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第19話「止めた理由が、うまく言えない」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝の食堂は、いつも通りだった。


旅人が一組。女将さんが厨房を行き来している。窓から朝の光が入って、床の石畳に細長い影を落としていた。


カナトはパンをちぎって、口に入れた。


(今日の仕事、あるかな。)


「声が出ていましたよ」


窓際の席から、ルナが言った。


「……いつからいるんですか」


「今朝から」


「今朝いつからですか」


「夜明け前から」


カナトはパンの続きをちぎった。


---


ズバンは食堂の隅の席に座っていた。


座って、パンを半分食べて、止まっていた。


昨夜、書状が届いた。ドリスからだった。旅人の伝言を経由した短い文だった。


(先行の者、一名を送り出した。三日前に出発している。)


それだけだった。


ズバンは朝から計算をしていた。三日前に出発。移動日数から言えば、今日か明日には宿場町に入る。


目的はおそらく偵察だ。ヴァルトが直接来る前に、現地の状況を確認させる。いつもの手順だった。


(来る。)


スープが冷めていた。


ズバンは気づかなかった。


---


カナトはパンを食べ終えた。


水を飲んだ。


(今日は天気がいい。)


「声が出ていましたよ」とルナが言った。


「……それは別に声に出してよかったやつです」


「そうですか」


「そうです」


「記録しました」


「しなくていいです」


ルナは手帳を閉じなかった。


---


女将さんが食堂から顔を出した。


「カナトさん、今日ね、依頼が入ってるんだけど」


カナトは立ちかけた手を止めた。


食べ終わったところだった。出るつもりだった。タイミングが毎回惜しい。


「……何でしょう」


「宿の入口の石段よ。一段目の端の鉄輪がぐらついてるって前から気になってたんだけど」


「大工さんは」


「今日は出てるから」


「……そうですか」


「ルナちゃんとヴィオさんも行くって言ってたから」


「……そうですか」


「早い方がいいわよ」


すでに決まっていた。


---


宿の入口には石段が三段あった。


手すり代わりの鉄棒が両側に立っていて、その根元を地面の石に固定するための鉄輪が、一段目の右端の一本だけ、浮いていた。


踏まれ続けた石の表面が少しすり減って、鉄輪の座りが悪くなったらしかった。揺れるほどではないが、指で押すとわずかに動く。


「……少し離れてもらえますか」


カナトが言うと、ルナはすでに少し後ろに立っていた。石段の端から距離を置いた場所で、手帳を開いていた。石段を見ているのか手帳を見ているのか判断のつかない角度だった。


ヴィオは入口の柱のそばに立っていた。目は閉じていた。何かの音を聞いているような顔をしていた。


カナトは鉄輪に手を当てた。


石の凹みに収まっているはずの輪の縁が、少しだけ上に浮いている。石の面がすり減って、輪の底面と合わなくなっている。ちょうど合う角度があるはずだった。


指を輪の縁に沿わせた。


小さな抵抗があって、消えた。


(なんか、落ち着いた。)


指で押すと、動かなかった。


「……終わりました」


「確認します」とルナが言った。石段に近づいて、輪を指で押した。手帳に何かを書いた。「記録しました」


「……そうですか」


少し疲れた気がした。石段一か所分の疲れが、両肩の後ろに静かに来た。


ヴィオが口を開いた。


「金属の音が、変わりましたね」


「……そうですか」


「輪の音、でしょうか。収まった音というか……石に聞かれた音というか」


「……石が聞くんですか」


「ときどき答えます」


カナトは手を下ろした。返事をしなかった。


---


作業を終えて、宿の入口から路地へ出たとき。


路地の角に、旅装の男が立っていた。


背は中くらい。荷物は少ない。旅慣れた格好に見えたが、宿に泊まっている旅人とは顔が違った。昨日からいた顔ではない。


男はカナトを見た。


一瞬、視線が合った。


男が口を開きかけた。


「——便利屋さんですか」


その声が終わるより先に。


「あ、こっちの人は今日ちょっと、手が塞がってまして」


ズバンが、どこからか割り込んでいた。


男の視線を遮る場所に、自然に立っていた。笑顔だった。表情だけが笑顔で、目はそうでもなかった。


男は少し戸惑った顔をした。


ズバンを見た。カナトを見た。また、ズバンを見た。


「……そうですか。では、また後で」


男は踵を返した。


路地の向こうに消えた。


カナトは目を瞬かせた。


(……今、何が起きましたか。)


「声が出ていましたよ」とルナが言った。


---


ズバンは路地の端に立って、男が消えた方向を見ていた。


視線が戻ってこなかった。


カナトはズバンの横顔を見た。


「……知り合いですか」


「……ん? いや、知らない」


「では、なぜ」


「……なんか、タイミングが」


ズバンは言葉を止めた。


続かなかった。


カナトは首を傾けた。


(なんだ今の。)


声には出なかった。


ルナが手帳に何かを書いた。音だけが聞こえた。


---


ズバンは路地の石壁を見た。


石の表面が、朝の光を横から受けて影を作っていた。


(……何をした。)


男の顔は知っていた。ヴァルトの手下のうちの一人だった。会ったことが一度ある。先行偵察を頼まれるタイプの、静かな男だった。


(カナトに声をかけようとした。それを俺が止めた。)


