第34話「今だけ、見ていないことにしてください」
本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません
朝、カナトは早めに中庭に出た。
宿の中庭にある石組みの水路が、目詰まりしていた。
女将さんから昨日の夜に頼まれた話だ。
(……誰もいない時間に、こっそりやれば)
声に出なかった。
石に触れる前に、足が止まった。
「おはようございます」
ヴィオが日向にいた。
水路の近くの石畳に座って、何かを聞いていた。
カナトの気配に気づいているのかいないのか、顔だけをこちらに向けた。
「……おはよう」
カナトは石から手を引いた。
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夕方に出直すことにした。
夕方、カナトは中庭に戻った。
「なんとなくいた」
ズバンがいた。
(……なんでいるんですか)
声に出なかった。
水路の縁に腰かけて、空を見ていた。
特に用があるわけでもなさそうだった。
「なんとなく?」
「なんとなく」
ズバンがそう繰り返した。
カナトは一拍置いて、宿の中に戻った。
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もう一度だけ試みた。
夕食のあと、夜になる少し前。
「記録です」
ルナがいた。
手帳を抱えて、水路のそばに立っていた。
目が合った。
「……なんの記録ですか」
「水路の修繕、依頼を受けたと聞いたので」
カナトは目を閉じた。
数秒、そのままだった。
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気がつくと、全員がいた。
ヴィオが日向から動いていなかった。
ズバンがまだ水路の縁にいた。
ルナが手帳を持っていた。
ゴドルが食堂の入り口の椅子に座って、遠くを見ていた。
中庭は静かだった。
カナトは全員を見渡して、一拍置いた。
「……今だけ」
声が出た。
「見ていないことにしてください」
誰も何も言わなかった。
風が少し吹いた。
水路の水が、よどんだ音を立てた。
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ルナが手帳を閉じた。
「……わかりました」
ルナが言った。
「今だけ、見ていないことにします」
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ズバンが立ち上がった。
「俺も」
短く言って、水路から離れた。
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ヴィオが静かに言った。
「もともと見えていません」
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ゴドルが何も言わずに立った。
そのまま宿の中に消えた。
足音が廊下の奥に遠ざかって、聞こえなくなった。
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カナトは水路に向かった。
石組みの一か所。
水の通り道を塞いでいる石の噛み合わせが、ほんの少しだけずれていた。
わかっている。
どこがどうずれているかは、見ればわかる。
(……わかってる)
声に出なかった。
カナトは石に手を当てた。
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何かが、くる気配があった。
いつもと少し違う入り方だった。
瀕死でもなかった。
血も出ていなかった。
疲弊も、今日はまだここまでではなかった。
(……なんか)
その感覚が来た。
腕の奥で、何かが緩んだ。
石が、わずかに鳴った。
(まとまった)
声に出た。
誰もいない中庭に、その声が落ちた。
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水路の詰まりが解けた。
音が変わった。
石の奥で水がまとまって、ゆっくりと流れはじめた。
それは、思ったより静かな音だった。
カナトは手を離した。
少し疲れた。
でも今日は軽かった。
(……それでも、動いた)
声に出なかった。
カナトはしゃがんだまま、水の流れをしばらく見ていた。
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気配が戻ってきた。
ルナが手帳を開いた。
何かを書いた。
カナトはそちらを見なかった。
ズバンが水路の縁に戻ってきた。
水の音を聞いて、「へえ」と言った。
それだけ言って、何も聞かなかった。
ヴィオがわずかに顔を向けた。
「水の音が変わりましたね」と言った。
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ゴドルが食堂から出てきた。
中庭を横切って、カナトの横を通った。
一瞬、目が合った。
何も言わなかった。
食堂の中に入った。
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夜になった。
宿の廊下を通った。
二階の端、ズバンの部屋から明かりが漏れていた。
中庭からかすかに、水の音が届いていた。
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*【記録 / L.記】*
*34日目。修繕:宿・中庭水路。*
*(見ていないことにした。これは初めてのことだった)*




