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届かない陳情

羊皮紙の重みが、手のひらに戻ってきた。


薄かった。三枚を束ねても、指の間から吹き飛びそうな重さだった。カイは親指と人差し指の腹だけで端を持った。書き直しを三度した陳情書だった。一度目はヴィルが「文が短すぎる」と言い、二度目はグランが「数字を先に出せ」と言い、三度目でようやく形になった。


「これで行く」


ヴィルは帳面を出した。「読み上げますか。確認します」


「いい」


「でも」


「問題ない」


ヴィルは帳面を閉じた。前髪を払った。「……分かりました。フォルスさんに明日の朝、使者の馬の準備を頼んでおきます」


使者はすでに決まっていた。移住者の中に元の行商人がいた。ガッテンという名前の四十歳で、王都の街を知っていた。馬の乗り方も知っていた。文書を持って動ける人間がいる、というのがヴィルの情報だった。


「王都に着いたら」とヴィルが言い足した。「商人仲間に、騎士団周辺の動きを聞いてこられるなら聞いてきてもらえるよう、ガッテンさんに頼んでおきます。商人のネットワークだと宿や荷運びの動きが見えますから」


「頼め」


カイは陳情書を木管に収めた。蓋をした。指先に木の感触が来た。乾いた、軽い木だった。




三日後、ガッテンは出発した。


朝だった。空気がまだ冷たかった。カイは集会所の前に立って、馬が北街道に消えるのを見た。雪が解けかけていた。轍が昨日より深かった。春の前触れだった。


ヴィルが隣に来た。


「一週間で行けます。返事が来るのは三週間後です」


「分かってる」


「その間に春が来ます。石積みを再開するのは」


「ガッテンが帰ったら決める」


ヴィルは少しの間、轍を見た。轍の端に雪の塊が残っていた。「つまりこういうことですよね。返事を確認してから春の工程を組む、ということで」


「そうだ」


ヴィルは帳面を出した。何かを書いた。「春の石材は、三業者から分散して入れる予定です。ウォーカー商会と、北街道の鉄材商人と、あと東の業者を一つ当たっています。カッソの時のように同時に止められないように」


「良い」


「費用は試算で百二ゴールドです。一月目と二月目は移住者の労働力でほぼ賄えますが三月目に石材費が嵩みます」


「分かってる」


「……了解しました」ヴィルは帳面を閉じた。「グラン爺は何と言っていますか」


「何も言っていない」


ヴィルは前髪を払った。「そうですか」




春が来た。


雪が完全に溶けた日の夕方、グランが集会所に来た。鍋を持っていなかった。手ぶらだった。


カイは設計図を広げていた。第一城壁の続きから第二城壁への接続——春になれば石積みが再開する。工程を組み直していた。


グランは設計図を横から見た。老棟梁の目が線の上を動いた。


「春になった」


「ああ」


「陳情書の使者は」


「もうすぐ三週間だ」


グランは設計図から目を離した。炉を見た。火は安定していた。「……送ってから何日じゃ」


「二十日」


「移動だけで二十日か。待機を足せばぎりぎりじゃ」


「返事が来ないことも想定している」


グランは少しの間、動かなかった。「返事が来なかったら」


「春の石積みを始める。第三の月に入る前に、できるところまで積む」


グランは鼻から息を出した。炉の石が熱を返し始めた音がした。


「急ぎすぎるな」


「急ぐ」


グランは炉を一度だけ見た。それ以上は言わなかった。




二十三日目の朝、ガッテンが戻ってきた。


馬の音が聞こえた。カイは倉にいた。石材の在庫確認をしていた。足音が近づいた。ヴィルの声がした。


扉が開いた。


ヴィルだった。


「カイさん」


カイは在庫の紙から目を離した。


ヴィルは帳面を持っていた。いつも通り帳面を持っていた。しかし開いていなかった。帳面の外側を指で叩く癖が、止まっていた。


「ガッテンが戻りました」


「書状は」


「……あります。ただ」


カイは紙を置いた。


「ただ、なんですか」


ヴィルは帳面を一度見た。「騎士団本部に届けたと言っています。五日待って受理証明を受け取りに行ったら、書記から渡されたのが」ヴィルは帳面を開いた。一枚の紙を取り出した。「これです」


カイは紙を受け取った。


軽かった。羊皮紙一枚の重さしかなかった。三週間往復してきたものとは思えない薄さだった。


指先が止まった。紙の冷たさだけが来た。


短かった。


「該当の申請は、現時点において受理の要件を充足せず、返付いたします」


一行だった。理由がなかった。署名があった。騎士団書記の名前だった。


返付——受け取りを拒んで、こちらへ送り返す、ということだった。


カイは紙を裏返した。裏は白紙だった。炉の燃える音だけがした。要件の説明もない。書記の署名が一行あるだけで、陳情書は戻ってきた。


木管がガッテンの鞄から取り出されて、机の上に置かれた。カイはその木管を手に取った。出発した朝と同じ、乾いた木の感触だった。変わらない重さで、変わらない木の匂いがした。三週間で往復した木管が戻ってきた。紐の結び方だけが変わっていた——開けた者がいた、ということだった。


