第29話「いつも、人払いしたいから」
本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません
ルナが自分から来たのは昼過ぎのことだった。
いつもは先回りして待っているか、修繕の後ろで手帳を開いているかのどちらかだった。
扉を叩いて入ってくるのは、初めてだった。
「少し、いいですか」
「あ、はい」
カナトは帳簿から顔を上げた。
ルナは部屋に入らず、扉口に立ったままだった。
「説明していいですか」
「……何をですか」
「あなたのスキルの件です」
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カナトは帳簿を閉じた。
「はい」
「立ち話は長くなります。通路の腰掛けを使っていいですか」
「あ、はい」
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腰掛けが二脚、食堂の前の通路に出た。
ヴィオもズバンも今日は外に出ていた。
ゴドルは食堂の奥の定席にいたが、こちらには向いていなかった。
ルナは腰掛けに座った。
手帳を膝の上に置いた。
開かなかった。
カナトはそれに気づかなかった。
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「あなたのスキルは、三つの条件が揃うと別の挙動をします」
ルナは言った。
淡々とした声だった。
「……そうですか」
「驚かないんですか」
カナトは少し考えた。
「……何となく、そういう気はしていました」
ルナが黙った。
一秒ではなかった。
もう少し長かった。
カナトはルナの顔を見た。
表情は変わっていなかった。
ただ、何かが止まっていた。
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「条件は三つです」
ルナは続けた。
「一つ目は——」
「それで」
カナトは言った。
「条件の三番目って、誰も見ていない、ですよね」
ルナが止まった。
「なぜわかるんですか」
カナトは少し首を傾けた。
「……いつも、人払いしたいから」
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ルナは何も言わなかった。
手帳が、開いたままだった。
膝の上に置かれていたはずの手帳が、いつの間にか開いていた。
書いていなかった。
書こうとしていなかった。
ただ、開いていた。
カナトはそれに気づいていなかった。
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「ようやくか」
声は食堂の奥から来た。
ゴドルだった。
こちらを向いていなかった。
湯飲みを置く音がした。
それだけだった。
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カナトは食堂の入口の方を見た。
ゴドルの背中が見えた。
「ようやく、というのは」
声に出た。
「何のことですか」
ゴドルは何も言わなかった。
カナトは通路に視線を戻した。
ルナはまだ何も書いていなかった。
手帳が開いたまま止まっていた。
ルナは答えなかった。
少しの間があった。
「……わかりません」
それは、珍しい返し方だった。
カナトにはその理由がわからなかった。
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通路に風が通った。
腰掛けが微かに軋んだ。
カナトは湯飲みを持ち直した。
「三つの条件、残り二つは何ですか」
「……続けていいですか」
「はい」
ルナは手帳を閉じた。
膝の上で両手を重ねた。
「一つ目は、技の原理を自分の言葉で理解していること」
「はい」
「二つ目は——」
ルナは一息おいた。
「HP瀕死に近い状態であること」
「……あー」
カナトは天井を見た。
造巣型の、あの夜が一瞬よぎった。
ここ数ヶ月、いつそんな状態になったか。心当たりを遡っていた。
「それは」
「はい」
「かなり困りますね」
「はい」
「(……なんでそんな条件なんだ)」
声に出た。
ルナは少しだけ間を置いてから言った。
「私にもわかりません」
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沈黙が来た。
外で荷馬車が通った。
御者の声が遠く聞こえた。
カナトは湯飲みを通路の縁に置いた。
カナトは少し前のめりになった。
「それで、三番目が」
「はい。誰も見ていない、です」
「……そうですよね」
カナトは手を膝の上に戻した。
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手帳は、まだ開いたままだった。
ルナの指が、膝の上の手帳の端をそっと押さえた。
ルナは何も書いていなかった。
いつもなら、この間に三行は書いている。
カナトにはその理由がわからなかった。
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「ルナさん」
「はい」
「それで、三つの条件が揃うと、どうなるんですか」
ルナは手帳を持ち直した。
「永続習得です。スキルが消えなくなります」
「……消えなく」
「はい」
カナトは少し黙った。
「俺、今まで何回かそれやってますか」
「一回確認しています」
「そうですか」
「はい」
「……何を取りましたか」
「固定・締結、です」
「……」
カナトは天井を見た。
いつだったか。仕事の流れを一本一本たぐり直していた。
「(……あの虫か)」
声に出た。
ルナは一度だけ頷いた。
「8月の件です。造巣型の魔物の巣の修繕のとき」
「……あのとき」
「はい」
「(……それで修繕がうまくいってたのか)」
声に出た。
ルナはメモを取った。
初めて取った。
今日、最初の記録だった。
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日が傾き始めていた。
通路の影が伸びていた。
「他に何か、確認したいことはありますか」
ルナは言った。
カナトは少し考えた。
「……ルナさんは、いつからそれを知っていたんですか」
「古文書は5月の時点で全文を読んでいました。観察は4月から始めています」
「……ずっと知ってたんですね」
「はい」
ルナは手帳を膝の上に置き直した。
そうか、と声に出た。
カナトはそれ以上何も言わなかった。
不満でも、驚きでもなかった。
ただ、そういうことか、という感じだった。
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「ありがとうございます」
カナトは言った。
「……何がですか」
ルナが聞いた。
「説明してくれたことが、です」
ルナは返事をしなかった。
しばらく、通路に静かな時間が来た。
カナトは湯飲みをまた手に取った。
「(……これから人払いするのが、ちょっとやりにくくなったな)」
声に出た。
ルナは手帳を開いた。
二行目を書いた。
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奥からゴドルが出てきた。
腰掛けの横を通りすぎるとき、一度だけカナトを見た。
何も言わなかった。
食堂の外に出て、向こうの通りへ消えた。
カナトはその背中を見た。
「ルナさん、さっきの『ようやく』、わかりますか」
少し間があった。
「……わかりません」
二度目の「わかりません」だった。
カナトはそれ以上聞かなかった。
ゴドルが何を言いたかったのか、今日のところはわからなかった。
たぶん、何かが「ようやく」なのだろうとは思った。
何が、かはわからなかった。
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*【記録 / L.記】*
*29日目。修繕なし。*
*出来事:カナト氏へ直接説明を実施(3条件・真実のチート・固定締結スキルの件)。*
*反応:「そういう気はしていました」。「いつも人払いしたいから」。*
*備考:条件3(誰も見ていない)を本人が先読みした。観察4ヶ月分の記録と同じ結論を、当人は「なんとなく」として持っていた。*
*(今日、手帳を開くのを忘れた。これは初めてのことだった)*




