第28話「記録帳」
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ヴァルトが戻ってきたのは、昼過ぎのことだった。
宿の入口に人影が立っているのを、女将さんが気づいた。
「あら」
声に特別な感情はなかった。
「また来てくれた。部屋、空いてますよ」
ヴァルトは頷いた。
「一泊だけ借りる」
「はいはい。荷物ここに置いてていいですよ」
女将さんはそれだけ言って、厨房に戻った。
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カナトが帳簿の整理をしていた小部屋に、ヴァルトが現れたのはそれから少しあとだった。
「入っていいか」
「あ、はい」
返事をしてから、カナトは顔を上げた。
ヴァルトだった。
「……」
前回来たとき、この人は「戻る必要はない」と言って出ていった。
それが答えだと思っていた。
「座ってくれ」
ヴァルトが先に言った。
カナトの部屋に、ヴァルトが座った。
椅子が一脚しかなかったので、カナトは立ったままになった。
「渡すものがある」
ヴァルトはそう言って、懐から一冊の帳面を取り出した。
革表紙の、小ぶりな記録帳だった。
使い込まれた色をしていた。
「これを」
「……はい」
受け取った。
重さは普通だった。
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「開けてみろ」
ヴァルトが言った。
カナトは表紙を開いた。
日付と、短い文字列が並んでいた。
手書きで、几帳面な字だった。
依頼の記録らしきものだった。
日付、内容、それから短い評価欄。
次のページに進んだ。
少し書き方が変わっていた。
*「開花前の追放を検討——結論:保留」*
手が止まった。
意味はわかった。
わかったが、何かが追いついていなかった。
もう一枚めくった。
*「管理限界に近い。——追放を実行する」*
「……」
帳面から目を上げなかった。
「怒らないのか」
ヴァルトが言った。
穏やかな声だった。
問い詰めてはいなかった。
カナトは少し考えた。
「……何かはわかりません」
「そうか」
沈黙があった。
椅子が軋む音がした。
「お前が聞きに来ないと思った。だから持ってきた」
ヴァルトはそれだけ言った。
カナトは帳面から目を上げなかった。
しばらく、何かが頭の中で動いていた。
「(……ああ、そういうことか。この人も、言葉にならなかったんだ)」
部屋が静かだった。
ヴァルトは何も言わなかった。
ただ、窓の外に向けていた視線が、一度だけ止まった。
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しばらくして、カナトは表紙をそっと閉じた。
帳面の重さだけが手の中に残った。
怒りではなかった。
声にもならなかった。
ただ、そこにあった。
窓の外で、馬が一頭、柵の前を通り過ぎた。
ヴァルトは椅子に座ったまま、窓を見ていた。
カナトは少し考えてから、帳面を棚の上に置いた。
帳簿の隣ではなく、少し離して。
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「ここに、ルナさん来ますか」
「さあな」
「来たら見せていいですか」
ヴァルトは少しの間、カナトを見た。
「好きにしろ」
「わかりました」
それきり、二人とも黙った。
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ルナが来たのは夕方になる少し前だった。
扉を二回叩いて、返事を待たずに開けた。
部屋に入り、ヴァルトを見た。
一秒静止した。
それから、カナトを見た。
「何か」
「これ」
カナトが棚から帳面を取って差し出した。
ヴァルトが額に手を当てた。
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ルナは立ったまま帳面を開いた。
最初のページを読んだ。
次のページを読んだ。
手が一度止まった。
左手でローブのポケットから手帳を取り出した。
一行だけ書いた。
また読み始めた。
追放前の最後の記録があった。
*「管理限界に近い。——追放を実行する」*
ルナは手帳を開いたまま止まった。
手帳を閉じた。
帳面をカナトに返した。
「ありがとうございます」
ヴァルトを見なかった。
扉を閉めた。
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ヴァルトは夕食前に立った。
「泊まらないんですか」
女将さんが聞いた。
「やめておく」
「そうですか。また来てくださいね」
ヴァルトは答えず、宿を出た。
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翌朝。
ズバンは宿の前の石段に腰を下ろして、空を見ていた。
懐に、折りたたんだ紙があった。
「ヴァルト殿」
宛名だけ書いてある。
封をしていない。
送っていない。
ヴァルトが昨日来て、今日いなくなった。
ズバンはその紙を取り出した。
広げて、もう一度見た。
宛名しか書いていない。
ヴァルトは記録帳に何年分も書いていた。
追放の理由を、日付ごとに。
几帳面な字で、全部。
俺には何も書けなかった。
書こうとしたが、最初の一文が出てこなかった。
「ヴァルト殿が来ました」とは書けない。
「記録帳を渡していきました」も書けない。
「カナトは怒りませんでした」は——
書けなかった。
ヴァルトは書ける人間だった。
それだけが、石段に座ったまま、はっきりとわかった。
ズバンは紙を折り直した。
懐に戻した。
今日も送らない。
昨日の部屋で、ひとつだけ見たことがあった。
カナトは帳面を返していなかった。
棚の上に、少し離して置いてあった。
ヴァルトも返せと言わなかった。
それが何なのかは言葉にならなかったが、ズバンはその紙を懐に押し込んで、石段から立ち上がった。
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*【記録 / L.記】*
*28日目。修繕なし。*