(なぜ止めた。)


理由を言葉にしようとした。


出てこなかった。


(任務として正しくない。俺はヴァルトの側の人間だ。手下が偵察しようとしているのを、俺が邪魔する理由はない。)


(ない、はずだ。)


(でも、止めた。)


石壁を見ていた。


石は何も言わなかった。


「……何やってんだ俺は」


声が出た。


---


沈黙が、一拍あった。


「声が出ていましたよ」


ルナが言った。


カナトに、ではなかった。


ズバンに向けて言った。


ズバンが固まった。


体ごと固まった。


ゆっくり振り向いた。ルナの顔を見た。ルナはまばたきをしなかった。表情は変わらなかった。


「……聞こえてましたか」


「はい」


「……どこから」


「最初から」


ズバンの顔から、何かが抜けた。


カナトは二人を交互に見た。


「どうかしましたか」


「……なんでもない」とズバンが言った。


声は普通だった。普通すぎた。


カナトは首を傾けた。


(普通すぎる返事というのは、大体なんでもなくない。)


声には出なかった。


かろうじて出なかった。


---


食堂に戻ると、ゴドルが奥の席でカップを持っていた。


カナトが椅子を引いて座ると、ゴドルが一度だけカナトを見た。


「……今日、外で、見慣れない旅人がいましたよ」


「そうか」


「ズバンさんが声をかけて、追い払ったというか、行っちゃったというか」


「……そうか」


ゴドルはカップを置いた。


窓の外を少し見た。


「旅人は多い場所だ」


「……そうですね」


「多いから、いろいろ来る」


「……そうですね」


それ以上何も言わなかった。


カナトは水を一杯もらって飲んだ。


(ゴドルさんって、わかってて言ってます?)


声には出なかった。


出そうになったのを確認して、少しだけほっとした。


---


ズバンは宿の自室に戻って、椅子に座った。


壁を見た。


しばらくそのままだった。


---


*【記録 / L.記】*


*19日目。宿の入口・石段鉄輪(一箇所)修繕。鉄輪の座面ずれ。石段の石面摩耗による。*


*発動確認:ルナが石段後方で手帳を開いていた。ヴィオは入口の柱のそばで目を閉じていた。カナト氏が鉄輪に指を合わせた直後、固定を確認。「なんか、落ち着いた」と本人発言。疲弊:軽微。石段一か所相当。*


*本日の主な観察:修繕後、宿の入口路地にて旅装の男がカナト氏に接触を試みた。「便利屋さんですか」と声をかけようとした時点で、ズバンが割り込んで制止した。男は「また後で」と告げて立ち去った。*


*男の特徴:旅装。荷物少量。昨日以前から宿場町にいた形跡なし。接触の意図は偵察と推測。*


*ズバンの行動:自発的に割り込み、接触を阻止した。動機の説明なし。カナト氏の「知り合いですか」という問いに対して「知らない」と回答。矛盾している。*


*路地の端で壁を見た後、ズバン発言:「何やってんだ俺は」——声が出た。*


*(このパターンは、カナト氏の独り言と同型の発話である。頭の中の処理が音として外に出た。本人は気づいていない。)*


*私が「声が出ていましたよ」と告げた。ズバンは固まった。「聞こえてましたか」と聞いた。「はい」と答えた。「どこから」と聞いた。「最初から」と答えた。*


*その後、ズバンは「なんでもない」と言って話題を打ち切った。カナト氏は特に追及しなかった。*


*(ズバン氏は今日、カナト氏を守る側の行動をした。その理由を本人は説明できないでいる。説明できないことは「何やってんだ俺は」という発話に全て含まれている。カナト氏はそれを知らない。)*


---


*【ズバンの報告書・第19報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿*


*本日の動向:宿の入口・石段修繕一か所。所要時間:短い。*


*本日、特筆事項なし。*


*(嘘だ。)*


*(先行の手下が来た。カナトに声をかけようとした。俺が止めた。)*


*(なぜ止めたのか、今も説明できない。)*


*(任務として正しくない。俺はヴァルトの側にいる人間だ。偵察を邪魔する理由はない。)*


*(ない、はずだった。)*


*(でも止めた。体が先に動いた。)*


*(カナトを守ろうとした。でもカナトはそれを知らない。カナトに言える言葉を、俺は持っていない。止めた理由を、うまく言えない。)*


*(どうすればいい。)*


*(ルナさんに聞こえていた。最初から聞こえていたと言われた。)*


*(観察されている。俺が。)*


*(何やってんだ俺は。)*


*——という言葉が、今、自分の頭の中だけで出た。*


*声には出なかった。たぶん。*


*以上。*


---


道が、宿場町の方向に続いていた。


野営の火が小さく燃えていた。空は晴れていた。星が多かった。


ドリスが近づいた。


「先行の者から連絡がありました」


ヴァルトは焚き火の向こうを見ていた。


「どうだった」


「接触は、先送りになったようです。別の者に止められたと」


「……そうか」


間があった。


「今夜には着く」


ドリスは何も聞かなかった。


ヴァルトは立ち上がった。


道の先は暗かった。宿場町まで、あと少しの距離があった。


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