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第8話 見ていないとする

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝、食堂に降りてきたら女将さんがいた。


テーブルを拭いている最中だった。手が止まった。


「ちょうどよかった」


(ちょうどよかった、と言う人はたいてい俺にとってよくない)


「何ですか」


「商人がいてね。街道の荷台が通れないって困ってるの」


女将さんがテーブルを再び拭きながら話した。視線はテーブルに向けたままだった。


「街道脇に巣が出来てるらしくて。邪魔になってる」


「冒険者の仕事では」


「冒険者に頼んだら高かったって。あなたならね」


「俺は冒険者じゃないですが」


「便利屋でしょ」


俺は口を閉じた。


断る理由を探した。二秒かかった。出てこなかった。


「荷台が通れる分だけ崩す、ということで」


「そう。それだけでいいって」


女将さんがテーブルを拭き終えた。布巾を畳んで厨房に向かいながら、「じゃあよろしく」と言った。


「まだ返事はしていませんが」


「していたでしょ」


扉が閉まった。


俺はテーブルの前に一人で立っていた。


「断れなかった」


---


外に出た。


朝の空気が冷たかった。路地の石畳が光っていた。


「一緒に行っていいですか」


振り返ると、ヴィオがいた。楽器を背負っていた。


「どこから」


「宿の入り口にいました。依頼があったのが聞こえたので」


「聞こえましたか」


「女将さんの声が通っていましたよ」


確かにそうだった。厚い壁があっても、あの人の声は漏れる。


「音が聞けます。知らない場所の音を」


ヴィオが穏やかに言った。


「危ないかもしれないですが」


「危なかったら入り口で待ちます」


俺は少し考えた。断る理由はなかった。一秒もかからなかった。


「まあ、いいです」


「ありがとうございます」


ヴィオがさっさと歩き出した。方向が合っていた。街道の方角だった。


「なぜ方向がわかるんですか」


「気配です。人の流れと風の向きと」


「そうですか」


俺はヴィオの少し後ろを歩いた。


---


宿の角を曲がったところで、後ろから足音がした。


ルナだった。


手帳を持ったまま、俺とヴィオを見た。止まった。


「どちらへ」


「街道の方です。荷台が通れない巣を確認しに」


ルナが手帳を開いた。ペンが動いた。


「ヴィオさんが先に出てたから」


女将さんが厨房の窓から顔を出した。


ルナのペンが止まった。ルナが窓を見た。また手帳に何かを書いた。それから顔を上げた。


「そうですか」


ペンが閉じられた。手帳がローブの内側に収まった。


ルナの顔に変化はなかった。でも手帳の書き方が、一瞬だけ早かった。


俺はヴィオの後ろを歩き続けた。


---


街道沿いを進むと、茂みが深くなった。


茂みの奥に、それはあった。


土と木の繊維と、光沢のある粘液で固められた巣だった。大きかった。街道側に張り出していて、荷台が通れないのはすぐわかった。


「よく固まってるな」


声が出た。


「においがします」


ヴィオが鼻をわずかに動かした。


「独特の」


「はい。何かが混じっています」


入り口があった。中は暗かった。奥深くまで続いていた。


「入りましょうか」


「はい。でも暗くなったら入り口で——」


「私はあまり関係ないです、暗さは」


ヴィオが平静に言った。


「そうでしたね」


中に入った。


---


目が慣れると、かすかに外の光が差していた。


壁に触れた。滑らかだった。粘液が固化して層になっていた。


通路を進んだ。狭くなってきた。角を曲がったところで、動くものが見えた。


大きくはなかった。甲殻があって、脚が多かった。昆虫と甲殻類の中間のような形で、複数いた。奥の方にもいた。


「見るな!!」


俺の声が出た。


「目が見えないので見ていません」


ヴィオが静かに言った。


間があった。


「今は関係ないですが」


「そうですね、失礼しました」


間が悪かった。


魔物が反応した。こちらを向いた。


---


通路が狭い。ヴィオが後ろにいる。


(まずい)


