第6話 目が見えないので見ていません(でも聞こえています)
本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません
朝、女将さんが食堂から顔を出したのは、俺がまだ一口目のパンを食べている最中だった。
「昨日の夜から吟遊詩人が来てるよ。今朝も演奏するって言ってた」
「……そうですか」
「聴いていきなよ。うまいから」
俺は頷いた。特に意味はなかった。
「今日の依頼なんだけど、商店街の方からまた話が来てたよ。布屋の雨漏りと、桶屋の棚の補修。午前中でいける?」
「……いけます」
「じゃあ決まり」
俺の返事が終わる前に女将さんは帳場に戻った。
決まった。
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食堂はいつもより少し賑わっていた。
朝早い時間から、商人の男が二人、常連の老人が一人。それだけだが、普段より声が多い気がした。
隅の方から、音がしていた。
弦の音だった。低くて、穏やかで、朝の食堂には合っていた。
俺はパンをかじりながら、何の気なしに音の方向を見た。
食堂の一番奥の席。壁際。日が入らない側の隅。
人が座っていた。
若い。俺と同じくらいか、少し上か。細身で、膝の上に古い弦楽器を置いている。
目が白かった。
瞳の色ではない。目そのものが、光を映していない。
杖が椅子の背に立てかけてある。
「……吟遊詩人か」
また漏れた。
演奏が続いていた。俺が何か言ったことには気づいていないだろう。
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演奏が終わったのは、俺が食事を半分ほど食べたときだった。
最後の弦を押さえた指が、ゆっくりと離れた。
静かになった。
商人の男が二人、拍手をした。老人も手を叩いた。
吟遊詩人は軽く頭を下げた。
立ち上がり、杖を取った。
食堂の中をゆっくりと歩き始めた。テーブルの配置を知っているように、迷わなかった。昨夜から来ているなら、もう覚えたのかもしれない。
足音は静かだった。
その足が、俺の席の方へ向かってきた。
俺は何も言わなかった。
通り過ぎるだろうと思った。
通り過ぎなかった。
俺の席の前で、足が止まった。
「あなたの声は」
穏やかな声だった。
「街道で聞きました」
俺は固まった。
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「どの街道ですか」
「この町の手前の。木がたくさん生えているあたりです」
「……時期はいつですか」
「十日ほど前でしょうか。朝の早い時間でした」
十日前。
この町に来る前の街道。
あの朝。木の陰に声をかけた、あの場所。
「……誰かいる? と声をかけましたよね」
吟遊詩人が言った。
俺の声が、出なかった。
(聞こえていたのか)
「お座りになりますか」
女将さんが遠くから声をかけた。吟遊詩人の前に椅子を出していた。決めていた。俺の了解は取っていなかった。
吟遊詩人が椅子に座った。
俺は動けなかった。
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「探していたんですか」
「はい」
吟遊詩人は迷いなく答えた。
「あの言葉が、忘れられなかったので」
「……何を言いましたか、俺」
「『誰かいる?』でした」
俺は少し黙った。
「……それだけで探したんですか」
「声の質が違いました」
吟遊詩人が弦楽器を膝に置いた。指が弦の上で止まっている。演奏するでも離すでもなく、ただそこにある。
「ただ者ではない、と思いました」
「……」
俺の内心は静かだった。
(何も言っていない。呼びかけただけだ。それもあの木の陰に誰かがいた気がして、気のせいかもと思いながら、声に出しただけだ)
「……名前を聞いていいですか」
「ヴィオといいます。旅の吟遊詩人です」
「カナトです。便利屋をやっています」
「知っています。昨夜、宿の方に聞きました」
また知られていた。
「……女将さんですか」
「はい。よく話してくれる方ですね」
「……そうですね」
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布屋と桶屋の依頼がある。そろそろ動かないといけない。
俺は立ち上がった。
「今日、仕事があるので」
「一緒に行ってもいいですか」
「……何故ですか」
「音が聞けます」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……仕事中の音ですよ」
「それで構いません」
断る理由を考えた。
三秒かかった。
出てこなかった。
「……ついてきてもいいです」
「ありがとうございます」
ヴィオが立ち上がった。杖を取る動作が、馴れていた。
女将さんが帳場の陰から顔を出していた。特に何も言わなかった。何かをこらえているような顔だった。
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布屋の雨漏りは屋根の端の板が一枚浮いていた。
単純な修繕だが、梯子を使う必要がある。
「……ちょっと待っていてもらえますか」
「はい」
