第22話「あの男は最初から、こっちを見ていなかったのだろう」
本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません
朝の食堂は、いつも音から始まる。
椅子を引く音。
陶器が台に置かれる音。
女将さんが奥から声を張り上げる音。
ヴァルトはその全部を、壁際の席で聞いていた。
ドリスが向かいに座っている。
どちらも何も言わなかった。
---
食堂の奥のテーブルに、カナトがいた。
一人で座って、パンを食べている。
特別なことは何もない。
ただ食べている。
ヴァルトはそれを見ていた。
---
「おはよう、カナト」
女将さんが盆を持って通り過ぎながら言った。
「あ、今日、南側の門柱、頼めるかい。金属帯が緩んでる。大したことないけど」
カナトはパンを半分かじったまま顔を上げた。
「……はい」
「道具は物置にあるから。昼前には終わると思うけど」
「……はい」
女将さんはもう次の客のほうへ行っていた。
---
カナトはしばらくパンを見ていた。
それから、小声で言った。
「(今日も逃げ場がない)」
---
ヴァルトの手が、カップの上で止まった。
ドリスは視線を落とした。
---
カナトは何事もなかったようにパンの続きを食べた。
---
昼。
ヴァルトは食堂の窓際に立っていた。
南側の門柱は、食堂の窓から斜めに見える。
カナトが道具箱を地面に置いて、金属帯の緩みを確認している。
指で触れて、揺らして、首を傾ける。
特別なことは何もない。
---
カナトが槌を取り出した。
釘を当てる。
一回、打つ。
二回、打つ。
---
ヴァルトは窓枠に手をついたまま、それを見ていた。
「(なんだろうな、釘って)」
カナトの声が風に乗って届いた。
「(ちゃんと打てば意外と固い)」
---
ヴァルトは何も言わなかった。
---
三回、四回、打つ。
金属帯はだんだん動かなくなった。
カナトは手で揺らして確認して、もう一度揺らして、
それから小さく息を吐いた。
「(固まった)」
---
ヴァルトは窓から離れた。
---
路地の角に、ゴドルがいた。
壁に背を預けて、腕を組んでいる。
ヴァルトは立ち止まった。
どちらも何も言わなかった。
しばらくして、ヴァルトが口を開いた。
「……あの男は、いつもああなのか」
ゴドルは路地の先を見たまま答えた。
「ああだ」
---
それだけだった。
ヴァルトは路地を折れて、先へ歩いた。
---
夕方。
カナトが道具箱を物置に戻しているところだった。
槌を箱に入れて、蓋を閉めて、立ち上がる。
振り返ったところで、ヴァルトが立っていた。
---
カナトは一秒、固まった。
「……あ」
「邪魔をした」
ヴァルトは一歩退いた。
---
しばらく、どちらも動かなかった。
ヴァルトが言った。
「仕事が好きか」
---
カナトは道具箱を脇に置いて、少し考えた。
「(好きかどうかで、いうと……)」
声が出ていた。
ヴァルトは聞いていた。
---
「……まあ、静かだから好きです」
---
ヴァルトは何も言わなかった。
カナトは少し間を置いてから、小さく会釈して物置の前を離れた。
---
ヴァルトは一人になった。
---
夜。
ルナはメモを広げていた。
*【記録 / L.記】*
*22日目。修繕:南側門柱・金属帯(一か所)。釘打ち。スキル発動なし(ヴァルト窓より目視中・条件3不成立)。*
*ヴァルト、本日カナトを断続的に観察。門柱の修繕作業を食堂の窓より目視。ゴドルと路地にて短時間接触(内容不明)。夕方、カナトと直接対話。一往復。*
*回収の動きではなかった。*
ルナはペンを止めた。
線は引かなかった。
---
ヴァルトは宿の一室で、窓の外を見ていた。
考えていることは、一つだった。
かつて一度だけ、あの男に聞いたことがある。
「戻る気はないか」と。
返ってきた答えは、「誰だっけ」だった。
怒りでも、拒絶でも、恐れでもなかった。
ただ、思い出せなかっただけだ。
……あの男は最初から、俺のことを見ていなかったのだろう。
ヴァルトは窓から顔を離した。
それ以上は考えなかった。
---
今日も、カナトは何かを動かしたことに気づいていない。