最初の一体が動いた。速かった。腹のあたりから何かが飛んだ。粘液だった。足元に当たった。


固まった。


足が動かなかった。床に固定されていた。


二体目が横から来た。腕に糸が巻きついた。引いた。逆に締まった。


「ヴィオさん、入り口まで下がってください」


「何かまずいですか」


「まずいです」


「わかりました」


ヴィオの気配が遠ざかった。


三体目が来た。床の土が動いた。足元に向かって圧縮されてくる。


動けなかった。息が浅くなった。


俺は状況を見た。腕に糸。足元に粘液固化。土が圧縮されてくる。


「どういう仕組みだ」


声が出た。考えが止まらなかった。


「圧力か。締め付けている。引けば締まる。腕を動かすと糸が食い込んでくる」


腕を動かすのをやめた。


「押せば固まる。外から力をかけると逆に収縮する。逃げようとする動きに対抗して閉じていく」


土の圧力がまた増した。


「力を取り込んで収縮する。逃げるほど固まる。閉じた系だ」


声が止まった。


息が続かなかった。


---


意識が薄くなりかけた。


胸の圧迫が増した。目の端が暗くなった。


(HP、まずい)


遠くでヴィオの声がした。


「カナトさん」


「はい」


「大丈夫ですか」


「なんとも」


少し間があった。


「見ていますか」


俺は一瞬止まった。


「見ていますか、というのは」


「目が見えないので見ていません」


暗い天井を見た。壁を見た。入り口の方向に、ヴィオの気配があった。顔はこちらを向いていなかった。


「見ていないとする」


声に出した。


誰も聞いていなかった。


---


何かが変わった感じがした。何が変わったかはわからなかった。


手が動いた。壁に触れた。


固まった。


巣の壁の一部が音を立てた。


魔物が止まった。動かなかった。床に張り付いたまま動かなかった。


通路の奥が崩れた。土と粘液が落ちた。隙間から光が差し込んだ。外の光だった。


足元が緩んだ。糸が落ちた。


俺は一歩動いた。動けた。


「なんか、外れた」


声が出た。全身から力が抜けた。疲れた。腹が減った。


入り口の方へ歩いた。


---


外に出ると光がまぶしかった。目を細めた。


「大丈夫ですか」


ヴィオがいた。


「なんか助かりました」


「何が起きましたか」


「わかりません」


ヴィオが少し間を置いた。


「何か感じました」


俺はヴィオを見た。白い目が、入り口の少し斜め上を向いていた。


「何を」


「わかりません」


ヴィオが静かに言った。それ以上は続かなかった。


「そうですか」


「そうです」


「腹が減りましたね」


間があった。ヴィオの口もとが少しほぐれた。


「帰りましょうか」


「そうしましょう」


---


宿に戻ったら食堂に三人いた。


ルナが手帳を開いていた。ズバンが椅子に座っていた。女将さんが厨房から顔を出した。


「お帰り。ご飯できてるよ」


「ありがとうございます」


俺が入ると、ルナが顔を上げた。


「どこへ行っていたか確認していいですか」


「街道の方です。巣を見に」


「一人ではなかったですか」


「ヴィオさんが一緒でした」


ルナの手帳にペンが動いた。


「怪我してないか」


ズバンが椅子から乗り出した。


「少しあります」


「見せろ」


「大したことないですが」


「見せろって言ってんだ」


ズバンが立った。俺は腕を見せた。糸の痕が赤くなっていた。腕の内側に、細い線が二本。


「なんか、巻かれまして」


ズバンが眉を寄せた。


「薬持ってきます」


ルナがすっと立った。


「いいです、大したことないので」


「持ってきます」


ルナが廊下に消えた。返事を待つ間もなかった。


俺は椅子に座った。


(逃げたつもりだったのに待っていた。逃げた先に来られるより状況が悪い)


「また漏れた」


「何が」


ズバンが聞いた。


「何でもないです」


女将さんがスープを持ってきた。熱気が立っていた。


「熱いうちに食べな」


「ありがとうございます」


スープを見た。腹が減っていた。食べた。


---


夜、食堂が静かになったころ、ルナは手帳を開いた。


ページを二枚めくった。ペンを取った。


書いた。


*行動予測失敗(初回)。原因:ヴィオの同行。対策を要検討。*


ページをめくった。


*現場の巣:異常な固化を確認。通常の造巣型の出力ではない。*


もう一行。ペンが止まった。少し間があった。


*目撃者:ヴィオ(詳細不明)*


ルナは手帳を閉じた。窓の外を少し見た。


宿場町の夜は静かだった。


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