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第5話 先に着きました(逃げた先に待ってる人)

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝、目が覚めたのは日の出前だった。


窓の外がまだ青暗い。鳥の声もまだ疎ら。宿の廊下は静かで、起き出している気配がなかった。


俺は着替えて、早めに一階へ降りた。


理由は一つ。


昨日、食堂でルナに会った。薬師の女性。まばたきが少ない。じっと見てくる。今朝また来るかもしれない。それより早く動いて、顔を合わせないようにするのが最善の判断だった。


「……今日の依頼、もう来てますかね」


一階の帳場に声をかけると、女将さんが奥から出てきた。


「あら、早いね」


「ちょっと早起きで」


「丁度よかった。雑貨屋から昨日のうちに話が来てたんだよ。倉庫整理、半日仕事。今日やれる?」


「……やります」


「じゃあ決まり」


決まった。俺の返事を待っていなかった。


女将さんは帳場の引き出しをごそごそして、紙切れを取り出した。


*倉庫整理 南の雑貨屋・裏倉庫 棚卸し・分類 依頼人:雑貨屋主人*


「朝飯はどうする? 早めに出すよ」


「助かります」


「あ、そうそう」


女将さんが言った。振り向いたまま、足を止めた。


「昨日、薬師の人——ルナさんだっけ、来てたでしょ」


「……はい」


「今日また来るって伝言があったわよ。カナトさんに会いたいって」


俺は固まった。


「……どういう用件か聞きましたか」


「聞いてないよ。忙しかったから。それだけ」


それだけ言って、女将さんは厨房に戻った。


「……逃げたのに」


「え?」


「いえ、何でもないです」


パンと卵が運ばれてきた。食べた。味はよかった。


---


雑貨屋の倉庫整理は、半日かかった。


倉庫は建物の裏手にあった。窓が小さく、日の光がほとんど入らない。木の棚が壁際に三列。埃の層が厚く、踏み込むたびに足元がかすかに軋んだ。空気は乾いていて、古い木と紙の混ざったにおいがした。


棚の奥から奥へ、古い箱を引き出しては中身を確かめる。使えるものと使えないものに分ける。それだけの作業だったが、箱の数が多かった。


三段目の棚の奥から、ひときわ重い箱が出てきた。


木が古くなっていて、開けると湿った紙のにおいがした。中には布に包まれた束がいくつか。布は粗く、指に繊維が引っかかった。帳簿か何かだろうと思いながらめくると、紙の質が違った。


薄くて黄ばんでいる。端が茶色く変色して、触れると指先に古いほこりが移った。字が小さく、印刷ではなく手書きに近い。墨が滲んで、一部は読めなくなっていた。


「……古い本か」


数行読んだ。読んだが、意味がわからなかった。


*世界樹の欠損個体には稀に、本来の割り当てとは異なる形質の発現が——*

*発現の条件は三段階に分かれる。第一は、技の原理が言語として意識に定着すること。*

*第二は、保有者の生命力が——*(墨が滲んで読めなくなっていた)

*第三の条件は、研究者の間で長く論争になってきた。曰く、発現の瞬間に——*


そこで頁が変わった。次の頁は別の内容だった。


欠損個体。発現。条件が三つ。


「……昔の人は難しいことを書く」


棚に戻した。そういうことを考えるのは俺の仕事じゃない。


残りの箱を片付けた。


---


ひと区切りついたとき、倉庫の入り口に気配があった。


雑貨屋の主人だった。白髪交じりの、丸い体型の男。のんびりした顔をしている。


「どうかね、進んどるかね」


「半分ほどは終わりました。三段目がまだです」


「そうかそうか。急がんでいいよ」


主人が棚を眺めた。特に何かを探している風でもなく、ぼんやりと見ている。


「ああ、そこの箱ね」


三段目の、古文書を戻した箱を見ていた。


「昨日も、薬師の方が見ておられたよ」


「……」


思わず棚を見た。箱は何も変わらない。ただの古い木箱。


「へえ、どんな方が」


「灰色のローブの。若い女の人でしたな。ずいぶん熱心に。私は何の箱か知らんけどね」


主人は特に気にした様子もなく言い終えると、「また後で確認しに来るよ」とだけ言って出ていった。


俺は箱を見ていた。


ルナが昨日、同じ箱を見ていた。


古文書の文字を読んでいたのか、それとも別のものを確認していたのか。


「……先回りしてるのは俺だけじゃないのか」


誰もいない倉庫に声が吸い込まれた。


俺は箱を元の位置に戻して、作業を続けた。


---


雑貨屋の主人に確認をもらって、仕事を終えた。


日が傾きかけていた。今日は依頼が一件で終わった。いいペース。


宿に戻ろうと表通りに出た。


夕方前の通りはまだ人が多かった。荷下ろしを終えた商人が食堂に入っていく。子供が二人、荷馬車の脇を走り抜けていった。石畳に西日が斜めに落ちて、建物の影が長く伸びていた。


