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第20話「久しぶりだな、カナト」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝の食堂は、いつも通りだった。


旅人が二組。窓から朝の光が入っていた。厨房からパンの焼ける匂いがして、女将さんが盆を持って行き来していた。


カナトはスープを飲んでいた。


パンをちぎった。


(今日の仕事、何だろう。)


「声が出ていましたよ」とルナが言った。


「……それは別に声に出してよかったやつです」


「では記録しません」


「ありがとうございます」


ルナは手帳を開いたままにしていた。閉じなかった。


---


ズバンは食堂の隅に座っていた。


皿の上のパンが減っていなかった。


カナトはそれに気づいた。気づいて、特に何も言わなかった。


(ズバンさん、今日は食欲ないのかな。)


声には出なかった。


出そうになったのを意識して、パンの続きをちぎった。


ヴィオは柱の近くの席で、カップを両手で包んでいた。目を閉じていた。何かを聞いているような静けさだった。


ゴドルは奥の席で、カップを持って外を見ていた。


女将さんが食堂に顔を出した。


「カナトさん、今日ね——」


---


その声が途切れた。


途切れた理由は、食堂の入口が開いたからだった。


旅人が入ってくるのは、朝の食堂では珍しくない。


でも。


ゴドルのカップが止まった。


口に運ぶ途中で止まって、そのままだった。


昨日、路地に旅の男が現れたとき、ゴドルは一瞬だけカップを止めた。


今回は、止まったまま動かなかった。


---


ヴァルトとドリスは、食堂の入口に立っていた。


旅装だった。荷物は適切な量で、どこにでもいる旅人の格好だった。


でも、佇まいが違った。


入口に立ったとき、部屋の空気の釣り合いが少しだけ変わった。誰かが窓を開けたときの感覚に近かった。変わったのに、音はしなかった。


ドリスは入口のそばに立ったまま、視線を落とした。


ヴァルトは食堂を一度だけ見渡した。


ゆっくりと。


---


ズバンが固まった。


体ごと固まった。


パンに伸ばしかけていた手が、宙で止まっていた。


ルナが手帳のページをめくった。音がした。


ヴィオは目を閉じたままだった。柱のそばで少しだけ顔を上げた。


「……何か、重い音がします」


小さな声だった。


誰に言うでもなかった。


---


カナトは向こうを向いていた。


パンを食べていた。


次のスープを飲もうとして、スプーンを持ち上げたところだった。


背後で、足音がした。


止まった。


静かな声が言った。


「久しぶりだな、カナト」


---


カナトはスプーンを持ったまま振り向いた。


男が立っていた。


40代くらいだった。穏やかな顔をしていた。怒っていないし、急いでいる様子もなかった。声の通りに、静かに立っていた。


カナトはその顔を見た。


(……誰だっけ。)


声が出た。


---


沈黙があった。


ヴァルトの表情が、ほんの少しだけ動いた。


ドリスが入口のそばで、音もなく固まった。


ルナが手帳を開いた。速かった。


ヴィオが柱に手を当てた。


女将さんが「あら」と言った。


---


カナトは思い出そうとした。


声は知っている気がした。顔は、どこかで見た気がした。でも、いつ、どこで、が出てこなかった。


(……聞いたことある声だな。)


