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第9話「手が言うことをきく(理由はわかりません)」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

起きたら体が重かった。


首を動かすと天井が見えた。いつもの天井だった。宿の二階の天井。板張りで節が三つある。


腕を持ち上げた。内側に薄い線が残っていた。糸の痕だった。赤みはだいぶ引いていた。ルナが薬を塗ってくれたやつが効いているのか、それとも一晩で治りかけているのかは判断できなかった。


(昨日の、あれ)


考えてみたが、よくわからなかった。巣の中で動けなくなって、なんか外れて、宿に帰った。手帳の上でルナが何かを書いていた。ズバンが腕を見ていた。それだけだった。あと腹が減っていたのでスープを飲んだ。


よくわからないことは、よくわからないままにしておく方がいい。


「まあ、今日も依頼がある」


声が出た。


起き上がった。


---


食堂に下りると、ヴィオが隅の席にいた。テーブルの上に湯気のある器があった。何かを飲んでいた。


「おはようございます、カナトさん」


「おはようございます」


目が見えていないのに声の方向がぴたりと合っていた。毎回そうだった。慣れたが、毎回少し止まった。


厨房から女将さんが出てきた。手に布巾を持っていた。


「ちょうどよかった、カナト。頼みたいことがある」


「聞くだけ聞きます」


「裏の薪棚が崩れかけてる。板が一枚ずれてて、そのうち全部落ちる。修繕してほしい」


女将さんが言い終わる前にエプロンの裾で手を拭いた。返事を待つ気がなかった。


「わかりました。見てみます」


「釘と板は裏においてあるから」


「助かります」


女将さんはもう厨房に戻っていた。


俺は椅子を引いて座った。パンと塩漬けの何かが出てきた。食べた。


ヴィオが器を両手で包むようにして持ちながら言った。


「今日も一緒に行っていいですか」


「薪棚の修繕ですよ」


「構いません」


「見ていません、と言えますか」


「目が見えないので見ていません」


間があった。


「そういう問題じゃないんですよね、本来」


「そうですか」


ヴィオが穏やかに言った。本人はいたって真剣そうだった。


「まあ、いいです」


パンをちぎった。


---


裏に回ると薪棚が見えた。古い木の棚だった。壁に立てかける形で板を数枚組み合わせた簡単な作りで、左側の下から二段目の板がずれていた。その板の下に積んである薪が、そこだけ斜めになっていた。


「なるほど」


「どうですか」


ヴィオが後ろで聞いた。


「板が一枚ずれています。下の薪が引っかかって全体を歪ませてます」


「直せますか」


「多分」


女将さんが言っていた釘と板の補強材が脇に置いてあった。取りに行った。板を手に取った。


なじむ、と思った。


昨日の感覚が残っているのか、それとも朝だから感覚が鋭いのか。板の重さが手の中にすっと収まった。変な感じがした。


「なんか今日は手が起きてるな」


「手が起きている、というのは」


「言葉のあやです」


ずれた板に手を当てた。位置を合わせようとした。釘を打とうと思って、ハンマーを持ち上げた。


板が動かなかった。


釘を打つ前だった。ハンマーを当てていなかった。ただ板を押さえただけだった。


板が、壁に張り付いていた。


「……え」


手を離した。板は動かなかった。押しても動かなかった。引いても動かなかった。木がそこにある、というよりも、そこが最初からそうだった、というような固さだった。


「どうしましたか」


「板が」


「板が」


「釘、要らなかったです」


沈黙があった。


「釘が要らなかった、というのは」


「手で当てたら固定されました」


もう一度触れてみた。びくともしなかった。叩いても音が変わらなかった。浮いた感じがない。しっかりついていた。補強材を当てようと思ったが、そもそも動かないのでついている意味があるかどうかわからなかった。


「なんか、大丈夫でした」


「そうですか」


ヴィオが少し首を傾けた。


「音が、違いますね」


「何の音が」


「手の音が」


「手に音はありません」


「そうですか」


ヴィオはそれ以上言わなかった。俺も聞き返さなかった。補強材は念のため当てておくことにした。釘は打った。打った感触は普通だった。


---


次の仕事は宿の正面入り口そばの戸口だった。蝶番がゆるんで扉がきちんと閉まらなくなっていた。蝶番を締め直して、傾いた扉を枠に戻す作業だった。


ヴィオが後ろにいた。


蝶番に触れた。


ねじを回す前に固まった。


ヴィオの方を見た。ヴィオはこちらを向いていなかった。俺しかいなかった。


「また」


声が出た。


「また、ですか」


「聞いていたんですか」


「近くにいますので」


「そうですね」


扉を枠に当てて押した。合わさった。蝶番が正位置に戻った。手が触れたまま一瞬止まった。何かが収まるような感触があった。


ゆるんでいなかった。


ねじを締め直す前だった。ただ手で押さえて合わせただけだった。


扉を開閉してみた。きちんと動いた。閉まるところできちんと閉まった。


「なんか今日は手が言うことをきく」


「言うことをきく、というのは」


「仕事がうまくいく感じがします。理由はわかりませんが」


ヴィオが少し間を置いた。


「昨日から何かありましたか」


「よくわかりません」


「そうですか」


「はい」


ヴィオはそれ以上聞かなかった。俺も答えられなかった。よくわからないのでよくわからない、としか言えない。


---


「ちょっとここで待っていてください」


言って、ひとりで路地の奥に入った。


女将さんから頼まれた三つ目の仕事は、路地の奥にある古い貯蔵棚の脚が折れかけているので見てほしい、というものだった。細い路地で、ヴィオの杖が入り口の段差に引っかかりそうだったので待ってもらった。


