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第25話「ひびが入った」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

女将さんの声が、廊下のいちばん奥まで届く。


「カナトさん、来客です」


カナトは工具の袋に手を入れたまま振り返った。


朝の光が廊下に落ちている。


その中に、見覚えのある細い影が立っていた。


---


「またここに来ました」


ヴィオが言った。


白杖を正面に持ち、両手で軽く握っている。


旅の埃が外套の裾にある。長い移動の匂いがする。


「……ヴィオさん」


カナトはしばらく工具袋を持ったままだった。


返す言葉が、すぐに出てこなかった。


別に驚いてはいない。


ただ、なんとなく、


「(静かだったのが、また動き始めた)」


声に出た。


ヴィオが少し首を傾けた。


「声が出ていましたよ」


「……わかってます」


わかっていない。


---


女将さんは朝の修繕依頼を三枚、テーブルに並べた。


「運がよかったわね。今日は多いから、二人でちょうどいいくらい」


誰に言ったのか、よくわからない角度で言った。


カナトはリストを眺めた。


一枚目:宿の北側、雨戸の蝶番がずれている。


二枚目:食堂の裏口、木製の引き戸が枠から浮いている。


三枚目:雑貨屋の軒先、木柱の継ぎ目。


「木が多い」とカナトは言った。


独り言ではなく、単なる確認のつもりだった。


ヴィオがうなずいた。


「聞こえやすい素材ですね」


「……そうですか」


「木は音が遠くまで通るので」


カナトは工具袋を肩にかけた。


「行きますか」


「はい」


女将さんがすでに別の方向を向いていた。


---


雨戸の蝶番は、外側から見ると大したことがなかった。


ヴィオは一歩下がって壁側に立った。


白杖の先を地面に置き、ただそこにいた。


カナトは工具を出す。


蝶番の軸がわずかにずれている。


長年の開閉で少しずつ動いたのか、木が乾燥して縮んだのか。


蝶番を外して、軸の位置を確認する。


ヴィオが静かに言った。


「木の音が変わりましたね」


「触ってるので」


「触る前から少し変わっていましたよ」


カナトは手を止めた。


「気のせいじゃないですか」


「気のせいかもしれません」


返事になっていない。


カナトは蝶番の位置を合わせた。


軸をはめ込む。


なんか、はまった。


手のひらに、小さな抵抗の消える感触が来た。


きつく押し込んだわけでもないのに、そこにある、という感じがした。


「(なんか、仕事がしやすい)」


声に出た。


ヴィオが返事をした。


「そうですね」


---


食堂の裏口は、カナトが一人で見た。


ヴィオは路地の入口で待っていた。


「少し待っていてください」


「はい」


引き戸を外して枠を確認する。


木が膨らんでいる。雨が染みたのか、端が少し盛り上がっている。


削るか、それとも。


カナトは枠に手をやった。


特に力は入れていない。


なんか、戻った。


通常の手応えだった。


引き戸を枠に合わせると、きちんとはまった。


釘を一本打って終わりにした。


「(これは普通のやつだ)」


ヴィオが遠くから声をかけた。


「終わりましたか」


「終わりました」


「音が落ち着きましたね」


「普通に直しただけです」


路地を戻ると、ヴィオが白杖を持ち直した。


「それでも同じ音になりましたよ」


カナトは工具袋を肩に戻した。


「そういうもんですか」


「そういうもんです」


---


雑貨屋の軒先は、継ぎ目が少し開いていた。


木柱の上端、屋根との接合部が数ミリ浮いている。


ヴィオは雑貨屋の壁際に立ち、壁の方を向いていた。


店主が奥から顔を出して「あそこです」と一度だけ言って引っ込んだ。


カナトは脚立を出した。


柱の継ぎ目に近づく。


手で触れる。


開いた隙間に指をあてがう。


「(冷えてる)」


長い間、直射日光が当たらない面だった。


木の内側に湿気がある。


腐食はない。接合の問題だけだ。


位置を合わせて、手で押さえる。


なんか、重なった。


いつもより、少し早い気がした。


継ぎ目が閉じた。


手のひらに、合わさる感触が来た。


打ち込む釘の数を確認して、念のために二本追加した。


ヴィオが振り返らずに言った。


「今日は二回、声が出ていましたよ」


「二回?」


「最初の一回と、今は出ませんでしたね」


カナトは釘を打ち終えた。


「出なかったなら問題ないです」


「そうかもしれません」


脚立を折りたたんだ。


「(……いや、別にいいか)」


「今度は出ましたよ」


「もうどっちでもいいです」


ヴィオが笑った。


音だけの笑いだった。


---


昼前に仕事が終わった。


女将さんに報告すると、追加が一件ある、と言われた。


「明日でいいですか」と聞いたら「いつでも」と返ってきた。


ヴィオはその間、食堂の入口近くに座っていた。


何かを口ずさんでいた。


大きな声ではない。旋律の確認のような音だった。


カナトは工具袋を置いた。


「旅、どこまで行ってたんですか」


ヴィオが口ずさむのを止めた。


「ベリス川沿いをひとまわりして、それからコートの方まで」


「遠いですね」


「そこまで遠くはなかったです」


「俺の感覚では遠いです」


ヴィオが少し首を傾けた。


「カナトさんは、ここ以外へは行かないんですか」


「行きません」


「なぜ」


カナトは少し考えた。


「(ここが静かだから)」


声に出た。


ヴィオが聞いていた。


「そうですか」


「……そうです」


「静かかどうか、私にはよくわかりませんが」


「俺の基準で静かです」


ヴィオが少しだけ笑った。


また音だけの笑いだった。


「また来てもいいですか」


カナトは工具袋の留め具を確認した。


「女将さんに確認してください」


「カナトさんに確認しています」


「……仕事があるなら来ても構いません」


「仕事がなければ?」


「女将さんに確認してください」


「そうします」


---


夕方、ズバンは引き出しを一度だけ開けた。


封をした報告書がある。


送っていない。


ヴィオが戻ってきた。


それだけのことだ。


書くか書かないかを少し考えた。


書かなかった。


引き出しを閉めた。


今日の話じゃない、と思った。


廊下から女将さんの声が聞こえた。


夕食の案内をしている。


ズバンは立ち上がった。


---


*【記録 / L.記】*


*25日目。ヴィオ氏帰還。修繕三件(木製対象二件・通常一件)。ヴィオ同行下、発動を二件確認。条件整備、再成立。*


*カナト氏の独り言「静かだ」、本日ゼロ件。前回(24日目:三件)との比較、明確な差異あり。*


*(何が変わったのか、本人は気づいていないと思われる)*


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