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第32話「見えたは、見ていないに入りますか」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝、女将さんが言った。


「雑貨屋の軒下。屋根板が一枚、浮いてる。昨日の雨でね」


「……わかりました」


女将さんが何かを言う前に、カナトは手道具の袋を取った。


---


ヴィオが宿の入口で立っていた。


「おはようございます」


「……おはようございます」


ルナが少し後ろで手帳を開いていた。


「修繕ですね」


「そうです」


三人で歩いた。


宿場町の朝は早い。


荷馬車が道の真ん中を通って行った。


御者は手を上げた。


カナトは会釈した。


ヴィオは音を聞いていた。


「馬の歩き方、昨日より軽い音がします」


「……そうですか」


「蹄が地面に馴染んでいるんでしょうね。この道に」


カナトは答えなかった。


---


雑貨屋の軒下に着いた。


屋根板は確かに浮いていた。


一枚だけ、端が反り上がって、風の通り道に口を開けていた。


カナトは梯子を確認した。


「……ちょっと登ります」


「はい」とルナが言った。


ヴィオは軒下の木柱の近くに立った。


日差しが柱の向こうから来ていた。


ルナが手帳を開く。


ページをめくる音が聞こえた。


カナトは梯子を登り始めた。


板の浮きを指で確認した。


水分を含んで反っている。


圧着するだけでは戻らない。


しかし手がそこに触れた瞬間、何か——


(また、これ)


声に出なかった。


小さな抵抗が、消えた。


板が木枠に沿って、静かに平らになった。


釘はまだ打っていない。


打つ必要が、なくなっていた。


疲弊が腕の奥に来た。


軽かった。板一枚分の、いつものやつだ。


カナトは梯子を降りた。


---


「今、見えました」


ヴィオが言った。


穏やかな声だった。


いつもの音の話とは、少し違う声色だった。


カナトは梯子の最後の段に足をかけたまま、止まった。


地面に降りた。


少し間があった。


「……見えたは、見ていないに入りますか」


全員が黙った。


ズバンが道の端で荷物を整理していたが、手が止まっていた。


ルナが手帳を開いた。


ペンを持った。


「判定:」


まで書いて、止まった。


ヴィオが続けた。


「見えたのは、あなたが直した、という事実です」


声が穏やかだった。


「それ以外は、見ていません」


ヴィオが、一度だけカナトの方に顔を向けた。


カナトは何も言わなかった。


(……なんかうまくまとめた)


声に出た。


ズバンが咳をした。


カナトはヴィオの方を、一度だけ見た。


ヴィオはすでに、朝の方向を向いていた。


---


ルナがペンを動かした。


カナトはそれを見ていなかった。


ヴィオが柱から少し離れて、朝の方向に顔を向けた。


「木の匂いがします」


「……雨の後ですから」


「いいえ」とヴィオは言った。


「直した後の木の匂いです。少し違います」


カナトはそれには答えなかった。


(……そうか)


声に出なかった。


手道具の袋を持った。


道具を確認した。


特に何も確認する必要はなかったが、手が動いた。


---


ルナが手帳を閉じた。


音が、静かだった。


*ヴィオ氏:条件3に関し、見ていないと見なす。理由:本人が見ていないと述べた。これ以上の根拠なし。*


---


帰り道、ズバンがカナトの隣を歩いた。


「……なんかさっきのやつ、すごい話だったな」


「まあ、そうですね」


「なんで平然としてんだよ」


カナトは少し間を置いた。


「……まあ、そうですね」


ズバンが何かを言おうとして、やめた。


「……まあ、な」


二人はしばらく黙って歩いた。


ヴィオが少し前を歩いていた。


足音が軽かった。


朝の交易路に荷馬車が一台、また来た。


---


昼過ぎ、食堂でゴドルが一人で座っていた。


カナトが水を取りに来た。


視線が合った。


ゴドルは何も言わなかった。


カナトも何も言わなかった。


(昨日のことは聞いた)


声に出なかった。


ゴドルが椀を持ち上げた。


ひとつ、小さくうなずいた。


口をつけた。


それだけだった。


カナトは水を持って戻った。


---


夕方、ルナが宿の廊下でカナトとすれ違った。


手帳を脇に抱えていた。


「記録です」


「……何のですか」


「今日の分」


「今日のって」


「ヴィオさんの発言と、判定結果」


「……決まったんですか」


「決まりました」


ルナが手帳を開いて、記録を見せた。


カナトは読んだ。


もう一度、読んだ。


「本人が見ていないと言えば、見ていない」


ルナが手帳を閉じた。


廊下に夕日が入っていた。


埃が光の中をゆっくり動いていた。


カナトは何も言わなかった。


ルナが先に歩いて行った。


---


*【記録 / L.記】*


*32日目。修繕:雑貨屋・屋根板一枚。発動確認。疲弊:軽微。*


*特記事項:ヴィオ氏が修繕発動直後に「今、見えました」と発言。カナト氏「見えたは見ていないに入りますか」→ヴィオ氏「見えたのは、あなたが直した、という事実です。それ以外は見ていません」。*


*判定:ヴィオ氏:条件3に関し、見ていないと見なす。理由:本人が見ていないと述べた。これ以上の根拠なし。*


*(6話から続いた議題が、本人の一言で終わった。条件3は「本人が認識していないこと」が成立要件である可能性——最初の記録として残す)*


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