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第18話「聞いたことのある名前だった」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝の食堂に、見慣れない旅人が二組いた。


どちらも北の街道から来たらしく、片方の卓では地図のようなものを広げて何か話していた。


カナトはいつもの席に座って、パンをちぎった。


旅人の話し声が聞こえてきた。


「……北の方で、旗持ちが動いたらしいぞ」


「どこの旗だ」


「真銀の旗。一昨日あたりに出発したって」


カナトは手を止めなかった。


パンをちぎった。


(……聞いたことある名前だな。)


声が出た。


「声が出ていましたよ」


窓際の席から、ルナが言った。


「……いつからいるんですか」


「今朝から」


「今朝いつからですか」


「夜明け前から」


カナトは返事をしなかった。パンの残りを口に入れた。


(どこで聞いたっけ。)


---


ズバンは食堂の隅の席で、スープを飲もうとしていた。


正確には、飲もうとして、匙を止めたところだった。


「……」


旅人の話し声はまだ続いていた。


「真銀の旗って、北の有名どころだろ。あそこが動くってことは、何か案件でも」


「さあな。俺が聞いたのは出発したってことだけだ」


ズバンの手が、匙を持ったまま止まっていた。


カナトはその方向を向いていなかった。


旅人の話は別の話に移っていった。天気の話になった。


---


ゴドルは奥の席でカップを持っていた。


旅人が「真銀の旗」と言った瞬間、カップが一度だけ止まった。


止まって、また動いた。


何も言わなかった。窓の外を見た。


朝の光が路地に伸びていた。


---


女将さんが食堂から顔を出した。


「カナトさん、今日ね、依頼が入ってるんだけど」


カナトは立ちかけた手を止めた。


食べ終わったところだった。出るつもりだった。


「……何でしょう」


「宿の雨樋よ。一か所だけ、雨の日に水が漏れるって前々から気になってたんだけど」


「大工さんは」


「今日は出てるから」


「……そうですか」


「ルナちゃんとヴィオさんも行くって言ってたから」


「……そうですか」


「早い方がいいわよ。今日は曇るかもしれないから」


すでに決まっていた。


---


雨樋は宿の外壁に沿って取り付けられた木製のものだった。


屋根の端から地面まで、雨水を流す縦樋が数本あって、そのうちの一本、角の部分に当たる継ぎ目が一か所ゆるんでいた。


接合部の木が少しやせて、つなぎ目に隙間が出ている。雨の日はそこから水が漏れて、外壁の石を伝う。


「……少し離れてもらえますか」


カナトが言うと、ルナはすでに少し離れた場所に立っていた。手帳を開いていた。外壁を向いているのか手帳を向いているのか、判断のつかない角度だった。


ヴィオは木組みの柱のそばに立っていた。目は閉じていた。朝の風の音を聞いているような顔をしていた。


カナトは継ぎ目に手を当てた。


やせた木が指の腹に当たった。隙間が細く、空気が通っている。このくらいの隙間なら、合わさるべき面と面の向きはわかる。材料を足すより、まず向きを合わせることだ。


指を当てたまま、少し押さえた。


木が動いた。動いた、というより、戻った。


(なんか、はまった。)


継ぎ目の隙間が消えていた。


指で叩いてみると、音が均一だった。継ぎ目を爪で触っても引っかかりがなかった。


「……終わりました」


「確認します」とルナが言った。外壁に近づいて、継ぎ目を見た。指で触れた。手帳に何かを書いた。「記録しました」


「……そうですか」


少し、疲れた気がした。雨樋一か所分の疲れが、じわりと肩の後ろに来た。


ヴィオが口を開いた。


「木の音が変わりましたね」


「……そうですか」


「中に何かが収まったような音でした。あ、と言ったような」


「……木が言うんですか」


「ときどき言います」


カナトは手を下ろした。返事をしなかった。


---


食堂に戻ると、旅人の二組はもういなかった。


ズバンもいなかった。


席のスープが残っていた。


カナトは椅子を引いて座った。


ゴドルが奥の席にいた。カップを持っていた。いつも通りの顔だった。


「……朝に旅人が言ってましたね。真銀の旗って、有名なパーティですか」


何の気もなしに聞いた。


ゴドルはカップを置いた。少し間があった。


「……まあな」


「どんなパーティなんですか」


「強い。それだけだ」


「そうですか」


カナトはそれ以上聞かなかった。名前を聞いたことがある、というだけで、特に用があったわけでもなかった。


水を一杯もらって飲んだ。


ゴドルは何も足さなかった。


ただ、少しだけカナトの方を見た。


何を確認しているのか、カナトにはわからなかった。


---


路地に出たズバンは、壁に背をもたれた。


人気のない方向だった。石畳が日陰になっている。


(ヴァルトが動いた。)