路地を曲がって、宿の入り口が見えたとき。


入り口の横、軒下の柱のそばに、人が立っていた。


薄い灰色のローブ。軒の影の中にいて、日の当たる通りとの境目が、ちょうど足元で分かれていた。動いていなかった。柱に溶け込むように、完全に静止していた。


「……」


ルナだった。


こちらを見ていた。いつからそこにいたのか、まばたきの少ない目でただ立って、待っていた。


「先に着きました」


俺は足を止めた。


五秒ほど考えた。逃げ道がないか確認した。入り口は一つ。ルナと俺の間に距離は三歩ほどしかない。


「……なんで」


「あなたの行動パターンはメモにあります」


ルナは小さな手帳を取り出した。ちらりと見えたが、字が細かすぎて読めなかった。


「今日の依頼を受けることは、昨日から分かっていました。宿場町の人間は話してくれます。雑貨屋の倉庫整理は半日仕事。終わればここに戻る。帰り道は表通り経由が確率として高い」


「……」


「外れませんでした」


俺は宿の入り口とルナを交互に見た。入り口を通るにはルナの横を通らないといけない。ルナはまっすぐこちらを見ている。


「……何かご用でしょうか」


「観察です」


「……断れますか」


「観察を止める理由がありません」


止まった。断れなかった。


「……逃げた先に待ってる人、世界で一番苦手だ」


自分でも気づかなかった。


「……」


ルナは何も言わなかった。手帳を開いて、何かを書いていた。


---


書き終えたのか、ルナが顔を上げた。


「何が目的ですか」


気づいたら口から出ていた。


「珍しいものを記録することです」


「……俺が珍しいんですか」


「今のところ、はい」


今のところ。


少し嫌な言い方だった。今は珍しいが、いずれそうでなくなるかもしれない、とも取れる。どちらにしても居心地が悪い。


少しの間、どちらも黙った。


「倉庫の古文書を見ましたか」


ルナが言った。


「……見ましたが、意味がわかりませんでした」


「そうですか」


ルナが手帳に何かを書いた。


何を書いたのか、気になった。気になったが、聞かなくてもいいとも思った。でも。


「……何を書いたんですか」


「記録です」


そういうことか。


俺は横を通って宿に入った。振り返らなかった。


扉を閉めると、通りの音が遠くなった。廊下は薄暗く、燭台の火がまだ入っていない。少しだけ息を吐いた。


---


部屋に戻って、扉を閉めた。


ベッドがある。机がある。窓から夕暮れの光が少し入っている。それだけの部屋。


静かだった。廊下の音もない。宿の外の通りも、扉一枚で遠くなっている。


ベッドに座った。


独り言が、本当に誰にも聞こえない。


久しぶりにそう感じた。ここ最近、ズバンがいたり、食堂の軒下でこちらを見ている人がいたり、女将さんが話しかけてきたり、そしてルナが待っていたりした。宿場町というのは思ったより人が来る場所だった。


「……ルナという人は、なんなんだ」


天井に向けて言った。


天井は何も答えない。


古文書を昨日のうちに見ていた。俺の行動を事前に計算していた。そのくせ目的は「観察」とだけ言う。何が目的なのか全然わからない。


「……珍しい、か」


俺は何も珍しくない。


どこにでもいるような顔で、断れない性格で、スキルも半端で、宿場町で地味に便利屋をやっているだけだ。


珍しいと言われる理由が、わからなかった。


「……わからないな」


疲れた。


そのままベッドに倒れた。


靴は脱いでいた。偉い。


夕暮れの光が天井の端まで伸びていた。見ているうちに、目が重くなってきた。


「……明日は早起きしないでいい」


そう決めた瞬間、女将さんの顔が浮かんだ。また来るって伝言があったわよ。


「……だめかもしれない」


目を閉じた。


---


ルナが手帳に追記した内容は、短かった。


*「逃げた先に待ってる人、世界で一番苦手だ」 ——カナト・ミレル(二回目)*


その下に、もう一行。


*先回り 有効。*


さらに下に、細かい字が続いた。


*古文書の件:認識あり。内容は把握していない様子。反応は予想の範囲内。*

*(当人が条件を揃えていることに、当人は気づいていない)*


最後に一文。


*明日も来ること。*


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