声が出た。


ヴァルトが一度だけ目を閉じた。


開いた。


表情は変わらなかった。


---


カナトはしばらく考えた。


パーティ名が何か引っかかった。でも名前は出てこなかった。顔と声が、どこかのパズルの端と端みたいに、うまくはまらなかった。


ただ、一つだけ浮かんだ言葉があった。


「……真銀の旗の人でしたっけ」


何の感情もなく、言った。


ヴァルトが答えた。


「そうだ」


カナトが答えた。


「……そうですか」


ヴァルトが言った。


「話がある」


カナトが言った。


「何でしょう」


---


ズバンは椅子から立ちかけて、止まった。


何かをしようとした。何をするか、決まらなかった。


立ちかけた姿勢のまま、座ることも立つこともできなかった。


ゴドルはカップを盆に戻した。静かだった。


窓の外を見た。


ルナは手帳に書いていた。


ヴィオは柱のそばで目を閉じていた。口は開かなかった。


女将さんが「お茶でも」と言いながら、盆を持って食堂の奥から出てきた。


---


ヴァルトは椅子を引いた。


カナトの向かいに座った。


卓の上に手を置いた。組まなかった。ただ、置いた。


ドリスは入口の近くに立ったまま、壁を見ていた。


しばらく間があった。


ヴァルトが言った。


「一緒に戻る気はないか」


カナトはそれを聞いた。


---


沈黙があった。


カナトはスプーンを皿の端に置いた。


窓の外を少し見た。


しばらく考えた。


(……逃げたのに追いかけてくる人間、世界で一番苦手だ。)


声が出た。


---


ヴァルトが凍りついた。


表情が変わらなかったのは、たぶん変えるのを忘れたのだと思う。


ドリスが壁から視線を外した。カナトを見た。ヴァルトを見た。もう一度カナトを見た。


ゴドルが小さく息を吐いた。


女将さんが「あら」と言った。


ルナが手帳に書いた。


ヴィオは柱のそばで、少しだけ肩の力を抜いた。


---


カナトはヴァルトを見た。


(この人、今、動かなくなりましたね。)


声には出なかった。


(どうしたんでしょう。)


声には出なかった。


「……何か、ご不便でしたか」


カナトは聞いた。


ヴァルトはしばらく答えなかった。


---


女将さんが茶を持ってきた。


カナトの前に置いた。ヴァルトの前にも置いた。


「遠くからいらっしゃったなら、まずお茶でしょう」


返事を待たずに、厨房に戻った。


ズバンはまだ、椅子から立ちかけた姿勢のままだった。


ゴドルが一度だけズバンを見た。


何も言わなかった。


---


ヴァルトが茶を一口飲んだ。


カナトもとりあえず飲んだ。


「……それで」とカナトが言った。「話というのは」


ヴァルトが答えた。


「今すぐでなくていい」


「……そうですか」


「少し、考える時間をくれ」


「……わかりました」


カナトはそれ以上聞かなかった。


(考える時間って、こっちが必要なものでは。)


声には出なかった。


かろうじて出なかった。


---


*【記録 / L.記】*


*20日目。修繕:なし。(この日は依頼の途中で話が切れた。依頼の内容は「今日ね——」まで聞こえた。)*


*ヴァルト・ドリスの二名、宿場町到着。朝の食堂にてカナト氏と接触。*


*ヴァルトがカナト氏の背後から「久しぶりだな、カナト」と声をかけた。カナト氏はスプーンを持ったまま振り向き、ヴァルトの顔を見た。*


*カナト氏の第一声:「……誰だっけ」——声が出た。*


*(★非常に重要。カナト氏はヴァルトを視認後、「誰だっけ」という処理をした。記憶の欠落ではなく、感情的な接続がない。怒りも恨みも懐かしさも、この一言の中に存在しなかった。)*


*その後、「真銀の旗の人でしたっけ」と発言。「そうだ」とヴァルトが答えた。カナト氏「……そうですか」。温度差:最大。*


*ヴァルトの「一緒に戻る気はないか」という発言に対し、カナト氏がしばらく考えた後:「……逃げたのに追いかけてくる人間、世界で一番苦手だ」——声が出た。*


*ヴァルトは静止した。表情は変わらなかった。(変え方を忘れた可能性がある。)*


*(カナト氏は今日も、自分が何を言ったかわかっていない。)*


---


*【ズバンの報告書・第20報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿*


*本日の動向:ヴァルト殿が到着された。*


*以上。*


*(届け先が、目の前にいる。)*


*(どうすればいい。)*


*(カナトは怒っていなかった。「誰だっけ」と言った。「真銀の旗の人でしたっけ」と言った。恨みの言葉は一つも出なかった。)*


*(怒っていないのに、なぜこんなに胸が痛いんだ。)*


*(「逃げたのに追いかけてくる人間、世界で一番苦手だ」——カナトの言葉が今も頭から消えない。)*


*(カナトはそれを、ヴァルト殿に言ったつもりすらないんだろう。)*


*(どうすればいい。)*


*以上。*


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