空を見上げた。曇り始めていた。


(嘘の報告を送った翌日に、動いた。)


送った、というより、昨日の午後に旅人に預けた。届くのは三日後のはずだ。


だから、ヴァルトが「嘘の報告を受けて動いた」わけではない。


(出発は一昨日だ、と旅人が言っていた。俺が報告書を預けたのは昨日の午後だ。つまり、俺の報告が届く前に、ヴァルトは出発している。)


ということは。


(俺の嘘の報告は、まだヴァルトに届いていない。届く前に、ヴァルトは動いている。)


壁の石が冷たかった。


(別の何かで動いた。ゴルタの商人伝いの話だろう。ゴルタの噂は、もう届いていたはずだ。)


(俺の嘘は、何もしていない。届いていない。これから届く。)


(ヴァルトが街道を歩いているとき、俺の嘘が届く。)


どうなる。


(どうなるかわからない。)


手が冷たかった。


---


カナトは水を飲み終えて、カップを置いた。


(どこで聞いたっけ。)


「声が出ていましたよ」とルナが言った。


いつの間にか、隣の席にいた。


「……真銀の旗、って名前なんですが」


「聞きました」


「なんか聞いたことある気がして」


「そうですか」


「でも、どこで聞いたのか、思い出せなくて」


ルナは手帳に目を落とした。


何かを書いた。


「記録しました」


「……そうですか」


カナトは窓の外を見た。空が曇っていた。


(どこで聞いたんだろう。)


思い出そうとした瞬間、何かが引っかかる感触があったが、すぐに消えた。


出てこなかった。


もうしばらくしたら出てくるかもしれない、と思ったが、大抵そういうのは出てこない。


(まあ、いいか。)


声には出なかった。


---


*【記録 / L.記】*


*18日目。宿の外壁・木製雨樋(一か所)修繕。屋根端の縦樋継ぎ目のゆるみ。*


*発動確認:ルナが外壁から離れて手帳を開いていた。ヴィオは木組みの柱のそばで目を閉じていた。カナト氏が継ぎ目に指を当てた直後、隙間が消えた。「なんか、はまった」と本人発言。疲弊:軽微。雨樋一か所相当。*


*今日の主な観察:朝食時、旅人の話題として「真銀の旗が北の街道を出発した」という情報が食堂に流入。*


*カナト氏の反応:「聞いたことある名前だな」と発言(声が出た)。続いて「どこで聞いたっけ」と発言(声が出た)。自身の過去との接続なし。ゴドルに「どんなパーティか」と質問したが、「強い。それだけだ」という回答を受けて掘り下げなかった。記憶に結びつかないまま処理を打ち切った。*


*ズバンの反応:「真銀の旗」という単語が出た瞬間、匙が止まった。食堂を出た後、しばらく戻らなかった。感情的反応を確認。内容:不明。観察対象に追加済み。*


*ゴドルの反応:「真銀の旗」という単語が出た瞬間、カップが一度止まった。カナトの質問に「強い。それだけだ」とのみ答えた。その後、カナトの方を見た。内容:不明。*


*(今日の時点で、「真銀の旗」という名前に対して反応した人間は三人:ズバン、ゴドル、そしてカナト氏。ただしカナト氏の反応は「聞いたことある気がする」という断片的なものであり、自身の過去とは接続されていない。ズバンとゴドルは明らかに内容を知っている。カナト氏だけが、知っていながら知らない状態にある。)*


---


*【ズバンの報告書・第18報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿*


*本日の動向:宿の雨樋修繕。木製継ぎ目一か所。作業時間:短い。*


*本日、特筆事項なし。*


*(ヴァルトが動いた。)*


*(嘘をついた翌日に、動いた。)*


*(ただし俺の報告書はまだ届いていない。届く前に出発している。)*


*(だから俺の嘘のせいで動いたのではない。別の理由で動いた。ゴルタの噂だろう。)*


*(俺の嘘は、これからヴァルトに届く。街道を歩いているヴァルトに届く。)*


*(届いたとき、何が起きる。)*


*(俺はこれから何をすればいい。)*


*(わからない。)*


*以上。*



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