第25話「ひびが入った」
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女将さんの声が、廊下のいちばん奥まで届く。
「カナトさん、来客です」
カナトは工具の袋に手を入れたまま振り返った。
朝の光が廊下に落ちている。
その中に、見覚えのある細い影が立っていた。
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「またここに来ました」
ヴィオが言った。
白杖を正面に持ち、両手で軽く握っている。
旅の埃が外套の裾にある。長い移動の匂いがする。
「……ヴィオさん」
カナトはしばらく工具袋を持ったままだった。
返す言葉が、すぐに出てこなかった。
別に驚いてはいない。
ただ、なんとなく、
「(静かだったのが、また動き始めた)」
声に出た。
ヴィオが少し首を傾けた。
「声が出ていましたよ」
「……わかってます」
わかっていない。
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女将さんは朝の修繕依頼を三枚、テーブルに並べた。
「運がよかったわね。今日は多いから、二人でちょうどいいくらい」
誰に言ったのか、よくわからない角度で言った。
カナトはリストを眺めた。
一枚目:宿の北側、雨戸の蝶番がずれている。
二枚目:食堂の裏口、木製の引き戸が枠から浮いている。
三枚目:雑貨屋の軒先、木柱の継ぎ目。
「木が多い」とカナトは言った。
独り言ではなく、単なる確認のつもりだった。
ヴィオがうなずいた。
「聞こえやすい素材ですね」
「……そうですか」
「木は音が遠くまで通るので」
カナトは工具袋を肩にかけた。
「行きますか」
「はい」
女将さんがすでに別の方向を向いていた。
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雨戸の蝶番は、外側から見ると大したことがなかった。
ヴィオは一歩下がって壁側に立った。
白杖の先を地面に置き、ただそこにいた。
カナトは工具を出す。
蝶番の軸がわずかにずれている。
長年の開閉で少しずつ動いたのか、木が乾燥して縮んだのか。
蝶番を外して、軸の位置を確認する。
ヴィオが静かに言った。
「木の音が変わりましたね」
「触ってるので」
「触る前から少し変わっていましたよ」
カナトは手を止めた。
「気のせいじゃないですか」
「気のせいかもしれません」
返事になっていない。
カナトは蝶番の位置を合わせた。
軸をはめ込む。
なんか、はまった。
手のひらに、小さな抵抗の消える感触が来た。
きつく押し込んだわけでもないのに、そこにある、という感じがした。
「(なんか、仕事がしやすい)」
声に出た。
ヴィオが返事をした。
「そうですね」
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食堂の裏口は、カナトが一人で見た。
ヴィオは路地の入口で待っていた。
「少し待っていてください」
「はい」
引き戸を外して枠を確認する。
木が膨らんでいる。雨が染みたのか、端が少し盛り上がっている。
削るか、それとも。
カナトは枠に手をやった。
特に力は入れていない。
なんか、戻った。
通常の手応えだった。
引き戸を枠に合わせると、きちんとはまった。
釘を一本打って終わりにした。
「(これは普通のやつだ)」
ヴィオが遠くから声をかけた。
「終わりましたか」
「終わりました」
「音が落ち着きましたね」
「普通に直しただけです」
路地を戻ると、ヴィオが白杖を持ち直した。
「それでも同じ音になりましたよ」
カナトは工具袋を肩に戻した。
「そういうもんですか」
「そういうもんです」
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雑貨屋の軒先は、継ぎ目が少し開いていた。
木柱の上端、屋根との接合部が数ミリ浮いている。
ヴィオは雑貨屋の壁際に立ち、壁の方を向いていた。
店主が奥から顔を出して「あそこです」と一度だけ言って引っ込んだ。
カナトは脚立を出した。
柱の継ぎ目に近づく。
手で触れる。
開いた隙間に指をあてがう。
「(冷えてる)」
長い間、直射日光が当たらない面だった。
木の内側に湿気がある。
腐食はない。接合の問題だけだ。
位置を合わせて、手で押さえる。
なんか、重なった。
いつもより、少し早い気がした。
継ぎ目が閉じた。
手のひらに、合わさる感触が来た。
打ち込む釘の数を確認して、念のために二本追加した。
ヴィオが振り返らずに言った。
「今日は二回、声が出ていましたよ」
「二回?」
「最初の一回と、今は出ませんでしたね」
カナトは釘を打ち終えた。
「出なかったなら問題ないです」
「そうかもしれません」
脚立を折りたたんだ。
「(……いや、別にいいか)」
「今度は出ましたよ」
「もうどっちでもいいです」
ヴィオが笑った。
音だけの笑いだった。
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昼前に仕事が終わった。
女将さんに報告すると、追加が一件ある、と言われた。
「明日でいいですか」と聞いたら「いつでも」と返ってきた。
ヴィオはその間、食堂の入口近くに座っていた。
何かを口ずさんでいた。
大きな声ではない。旋律の確認のような音だった。
カナトは工具袋を置いた。
「旅、どこまで行ってたんですか」
ヴィオが口ずさむのを止めた。
「ベリス川沿いをひとまわりして、それからコートの方まで」
「遠いですね」
「そこまで遠くはなかったです」
「俺の感覚では遠いです」
ヴィオが少し首を傾けた。
「カナトさんは、ここ以外へは行かないんですか」
「行きません」
「なぜ」
カナトは少し考えた。
「(ここが静かだから)」
声に出た。
ヴィオが聞いていた。
「そうですか」
「……そうです」
「静かかどうか、私にはよくわかりませんが」
「俺の基準で静かです」
ヴィオが少しだけ笑った。
また音だけの笑いだった。
「また来てもいいですか」
カナトは工具袋の留め具を確認した。
「女将さんに確認してください」
「カナトさんに確認しています」
「……仕事があるなら来ても構いません」
「仕事がなければ?」
「女将さんに確認してください」
「そうします」
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夕方、ズバンは引き出しを一度だけ開けた。
封をした報告書がある。
送っていない。
ヴィオが戻ってきた。
それだけのことだ。
書くか書かないかを少し考えた。
書かなかった。
引き出しを閉めた。
今日の話じゃない、と思った。
廊下から女将さんの声が聞こえた。
夕食の案内をしている。
ズバンは立ち上がった。
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*【記録 / L.記】*
*25日目。ヴィオ氏帰還。修繕三件(木製対象二件・通常一件)。ヴィオ同行下、発動を二件確認。条件整備、再成立。*
*カナト氏の独り言「静かだ」、本日ゼロ件。前回(24日目:三件)との比較、明確な差異あり。*
*(何が変わったのか、本人は気づいていないと思われる)*