棚に近づいた。


脚を触れてみた。


普通だった。


ひびが入っていた。押すと揺れた。釘を打とうとして板を当てた。板は板だった。接触してもくっつかなかった。手がしっくりこなかった。


「なんだ、普通だ」


声が出た。


もう一度触れてみた。普通だった。薪棚のときのような感触がなかった。釘を打った。普通の音がした。板が板の重さできちんとついた。釘の力で。普通だった。


「さっきと違う」


立ち上がった。手を見た。何も変わっていなかった。腕の糸痕が少し残っていた。


ヴィオに戻ると、入り口で待っていた。


「どうでしたか」


「普通でした」


「普通でしたか」


「普通でした。釘が要りました」


「そうですか」


「さっきまでと違いました」


「さっきまでは」


「一人じゃなかった」


口から出てから、なんの話をしているかよくわからなくなった。


「つまり、あなたがいると手が固まって、一人になると普通になります」


「それは」


「語弊があります。語弊があります、今の発言は」


「はい」


ヴィオが柔らかく言った。笑っているかどうかよくわからなかった。


「忘れてください」


「忘れます」


忘れてもらえるかどうかわからなかった。


---


軒下にゴドルがいた。


いつものことだった。通りの反対側の軒下に、外套を着たまま腕を組んで立っていた。こないだから何度か見かけている。いつも見ている側だった。こちらを気にしている様子はなかったが、こちらが通ると視線だけ動いた。


今日は違った。


ゴドルがゆっくりと歩いてきた。


立ち止まった。ヴィオが少し後ろにいた。


ゴドルは俺の顔を見た。それから腕を見た。糸の痕が残っている方の腕だった。


「手、治ったか」


「はい、だいぶ」


「そうか」


それだけだった。ゴドルが踵を返した。外套の裾が動いた。


「ちょっと待ってください」


振り返った。


「見ていましたか、昨日」


「昨日は見ていなかった」


「今日は」


「今日は少し見ていた」


ゴドルが平静に言った。


「お前、何か拾ったな」


「何のことですか」


「わからんなら、わからんでいい」


ゴドルが歩き始めた。


「わからんで困ることはないか、今のところ」


「困っているかは微妙ですが、手が固まります」


「直りはしない」


「直りませんか」


「使い方が変わるだけだ」


ゴドルが角を曲がった。外套の端が見えなくなった。


後ろでヴィオが言った。


「知っている方ですか」


「知り合いかどうか怪しいですが、顔は知っています」


「詳しそうでしたね」


「そうでしたね」


俺はもとの通りに向き直った。


「何を拾ったんでしょうね」


「わかりません」


「そうですね」


空は晴れていた。昨日の巣の中の話が遠かった。ゴドルが言っていた「拾う」という言葉の意味も、よくわからなかった。


まあ、いいか。


---


夕方、宿に戻った。


靴を脱いで廊下に入った。


「今日の仕事、なんか効率よかった気がする」


声が出た。廊下に人はいなかった。宿の木の廊下に足音がした。俺の足音だった。


「気のせいかも」


もう一度声が出た。


「気のせいじゃないか」


三回目が出た。


一人で歩いていた。


食堂に入った。ズバンが椅子に座っていた。机の上に干し肉のようなものがあった。


「お、帰ったか」


「帰りました」


「怪我、もう大丈夫か」


「大丈夫です」


「そうか」


ズバンが干し肉を一本取った。


「今日はどうだった」


「薪棚と戸口と貯蔵棚の脚を直しました」


「仕事、あるな」


「女将さんがくれるので」


ズバンが少し間を置いた。


「なんかあったのか」


「特には」


「廊下で何かしゃべってたが」


「独り言です」


「なんか効率よかった、とか言ってたか」


「気のせいだったかもしれません」


ズバンが俺の腕の方を一瞬見た。


「痕、薄くなったな」


「ルナさんの薬が効いているみたいです」


「そうか」


それ以上は聞かなかった。干し肉をかじり始めた。


俺も椅子を引いた。


女将さんが厨房から顔を出した。


「夕飯、もう少しかかる。暇なら薪入れておいて」


「わかりました」


裏に薪を取りに行った。


今日直した棚の板を通りがかりに見た。釘を打っていない方の板が、まだそのままそこにあった。触れていないのに、動いてはいなかった。


当然だった。木の板が勝手に動くわけがない。ただ最初からきちんとついていた板が、きちんとついているだけだった。


「そういうことか」


声が出た。


何がそういうことなのかは、わからなかった。


---


夜、食堂が静かになった。


ルナが奥の席に一人でいた。手帳が開いていた。ペンを持っていた。


ページを一枚めくった。


書いた。


*固定現象:薪棚・戸口・二箇所で複数回確認。発動時に接触あり。一人になったとき不発。*


少し止まった。


*昨日の件との関連:判断保留。*


ルナはペンを置いた。


手帳を閉じなかった。窓の外を少し見た。


夜の宿場町だった。風が木の葉を少し揺らした。


ページを一枚戻した。


前のページに、昨夜書いた一行があった。


*目撃者:ヴィオ(詳細不明)*


その下に、今日の日付で一行加えた。


*ゴドル(接触確認。内容不明)*


ルナは手帳を閉じた。


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