ヴィオが軒下に立った。杖を両手で持って、静かにしていた。
梯子を借りて、屋根に上がった。
板を確認した。釘が抜けかけていた。
道具袋から工具を出した。
そこまではよかった。
「見るな!!」
言ってしまった。
癖だった。
屋根の上から地上を見た。
ヴィオは白い目をまっすぐ前に向けていた。俺の方を向いてはいるが、見ていない。
「目が見えないので」
ヴィオが静かに言った。
「見ていません」
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静かになった。
鳥の声がした。
遠くで荷車の音がした。
「……」
俺は屋根の上で、釘を持ったまま止まった。
「……それは」
「はい」
「……見ていないに入りますか」
「入ると思います」
入るのか。
「……でも」
「はい」
「……聞こえてますよね」
「はい」
「……」
沈黙。
結論が出なかった。
「……とりあえず、作業します」
「どうぞ」
釘を打った。板が戻った。雨漏りは止まった。
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桶屋の棚は取り付け金具が一か所外れていた。
こちらは梯子なしで済む。
壁際に屈んで金具を確認した。
「見るな!!」
また言った。
自分でも驚いた。
「目が見えないので」
ヴィオが入り口に立ったまま言った。
「見ていません」
「……」
桶屋の主人が俺とヴィオを交互に見ていた。
「……いえ、ありがとうございます。作業します」
「どうぞ」
金具を直した。棚が戻った。
桶屋の主人がずっと首を傾けていた。何か聞きたそうだったが、聞いてこなかった。
賢明だと思った。
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昼前に仕事が終わった。
宿への道を戻りながら、ヴィオが杖をつく音がした。石畳の上で、一定の間隔で響く。
「作業、うまいんですね」
「……普通です」
「道具を持った時と、使う時で、音が変わります。無駄がない」
「……気になりますか」
「はい」
俺は少し歩いた。
「……聞いていると、わかりますか」
「大体は」
「……怖いですね」
「そうですか」
ヴィオは特に笑わなかった。ただ声が少し、穏やかになった。気がした。
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宿の前に着いた。
「同行させてください」
ヴィオが言った。
「……旅のですか」
「いいえ、もう少し近い意味で。しばらく、あなたの仕事について歩かせてください」
「……何日ですか」
「あなたが許可するまで」
「……期限がないんですか」
「今のところは」
俺は宿の扉を見た。
断る理由を考えた。
四秒かかった。
出てこなかった。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
「……見るなについての結論は、まだ出ていないですよ」
「はい」
「……問題になるかもしれません」
「なりそうですね」
ヴィオが少し声を上げた。笑ったわけではなかったが、声に丸みが出た。
「面白そうですね」と言ったように聞こえた。
「……面白くないです」
聞こえていた。
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夜、部屋に戻った。
扉を閉める。廊下の音が遠くなる。窓の外は暗い。今日は曇っていた。
ベッドに座った。
本当に一人だった。
「……盲目は見ていないに入るのか」
天井に向けて言った。
天井は何も言わない。
一日考えたが、答えが出なかった。
見ていないのは本当だ。しかし聞こえている。音でわかる。作業の音を聞いて何かを読み取るなら、それは「見ている」に近い何かではないのか。
「……近い何か、は見ていないか」
また出た。
「……難しいな」
見られなければ、自分のままでいられる。見られると、何かが変わる。自分が変わるのか、それとも——ずっとそういう話だった気がする。追放の前も、今も。
静かだった。
廊下の外で、遠くに笑い声がした。食堂の方だろう。
明日も依頼がある。ヴィオが来る。また「見るな!!」と言うかもしれない。
「……言わなければいい」
自分でも無理だとわかっていた。
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翌朝、食堂に降りた。
定位置の席を取ろうとして、止まった。
すでに席に二人いた。
片方はルナだった。灰色のローブ。手帳を開いている。
もう片方はヴィオだった。弦楽器を膝に置いている。
二人は同じテーブルに座っていた。
向き合っていた。
「……」
ルナがこちらを見た。まばたきが少ない目で、正確にこちらを見た。
ヴィオがこちらを向いた。目が白い。音でわかったのか、気配でわかったのか。
二人が同時に俺を認識した。
「おはようございます」とヴィオが言った。
「おはようございます」とルナが続いた。
「……おはようございます」
女将さんが厨房から顔を出した。
「あら、三人揃ったね。丁度よかった」
何が丁度よいのか。
俺は席に座った。逃げ道がないことは確認済みだった。




