輪が三本あった。金属の重さが指の間隔を広げていた。左腕の外套の裾に、紫と金の縦縞の紋章が入っていた。後ろに護衛が二人いた。武装していた。剣の柄に手を掛けていなかったが、置き場所を把握している立ち方だった。


カイは手帳を机に置いた。立ち上がらなかった。


「辺境伯」


男は入ってきた。扉が護衛の一人に閉められた。外套の裾が石の床をかすった。


「座ったままか」


「ここが俺の仕事場だ」


ヴァルスは机を一度見た。設計図が広がっていた。寸法の数字が並んでいた。北面城壁の基礎と城門の断面図だった。


「廃村に随分なものを作った」


「廃村じゃない」


「ほう」ヴァルスは設計図の端に目を落とした。「……五百か。よく集めた」


カイは答えなかった。


ヴァルスは室内を見回した。炉の前を通った。炉の石の積み方を確認するような目だった——職人の目ではなく、査定の目だった。値踏みをする眼だった。机に戻ってきた。


「お前の名前はカイか」


「そうだ」


「お前の父の名は」


「セン」


「そうだったか」ヴァルスは外套の裾を一度払った。「王城への陳情書を出したそうだな。返付されたと聞いている——却下されて戻ってきた、ということだ」


カイは机の引き出しに手を置いた。引き出しの木の感触が来た——乾いた、重い木だった。その中に返付の書状がある。記録帳がある。却下された書類が、元の差出人へ送り返されてくる。それが返付だった。


「保管している」


「保管しておけ。どうせ書くことは変わらない」ヴァルスは腕を組んだ。「何を陳情したのか聞いていいか」


「物資の安定供給と、行政区画の公式認定だ」


「断られたな」


「今回は」


ヴァルスは少しの間、カイを見た。値踏みの目が、少し変わった。何かを確認する目だった。


「お前の父も同じことをした」


カイは動かなかった。


引き出しの角が指の腹を押した——それだけを感じていた。


「同じことをして、どうなった。知っているか」


「知っている」


「王城に届かなかった。ハルム丘陵の調査記録は受理されず、お前の父は辺境に飛ばされた。数年後に死んだ」ヴァルスの声は平坦だった。感情が混じらなかった。事実として並べているだけの声だった。「それがここの歴史だ」


カイは設計図を一度見た。


第二城壁の北面線が、机の端から端まで引かれていた。


「俺の父の上申書は、なぜ王城に届かなかったのか」


ヴァルスは答えなかった。


「知っているか」とカイは続けた。「書かれた内容が問題だったのか。それとも別の理由があったのか。記録には届かなかった、という事実だけがある。理由は書いていない」


ヴァルスは外套の前を一度整えた。「記録は記録だ。王城を動かせると思うな」


「城壁が建てば動かせる」


「若造が」


「辺境伯」


「なんだ」


「もう一つ聞く。ハルム丘陵が廃村になってから何十年も、管理人が物資を断たれ続けてきた。その記録を見た。全員が第三の月に補給を止められている——同じ時期に、同じ理由で失敗している。偶然か」


ヴァルスの目が細くなった。


「偶然だ」


「俺の記録にはそう書いていない」


「お前が何を書こうが」ヴァルスは机に手をついた。指先が設計図の端にかかった。「記録など、王城は動かん」


カイは机に手をついた男の指を見た。


設計図の端を、指先が押さえていた。


ヴァルスの手が引いた。「何十年も放置された廃村を掘り起こして、証拠だの記録だのか」ヴァルスは手を引いた。「子供が一人で遊んでいろ。ここが要塞になどならない——お前の父が証明している」


扉が開いた。


護衛が先に出た。ヴァルスが続いた。


外套の裾が石の床をかすって、扉が閉まった。




足音が遠ざかった。


馬の蹄音がした。複数頭だった。石畳を叩いて、街道へ出た。街道の先で音が薄くなった——遠ざかった。消えた。


集会所に静けさが戻った。


カイは机の前に立っていた。


立ったまま、引き出しを開けた。記録帳を出した。返付の書状を出した。その下から、父の手帳を取り出した——机の上に出していたはずが、引き出しの中に仕舞い直されていた。無意識にやっていた。


