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第21話「謝りたかったのに、なんか笑ってしまいました」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

 「考える時間を、くれ」


ヴァルトがそう言った後、食堂の空気がどこかへ行った。


カナトはまだスプーンを持ったままだった。


(……粥、冷めた)


---


誰も動かなかった。


ズバンは立ちかけたまま止まっている。


ルナはペンを持ったまま紙に視線を落としている。


ヴィオは音を聞くように、首をわずかに傾けていた。


---


カナトはスプーンをゆっくり置いた。


(朝食の途中だったんですよ。こういうとき、続けていいのかどうかが、いつもわからない)


誰かが「……」と息を吸う音がした。


---


女将さんが厨房から出てきた。


「ヴァルトさんたち、朝食はどうしますか」


全員が彼女を見た。


「まだ残ってますよ、粥。あと焼いたパンも出せます」


ヴァルトが穏やかに微笑んだ。


「……いただこう」


---


女将さんはヴァルトとドリスの前に器を置き、厨房に戻った。


それだけだった。


カナトはそれを見てから、自分のスプーンを再び持った。


(助かった。女将さんが話を進めてくれると、俺が何も決めなくていい)


---


ドリスが口を開きかけた。


何か言おうとして、止まった。


そのまま粥を受け取った。


---


食堂に音が戻ってきた。


器がテーブルに置かれる音。


スプーンが動く音。


誰かが椅子をずらす音。


---


ズバンはゆっくり腰を下ろした。


腕を組んで、天井を見た。


(どうすれば)


彼の中に言葉はそれしかなかった。


---


---


昼になった。


カナトは宿の裏手で作業をしていた。


折れた荷台の板を補修している。


釘を打つ。確かめる。また打つ。


(このへんの木、乾燥が甘い。あとで反るかもしれない。でも今日中に渡せと言われてるから、まあ仕方ない)


---


「……カナトさん」


振り返ると、ドリスが立っていた。


弓は背負っていない。


両手が、少し前に出ていた。


---


「何かありますか」


カナトは釘を一本、口から取り出した。


ドリスは一歩踏み出して、止まった。


また一歩。また止まった。


---


(なんか困ってる感じの人ですね)


声に出ていた。


---


ドリスが笑った。


小さく、短く。


でも確かに笑った。


---


「……そうですね」


ドリスは地面を見た。


「謝ろうと思ったんですけど」


「……何に」


「カナトさんを、追放したことに」


---


カナトは釘をまた口に含んだ。


板に当てて、金槌を持ち直した。


(追放。真銀の旗。ヴァルト。……なんか、そういうことがあった気がする)


---


「怒ってます、か」


カナトは考えた。


「……怒る、というのとは少し違う気がします」


「では、恨んでいますか」


また考えた。


「それも、なんか違う」


---


ドリスが静かに言った。


「じゃあ、何ですか」


カナトはハンマーを振り下ろした。


釘がきれいに入った。


---


(謝られると、その人が楽になるためのことを俺がしなきゃいけない気がして、それがちょっとしんどい)


また出た。


---


ドリスはしばらく黙っていた。


「……それは、すごく正直な答えですね」


「すみません、声に出てましたか」


「全部」


---


カナトは少し下を向いた。


「この癖、治らなくて」


「治さないでください」


ドリスの声が、少しだけ柔らかくなっていた。


---


「謝罪を受け取る側に、準備がいるとは思っていませんでした」


カナトは返事をしなかった。


ドリスもそれ以上言わなかった。


---


しばらく、板を打つ音だけが続いた。


ドリスはそのまま、その場に立っていた。


帰りもしなかった。


---


(なんで帰らないんだろう)