開けた。読んだ。それだけだった。




グランが来たのはその夜だった。


鍋を持っていた。炉の前に置いた。カイは机の前にいた。設計図を広げていた——陳情書ではなく、春の石積みの工程表だった。


「返付だったか」


「ああ」


「理由は」


「ない」


グランは鍋を見た。「……読んだのか」


「一行だけだ。要件を充足せず、の一行だけ。理由はない」


グランは炉の前に腰を下ろした。膝を庇いながら、ゆっくり座った。


「そういうことか」


「ああ」


「……ルーヴの時も、カッソの時も。書状一枚だったと記録にあったな」


「調査中、の一枚だった」


グランは炉を見た。炎が揺れた。石の壁が熱を吸い始めていた。


「書状一枚は、誰かが調整しているのと同じことじゃ」


カイは設計図の線を一本引いた。第二城壁の外壁線だった。


「そうだ」


「センの時も」


「ああ。上申書が王城に届かなかった。届いたかどうか調べたのがグラン爺だ」


「わしが使いを出した。届いていなかった、と言われた。書記に当たったが——当時の書記は今はいない」


グランは声を落とした。鍋の把手を握った手が、動かなかった。そのまま動けなかった。老棟梁の指が、把手の金属を押さえたまま、力が抜けなかった。「誰が止めたかは、分からなかった」


「今回は止めた人間の署名が一つある。書記の名前だ。だが騎士団本部に届けて五日で返付は、書記一人が判断できる期間ではない——受理証明を求めに来た使者に即日渡せたはずが、五日待たせている。上が決めた」


グランは炉を見た。


「今は分からん、ということか」


「今は。でも記録には残る」


カイは机の引き出しから紙を出した。返付の紙だった。その上に、今日の日付を書いた。受け取った経緯を四行で書いた。ガッテンが届けた日付、騎士団本部の名前、書記に受領証明を求めに行った日付、返付された日付。


数字が揃った。紙の上の日付を指でなぞった。


「記録する」


グランは鍋を見た。蓋を一度持ち上げ——それだけで、置いた。鍋を開けずに手を離した。「……記録して、どうする」


「使える時に使う」


グランは少しの間、動かなかった。老棟梁の手が鍋の把手をもう一度持った。


「そうか」


それだけだった。




翌朝、ヴィルが来た。


帳面を持っていた。今度は開いていた。


「カイさん、報告があります。ガッテンから聞いたのですが——王都で商人仲間に会って確認してきたそうです」


「何を」


「騎士団本部の周辺で、最近ヴァルス辺境伯の名代が来たかどうかです。商人のネットワークだと、宿や荷運びの動きで分かります」


カイは手を止めた。指先が、持っていた炭筆の上で静止した。


「来ていたか」


「今年の冬に二回、来ているそうです。どちらも短期で——騎士団周辺に泊まっている」


カイは紙を持った。返付の紙だった。「時期は」


「一回目は冬の中頃、二回目は先月です」


先月は、ガッテンが陳情書を届けに行った頃と重なる。


カイは紙を置いた。設計図を一度見た。第二城壁の外壁線が昨日引いたまま残っていた。


「それだけか」


「……今のところは。もっと詳しく調べますか」


「頼む。ただし急がなくていい。見えすぎると気づかれる」


ヴィルは帳面に書いた。「了解しました」


前髪を払った。「カイさん、それと——今日から石積みの再開ですか」


「明日からだ。今日は在庫の最終確認をする」


「分かりました。移住者に伝えます」


ヴィルは出口に向かった。扉のところで振り返った。「……カイさん、今回の陳情書の件、どうするつもりですか」


カイは在庫の紙を見た。


「記録している」


「それだけですか」


「今はそれだけだ」


ヴィルは少しの間、扉のところで立っていた。帳面の外側を指で叩いた——叩いて、止めた。何か言いかけて、口を閉じた。


「……分かりました。来週の収支を持ってきます」


扉が閉まった。




夜になった。


炉の火は安定していた。カイは机の前にいた。


記録帳を開いた。


陳情書の経緯を書いた四行の下に、ヴィルから聞いた情報を書き足した。ヴァルスの名代が冬に二度、王都の騎士団周辺に来ている。時期の一つがガッテンの陳情書と重なる。


証明はできない。


数字があれば証明に変わる。今はまだ足りない。


カイは炭筆を置いた。設計図に目を移した。第二城壁の外壁線が机の端から端まで広がっていた。


ヴァルスとの繋がりは、まだ数字が足りない。


だが年表に、一行増えた。


陳情書を送った日付。返付された日付。書記の署名。ヴァルスの名代の動き——全部、記録の中にある。紙の上の数字を指でなぞった。積み上がっていくものは確かにあった。


工程表に数字を入れた。春の夜の石の部屋は、冬よりわずかに温かかった。炉の石が熱を返していた。外はまだ冷えていた——だが雪は降っていなかった。


明日、石積みが始まる。


問題ない。来週には終わる。


記録帳を閉じた。



あとがき: |

第14話です。王城への陳情書を送ったカイでしたが、騎士団本部で受け取られ、五日で「要件を充足せず」の一行で返付されました。理由なし、署名は書記のみ。歴代の管理人が書状一枚で止められてきたのと、同じ構造です。ヴィルの情報では、冬にヴァルスの名代が王都の騎士団周辺を訪れていた。証明はまだできない——でも記録には残した。カイは翌朝から石積みを再開します。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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