第2話 見るな!!(周囲は全員見ていた)
翌々日の朝。俺は街道を歩いている。
宿場町まであと半日ほど。荷物は軽い。人とすれ違っても会釈だけで済む。理想的な朝だった。
「……静かでいいな」
口から出てから気づく。また漏れていた。
まあ誰もいないからいい。
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「おい、そこの旅人!」
いた。
街道脇の水路に、荷台が半分落ちている。積み荷の木箱が水に浸かりかけていた。御者らしき中年の男が必死に引き上げようとしているが、一人ではびくともしない。
「手を貸してくれ! 頼む!」
「……あ、はい」
言ってしまった。
毎回こうだ。「いや」と「はい」が同時に口まで来て、「はい」の方が先に出る。何年生きてもこれが直らない。
男の荷台に近づく。水路は深くない。ただ角度が悪く、一人では引き出せない構造になっていた。
「あとどれくらい人が来ますか、この街道」
「え? そうだなあ、朝はちらほら……なんで?」
「いや、ちょっと確認したいことがあって」
男が首をかしげた。
理由はいくつかある。模倣は欠陥スキルだ、バレると面倒になる。他人の動きを真似している姿を見られるのは、なんとなく不本意だ。それと、そもそも人に見られながら何かをするのが苦手だ。全部まとめて、見られたくなかった。
「……見られると、やりにくくて」
「は?」
「向こうを向いていてもらえますか」
男は目を丸くしたが、俺の視線に何かを感じたのか、おずおずとそっぽを向いた。
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問題は、通行人だった。
「あの、すみません、ちょっとどいてもらえますか」
「え、何が起きてるんだ?」
「荷台が落ちてるだけです。あと向こうを向いていてください」
「なんで?」
「見ないでほしいんです」
「見ちゃだめなのか?」
「見るな!!」
声が、大きくなった。
通行人が一歩下がる。
「……す、すまない」
何か怒らせたと思ったらしく、男は素直に背を向けた。三人いた通行人が全員、申し訳なさそうに反対方向を向く。
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人払いに十分かかった。
周囲が誰もこちらを見ていない状態を確認する。荷台。水路。角度。木箱の重さと分布。
「……よし」
俺は荷台に触れた。
一瞬、誰かの手の感覚が重なった気がした。気のせいだと思った。でも、この感覚には覚えがある。誰かの動きを、体が先に知っているような。頭ではなく手が動く、あの妙な残り方。考えても仕方がないので、いつも忘れることにしていた。
なんとなく、体の使い方がわかった。
膝を入れ、重心を低くする。腰から押し込む。木箱の滑り止めを確認する。
三度目の押し込みで、荷台がずるりと動いた。
水路の縁に引っかかっていた車輪が外れる。四度目で水路から出た。
「……なんか、上手くいったな」
独り言が、朝の空気に溶けていく。
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振り返ったら、全員がこちらを見ていた。
御者の男。通行人三人。いつの間にか増えた野次馬が五、六人。
「あの、向こうを向いていてくれと」
誰も答えない。
御者の男の目が、少し赤くなっていた。
「……なんか、上手くいったな」と、一人の通行人が繰り返した。ぽつりと、確かめるように。
「それだけのことを、そういう顔でやるのか」と、もう一人がつぶやいた。
俺には意味がわからなかった。
「荷台、水路から出ましたよ。木箱も濡れていないか確認した方がいいです」
御者の男はしばらく荷台を見てから、俺を見てから、また荷台を見た。
「……金を」
「いいです」
「なんで」
「断り損ねて手伝っただけなので」
男はまた黙った。
俺は会釈して歩き出す。
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街道を少し進んだところで、足が止まった。
木の影。街道沿いに生えている、特に珍しくもない木だ。
ただ。
「……誰かいる?」
返事はない。
風が葉を揺らす。
鳥が鳴く。
俺はしばらくその木を見ていたが、やがて視線を前に戻した。
気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃない気もした。
「……まあ、いいか」
また漏れた。
それを聞いた者が、この場にいたかどうか。
それは俺にはわからなかった。




