第35話「荷物はそのままだった」
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朝の食堂に、ヴァルトとドリスがいた。
カナトが階段を下りてくると、二人はすでに席に着いていた。
女将さんが湯気の立つ皿を運んでいた。
いつも通りの朝だった。
「おはようございます」
カナトは言った。
ヴァルトは頷いた。ドリスは少し目を上げた。
カナトは空いた席に座った。
朝食が運ばれてきた。
食べた。
ヴァルトが口を開いたのは、椀がほぼ空になった頃だった。
「返事をそろそろ聞かせてくれないか」
カナトは椀を置いた。
少し間があった。
「……今日は修繕が一件あります」
ヴァルトは何も言わなかった。
「それが終わったら」
「そうしたら、また一件来ます」
しばらく間があった。
食堂の奥で、女将さんが何かを切る音がした。
「……お前は」
ヴァルトが言いかけた。
言いかけたまま、止まった。
ヴァルトは目を伏せた。
少しだけ。
「……わかった」
椅子が引かれた。
ヴァルトが立った。ドリスが続いた。
女将さんが厨房から顔を出した。
「また来てください」
いつも通りの声で言った。
ヴァルトは何も言わなかった。
そのまま扉へ向かった。
ドリスが扉のそばで、少しだけカナトの方を向いた。
何も言わなかった。
扉が開いた。
二人が出て行った。
扉が閉まった。
カナトは椀を見ていた。
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女将さんが戻ってきた。
「カナトくん、今日の依頼なんだけど」
「はい」
「宿の入口の扉。蝶番がね」
テーブルの端に腰を落ち着けて、女将さんは続けた。
「三十年使ってる古い金具なの。開け閉めするたびに引っかかるようになっちゃって」
「……三十年」
「そう。もう一度だけ、直してほしいんだよね」
もう一度だけ、という言い方をした。
カナトは頷いた。
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ヴィオとルナとズバンがついてきた。
いつも通りだった。
道が狭いところでは一列になった。ズバンが一番後ろを歩いた。
何かが違う気はしたが、うまく言えなかった。
ズバンの歩き方が、少し軽い気がした。
(……なんかいいことあったんですか)
声に出なかった。
気のせいかもしれなかった。
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宿の入口に着いた。
扉は古かった。木の色が変わっていた。蝶番は鉄製で、端が少し赤みを帯びていた。
カナトはしゃがんで、蝶番を見た。
金具の合わせ目がわずかにずれていた。長い時間をかけてずれてきた、という感じのずれ方だった。
「見るな!!」
言わなかった。
言う必要がなかった。
ルナが手帳を開いていた。ヴィオが少し後ろで目を閉じていた。ズバンが壁に背を預けて、空を見ていた。
カナトは蝶番に手を当てた。
いつもと同じ感触だった。
金属の冷たさ。長い時間の重さ。
手を当てた。
いつもと同じ疲弊が来た。
静かに、直った。
「……はい、終わりました」
ヴィオが小さく息を吐いた。
「金属の音が、落ち着きましたね」
ルナが手帳に何か書いた。
ズバンは空を見たまま、少しだけ目を細めた。
それだけだった。
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扉を開け閉めしてみた。
引っかからなかった。
女将さんが厨房から出てきて、自分でも開け閉めした。
「うん。これだよ、これ」
と言った。
カナトは立ち上がった。
疲弊が足の先まで来ていた。
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午後は一件来た。
終わった。
夕方になった。
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宿に戻った。
廊下を歩いて、部屋のドアを開けた。
荷物はそのままだった。
鞄の口が開いていた。旅支度をしかけたまま、止まっていた。いつからそうだったか、はっきりとは思い出せなかった。
カナトは鞄を見た。
しばらく見ていた。
鞄の口を、閉めた。
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夕食の食堂は静かだった。
いつも通りの人数。いつも通りの音。
ゴドルが端の席にいた。
カナトも席に着いた。
夕食を食べた。
ゴドルも食べていた。
特に話さなかった。
話す必要がなかった。
ゴドルが椀を置いた。
少し間があった。
「……帰ってきた」
声が出た。
カナトはゴドルを見た。
「……帰りましたけど」
ゴドルは何も言わなかった。
また少し間があった。
ゴドルは椀を持ち上げて、残りを飲んだ。
それだけだった。
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*【記録 / L.記】*
*35日目。修繕:宿・入口扉・蝶番。*
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