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第26話「包囲された、と声が出た」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

起きた時間は、まだ暗かった。


空が白んでいるかどうか、というくらいの時間だった。


食堂の鍋の音も、廊下の足音も、まだない。


カナトは工具袋を置いたまま、扉の外を確認した。


誰もいない。


「(少し、歩きたい)」


声に出た。


廊下に吸い込まれて消えた。


誰も聞いていない。


それだけで、すこしだけ呼吸がらくになった。


---


宿の外は冷えていた。


石畳に朝靄が薄く広がっている。


カナトは扉を静かに閉めて、宿の壁沿いに歩いた。


ここは静かだ。


人払いでも隠密でもない。


ただ、まだ早い。それだけだった。


少し行ったところで、白杖の先が石畳を叩く音がした。


低く、規則的な音だった。


カナトは足を止めた。


「おはようございます」


ヴィオが宿の壁際に立っていた。


旅装のまま、外套を肩にかけて、白杖を前に持っている。


昨夜からそこにいたのか、朝早くに来たのか、判断できない立ち方だった。


「……なんでいるんですか」


「声が変わりましたよ」


「質問に答えてください」


「早い時間の方が、音が聞こえやすいので」


カナトは石畳を見た。


靄は動かない。


「(朝に出たら静かだと思ったのに)」


声に出た。


「聞こえましたよ」とヴィオが言った。


「……わかってます」


わかっていない。


---


路地の方に回れば、誰もいないかもしれない。


カナトはそれとなく方向を変えた。


わざとらしくならない程度の歩幅で。


路地の角を曲がった。


ルナが立っていた。


手帳を持って、何かを書いていた。


顔を上げずに言った。


「おはようございます」


「……おはようございます」


「早いですね」


「そっちこそ」


「観察に適した時間帯なので」


「何を観察するんですか」


ルナはそこで少しだけ手帳を持ち直した。


「朝の気温と、通行量の変化を」


カナトは返事をしなかった。


路地の奥はまだ暗い。


引き返す方向に、ヴィオの白杖の音が続いている。


「(……なぜここにいるんですか)」


声に出た。


ルナが手帳に何かを書き足した。


*7時前。カナト氏が路地へ。独り言「なぜここにいるんですか」。声に出ていた。(対象は私のこと)*


「書かないでください」


「記録です」


「俺に関する記録をやめてください」


「検討します」


する気がない返事だった。


---


街道に出れば開けている。


カナトは宿の方向には戻らずに、表の通りへ出た。


街道の朝は、少し風がある。


靄が動いていた。


カナトは半歩進んで、止まった。


ズバンが街道の真ん中に立っていた。


腕を組んで、こちらを見ている。


「よう」


「……なんでいるんですか」


「なんでだろうな」


ズバンは腕を組んだまま、少し首を傾けた。


「朝飯前に少し体を動かすかと思ったら、お前が出てくるのが見えた」


「それで立ってたんですか」


「声でもかけようかと思って」


「声をかけましたよね」


「かけたな」


カナトはずっと出てこない言葉を探した。


見つからなかった。


「……どこに行けばいいんですか」


「どこって」


「静かなところに行きたいんですが」


ズバンは少し間を置いた。


「ここ、けっこう静かじゃないか。朝は」


「今は静かじゃないです」


「俺がいるからか」


「そうです」


ズバンはしばらく黙った。


悪いことを言った自覚はある顔だった。


「……戻るか? 飯、そろそろできる頃だろ」


カナトは街道の先を見た。


遠くまで、誰もいない。


「(……行っても誰かいるんだろうな)」


声に出た。


ズバンが視線を外した。


「まあ、な」


---


食堂に戻ると、ゴドルと女将さんがいた。


ゴドルは隅の席にいた。


湯気の立つものを前にして、何も言わずに座っている。


女将さんは厨房と食堂の間を往復していた。


カナトが入ってきても、顔を上げなかった。


ズバンが後ろから入ってくる。


カナトは入口のそばに立ったまま、食堂の中を見た。


ルナは引き戸の近くの席に座っていた。


手帳を開いている。


ヴィオが中央の席に座っていた。


白杖を膝に渡して、静かにしている。


全員いる。


全員、もうここにいる。


「(……包囲された)」


声に出た。


食堂の中が、一瞬だけ静かになった。


ルナが手帳に何かを書いた。


ヴィオが首を傾けた。


ズバンが後頭部に手をやった。


ゴドルだけが違った。


口の端が、少しだけ動いた。


声は出ていない。


ただ、動いた。


カナトはそれを見た。


こんな顔をするのか、とぼんやり思った。


「朝ごはんできてるわよ」


女将さんが厨房から声をかけた。


返事を待たずに皿が出てきた。


---


カナトは席についた。


湯気が顔に当たった。


温かかった。


もう逃げ場がない、という言葉は、すでに何種類もの意味を持っている。


それは声には出なかった。


---


夕方、ズバンは引き出しを開けた。


封をした報告書がある。


宛先の欄にヴァルト殿、と書いてある。


そのままになっている。


ヴィオが戻った翌日の朝、カナトが宿の外に出た。


路地に出た。街道に出た。


全員がそこにいた。


俺もそこにいた。


カナトは「包囲された」と言った。


声に出ていた。


ゴドルが笑っていた。


俺は笑えなかった。


笑えなかった理由を考えたが、わからなかった。


ただ、カナトが席について、湯気の立つ皿の前に座っているのを見た時、


何か、これでよかった、という感じがした。


それが何のことなのか、うまく言えない。


報告書を一度手に取った。


書き足す言葉が出てこなかった。


引き出しに戻した。


封は、まだしたままだ。


---


*【記録 / L.記】*


*26日目。修繕なし。*


*早朝、カナト氏が単独で宿外へ。路地→街道の順に移動。各地点でヴィオ氏・私・ズバン氏と順次接触。カナト氏は全員と接触した後、食堂に戻った。*


*食堂にてゴドル氏・女将さんが待機していることを確認。全員が同一空間に揃った時点でカナト氏の独り言「包囲された」、声に出た。*


*(この状態を本人が何と呼ぶかは、まだわからない)*


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