手帳を手に取った。


革の感触が来た。乾いた、傷の多い革だった。


ゆっくりと、ページを開いた。


ハルム丘陵の測量図が広がった。線が細かった。父の線だった——設計眼を持っていた者の線だった。傾斜角と地層の注記が、小さな文字で入っていた。何度も見た字だった。


カイは手帳の最後のページを開いた。


「上申書:王城陸路管理局宛 提出記録」


一行あった。日付があった。カイが生まれる前の日付だった。


その下に、走り書きがあった。


「受理確認——要確認。返付の場合、署名記録を取ること」


返付の場合、署名記録を取ること。


止められることを、分かっていた。


カイは走り書きの下を見た。


白紙だった。書き続がなかった。


父は帰ってこなかった。署名を取る前に、左遷された。


カイは手帳を閉じた。




扉が開いた。


ヴィルだった。


前髪が乱れていた。走ってきた顔だった。「カイさん——帳面に全部書きました。一言一句です。扉の外で聞いていました。護衛が出てくるまで動きませんでした」


「良い」


ヴィルは帳面を持ったまま、カイの顔を見た。何かを言いかけた。口を閉じた。前髪を払った。


「カイさん」


「何だ」


「辺境伯は、父上の上申書が届かなかった理由を——言いませんでしたね」


「言わなかった」


「だから、知らないはずはない、と」


カイは手帳を机に置いた。


「証明はまだ先だ」


ヴィルは帳面を開いた。何かを書いた。書いて、止めた。「つまりこういうことですよね——今日の発言と、今から探すものを、並べる。そういうことですよね」


カイは答えなかった。


ヴィルはそれ以上聞かなかった。帳面を閉じた。




夜になった。


グランが来た。


鍋を持っていなかった。手ぶらだった——それは珍しかった。扉を閉めて、炉の前に来た。カイは机の前に座っていた。手帳を開いていた。


グランは机の前に来た。横に立った。老棟梁の手が机の縁に触れた。


「ヴァルスが来たか」


「ああ」


「何と言った」


「父の話だ。父も同じことをした、それでどうなった——そう言った」


グランは動かなかった。


炉の石が熱を返し始めていた。冬の夜の静けさが戻っていた。


「……そうか」


それだけだった。


カイは手帳を手に取った。最後のページを開いた。走り書きを見せた。


「返付の場合、署名記録を取ること——父の字だ」


グランは手帳を受け取った。老棟梁の大きな手が、薄い手帳を両手で持った。走り書きを見た。しばらく見た。


声を出さなかった。


「センの字じゃな」


「ああ」


グランは手帳を返した。「……わしは知らなかった。そんなことを書いていたのを」


「俺も今日気づいた」


グランは炉を見た。「だから署名を調べるか」


カイは手帳の末尾のページを開いた。


父の上申書の控えがあった——父が自分の手で書き写したものだった。最後のページに余白の書き込みがあった。「書記は単独では動かない。指示した者の押印か筆跡が、書類のどこかに必ず残る」と。


そのページを開いたまま、記録帳を引いた。冬に調べた歴代管理人の記録のまとめページを開いた。各代の物資打ち切りの記録——承認者の欄が並んでいた。


白紙を一枚取った。


炭筆を持った。


二つを机に並べた。父の上申書の控えと、歴代管理人の物資打ち切り記録——何十年分の書類が、同じ承認者欄を持つかを確かめるための比較だった。


記録帳の承認者欄の文字を写した。細かく写した。字の癖だけを追った——払いの角度、接続の形、字の収め方。複数の記録から、共通する癖を写し取った。何十年も同じ時期に、同じ承認者欄が書類を止めてきた。


次に、父の上申書の控えを見た。


上申書の控えには署名欄があった。承認者の欄だった。


カイは、その欄の文字と、写し取った文字を並べた。


指が止まった。


息が止まった——止まったことに気づいた。


紙の端が指先に触れていた。薄い、乾いた紙だった。動かせなかった。


払いの角度。接続の形。「ル」の字の跳ね方。最後の一文字の収め方。


重なっていた。


何十年分の記録が、一人の手によって書かれていた——その可能性が、机の上の紙二枚に収まっていた。ずっと、この手帳の中に眠っていた。


確証ではない。確証が要る。だが——


ここにあった。


カイはゆっくりと、息を吐いた。


均等に吐いた。


炭筆を持ち直した。


紙に書いた。上申書の承認欄と、過去の記録の承認欄——文字の癖を五点書き出した。払いの角度が近似。接続の形が近似。特徴的な字の書き順が一致。


「筆跡の類似:要検証。確認日:本日」


炭筆を置いた。


グランは机の前で立っていた。何も言わなかった。老棟梁の手が机の縁を、もう一度押さえた。


カイは手帳を閉じた。


「証拠にする」


口に出したのは、その一言だけだった。


グランはゆっくりと、炉から目を離した。カイを見た。老棟梁の細い目が、じっとカイを見た。


何も言わなかった。


何も言わないまま、頷いた。


それだけだった。




グランが出ていった後、集会所は静かだった。


カイは机の前に一人でいた。


記録帳を開いた。


今日の日付を書いた。ヴァルス辺境伯来訪。馬の頭数。護衛の人数。発言の要旨——「記録など、王城は動かん」の一文をそのまま書き移した。


その下に、筆跡の類似を書いた。


二つが揃った。今日の発言記録と、筆跡の写し。


筆跡の写しを、記録帳の後ろに挟んだ。記録帳を閉じた。


証明はまだ先だ。城壁が建ってから——それから、全部を持って行く。


炭筆が工程表に数字を入れた。


問題ない。来週には終わる。


ハルムの夜は静かだった。五百二十三人が眠っている静けさだった。



あとがき: |

第16話です。ヴァルス辺境伯がついにハルムに乗り込んできました。「お前の父も同じことをした、それでどうなった」——その言葉が引き金になり、カイは父の手帳の末尾の走り書きを今日初めて読み直します。「返付の場合、署名記録を取ること」——父は止められることを知っていた。そして上申書の控えの承認者欄の筆跡が、歴代記録の承認者と重なっていた。「証拠にする」——次話へ直接繋がります。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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