声に出ていた。


「……ここにいてもいいですか」


「何もしませんが」


「それでいいです」


---


カナトは答えなかった。


それが答えだった。


---


---


夕方になった。


路地の角に人が一人立っていた。


ヴァルトだった。


---


ズバンはそこを曲がろうとして、足を止めた。


「……」


「ズバン」


---


ヴァルトは壁に背を預けていた。


視線は前を向いたまま、ズバンを見なかった。


「ご苦労だった」


---


ズバンは返事ができなかった。


口が開かなかった。


---


「お前が止めたそうだな」


静かな声だった。


怒っているわけではなかった。


ただ事実を言っていた。


---


手下からの報告が届いていた。


ズバンが自分の指示を遮った、という。


---


「……はい」


やっと声が出た。


「理由は」


「……言えません」


「言えない、か」


---


ヴァルトが静かに前を見ていた。


路地の先に何かがあるわけではなかった。


---


「……まあ、いい」


それだけだった。


---


ヴァルトは壁から体を離して、路地を歩いていった。


怒っていなかった。


失望した様子もなかった。


---


ズバンはその背中を見ていた。


(まあ、いい)


何がいいのか、わからなかった。


怒鳴られる方が、よかった。


罰せられる方が、まだわかった。


(「まあいい」って何だ)


---


路地に風が通った。


ヴァルトの姿は角の向こうに消えた。


ズバンは壁に手をついた。


膝が少し力を抜いていた。


---


(俺は今、何をしている)


スパイの仕事を止めた。


でも辞めてもいない。


報告書は送っている。


でも嘘を書いている。


---


(立場がない)


そう思ったとき、それが思ったより痛くなかった。


---


---


夜。


ルナは部屋の机に向かった。


ペンを取った。


---


*【記録 / L.記】*


*21日目。修繕:荷台板(裏手)。釘打ち。乾燥不足の木材のため、後日の反りに注意。*


*・ドリス(ヴァルト参謀):本日昼、カナトに単独接触。謝罪を試みた形跡あり。着地せず。ただし笑い声を確認(初例)。感情固着の解除が始まっている可能性。*


*・ズバン:夕方、ヴァルトと路地で接触(目撃)。内容不明。接触後、20分間その場を動かなかった。通常のスパイ行動と乖離している。*


*・ヴァルト:「考える時間をくれ」と発言後、行動が静かすぎる。回収の動きではない。何かを組み直している、か。*


*・カナト:「謝られると、その人が楽になるためのことを俺がしなきゃいけない気がして、それがちょっとしんどい」(本日、声に出た独り言。ドリスに聞こえた)*(ドリス談・伝聞)


*→ ドリスが笑った。謝罪より先にドリスを動かしたのは、怒りでも赦しでもなく、カナトの独り言だった。*


*計算にない変数が増えている。*


*カナトは今日も、自分が何かを動かしたと気づいていない。*


---


ルナはペンを置いた。


少し考えてから、最後に一行書き足した。


*(これは研究対象の記録か、それとも別の何かか)*


線を引いて、消した。


---


---


*【ズバンの報告書・第21報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿*


*本日の動向:特筆事項、なし。*


---


ズバンはそこで止まった。


ペンを持ったまま、紙を見た。


---


「なし」ではない。


ヴァルトに止められた。


いや、止められていない。


「まあいい」と言われた。


---


(「まあいい」って何だ)


スパイが任務を妨害した。


ヴァルトはそれを知っている。


怒らなかった。


罰しなかった。


「まあいい」とだけ言った。


---


(俺を、まだ使うつもりなのか)


(それとも、もう使う気がないのか)


(どっちだ)


---


ズバンはペンを置いた。


報告書に「なし」と書いたまま、封をしなかった。


---


窓の外で夜風が動いた。


---


(カナトを守りたい、と昨日思った)


(今日、ヴァルトに逆らった)


(それで「まあいい」と言われた)


(俺は今、誰の側にいる)


---


答えが出なかった。


出なくていい気がした。


でもそれはスパイの考え方ではなかった。


---


ズバンは封をしないまま、報告書を机の隅に置いた。


明日になったら、また考えることにした。


---


窓の向こうで、町が静かに夜になっていった。


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