第30話「笑ったのは初めてだった」
本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません
食堂の朝は早い。
カナトが席についたとき、すでにゴドルは隅のテーブルで湯気のあるものを飲んでいた。
ヴィオは壁際で何かを口ずさんでいた。声は小さく、歌の形をしていなかった。
カナトは端のテーブルに座って、パンをちぎった。
「おはようございます」とヴィオが言った。
ゴドルは何も言わなかった。
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女将さんが来たのは朝食の終わりごろだった。
「あんた、今日は午後から依頼なし。ルナちゃんが聞いてきた」
「……なんでルナさんが」
「知らない。そういう話を持ってきた」
女将さんはすでに食堂の奥へ戻っていた。
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午前の修繕は厩舎の木戸だった。
蝶番が一箇所、芯からずれていた。
ヴィオが馬房の向こうで何かに触れながら「木の重さが変わりましたね」と言った。
「……変わりましたか」
「さっきより落ち着いた音がします」
作業は静かに終わった。
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昼を少し過ぎたころ、ズバンが宿の前で待っていた。
「お疲れさん」
「……何かありますか」
「いや、特に」
ズバンは笑ったが、目が笑っていなかった。
「……ヴァルト殿が来る」
カナトは木戸の方を見た。
「また、ですか」
「また、だ」
二人はしばらく黙っていた。
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ヴァルトが来たのは昼過ぎの日差しが宿の軒先を斜めに切るころだった。
以前と同じ、白っぽい旅装だった。
ただ今回は供の者がいなかった。
「カナト」
「……はい」
「少し話せるか」
カナトはルナの方を見た。
ルナは手帳を開いたまま、宿の壁から三歩離れた場所に立っていた。
ゴドルが食堂の入口から外を見ていた。
ヴィオは軒下の柱のそばにいた。
「……ズバン、少しいいか」
ズバンが首を動かした。
「二人で話させてくれ」
ズバンは一瞬固まった。
それからゆっくり、食堂の方へ向かった。
ルナが手帳を閉じた。
ゴドルが食堂の中に引っ込んだ。
ヴィオが「では私も」と言って、角を曲がった。
五秒くらいかかった。
カナトはその背中を見送った。
ヴァルトは何も言わなかった。
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宿の裏側、井戸のそばに人はいなかった。
ヴァルトが先に歩いて、石の縁に腰を下ろした。
カナトは少し離れて立っていた。
「座らないのか」
「立っている方が……落ち着くので」
(逃げやすいから、とは言えない)
声に出なかった。
ヴァルトはしばらく何も言わなかった。
井戸の底で何かが鳴った。水の音か風の音かわからなかった。
「もう一度だけ聞かせてくれ」
ヴァルトの声は低かった。
「俺と一緒に戻る気はないか」
カナトは空を見た。
それから地面を見た。
真銀の旗。
その名前は思い出せる。
そこにいた日々も。
カナトは石畳の目地を見た。
返事が、出なかった。
カナトは少し、黙っていた。
それから、口を開いた。
「……戻ったら」
「ああ」
「誰も見ていない時間は、ありますか」
沈黙だった。
ヴァルトはカナトを見た。
しばらく、見続けた。
それからヴァルトが笑った。
声ではなかった。
表情だった。
口の端が動いて、目の形が変わった。
カナトはそれを見て、何が起きているかしばらくわからなかった。
(ヴァルトさんって笑う人だったか)
声に出なかった。
笑いはすぐに消えた。
「……そうか」
ヴァルトが言った。
それだけだった。
間があった。
「すまなかった」
「……は」
「追放した。それは正しくなかった」
カナトは返事をしなかった。
しなかったというより、言葉が出なかった。
(謝られると、しんどい——とは今日は思わなかった)
声に出なかった。
「戻らなくていい」
ヴァルトが言った。
「ただ、聞いておきたかった」
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ヴァルトが去るとき、ズバンがどこからか出てきた。
二人が話すのをカナトは遠くから見た。
聞こえない距離だった。
ズバンが何かを言った。
ヴァルトが頷いた。
それだけだった。
ゴドルが後ろにいた。
「知らん方がいいこともある」
「……そうですか」
「ああ」
それだけだった。
宿の木戸が、風で動いた。
蝶番の音が、今朝より落ち着いていた。
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夕方、ズバンは宿の自室に戻った。
机の上に、昨日書いたままの報告書があった。
封をしていない。
宛先は「ヴァルト殿」と書いてあった。
ズバンはそれをしばらく見ていた。
それから引き出しを開けた。
引き出しの中には、過去に送らなかった報告書が四通あった。
どれも「ヴァルト殿」宛だった。
宛先が、いる。
もうここには来ない。
ズバンは封をしないまま机に置いた。
新しい紙を引き出しから出した。
何かを書き始めた。
「ヴァルト殿」とは書かなかった。
宛先を書くのを、今日は後回しにした。
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ルナがその日の記録をつけたのは、宿の食堂が閉まった後だった。
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*【記録 / L.記】*
*30日目。修繕:厩舎・木戸蝶番一箇所。発動確認。疲弊:軽微。*
*特記事項:ヴァルト、三度目の来訪。カナト氏と二人で話す(内容:直接取得できず)。*
*(午後の予定を空けたのは私の判断だった。井戸の向こうまでは、聞こえなかった)*




