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第16話「早朝に出るつもりだった」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

夜が明ける前の時間というのは、静かだ。


鳥が鳴き始める少し前。厨房がまだ動いていない。廊下を誰も歩かない。


そういう時間帯が、あると知っていた。


カナトは荷物を小さくまとめた。着替えが二着、修繕道具の一部、ギルドカード。大きい鞄は置いていく。少し離れた町まで行って、しばらくそこにいれば、たぶん落ち着く。


たぶん、という部分が曖昧なのは自分でもわかっていた。


(落ち着く、というか、記録が追いついてくるまでに少し時間が稼げる。それだけでいい。)


声には出なかった。


宿の廊下を、足音を立てないように歩いた。裏口へ向かう。食堂の脇を通り、外へ続く扉を開いた。


冷たい空気が来た。朝の空気だ。


誰もいない。


そう思った瞬間、人がいた。


---


石造りの壁に背をもたれて、ヴィオが立っていた。


旅装ではない。宿で着るような薄手の上着のまま、目を閉じて、何かを聞いているような顔をしていた。


カナトは一歩も動かなかった。


「……いつからいたんですか」


ヴィオが顔を向けた。目は閉じたままだ。


「昨夜から」


「外に?」


「星が聞こえましたので」


カナトは少し黙った。


(星は聞こえない。)


「声が出ていましたよ」


ヴィオが穏やかに言った。


「……聞こえましたか」


「少し」


「……その、星というのは」


「聞こえます」とヴィオは言った。説明するような口調ではなかった。ただ事実として告げる声だった。「カナトさんは、どちらへ行くのですか」


「……朝の空気を」


「ご一緒しますね」


---


カナトは一度裏口を見た。ヴィオがそこにいる。


別の出口があった。宿の横手、厩舎の脇を抜けると町の外れに出る細い路地だ。そちらから回れば、街道に出られる。


静かに、回り込んだ。


路地の入り口に、ルナが立っていた。


手帳を開いていた。何かを書いていた。こちらに顔を向けていなかったが、カナトが来たことはわかっているようだった。


カナトは足を止めた。


「……なんでいるんですか」


「女将さんに聞きました」


「何を」


「今朝早く出る予定だと」


カナトは少し考えた。


「……俺が決めたのはさっきですよ」


「女将さんは昨夜から知っていました」


「……なぜ」


ルナは手帳から目を上げた。まばたきをしなかった。


「わかりません」


少し間があった。


「ただし記録しました」


---


カナトは振り返った。


ヴィオが裏口の方向から来る音がした。足音は静かだが、方向が正確だった。気配を辿っているのか、あるいは別の何かを辿っているのか、カナトにはわからない。


(女将さんは何でも知っている。)


「声が出ていましたよ」とヴィオが言った。いつの間にか近くにいた。


「……聞こえましたか」


「少し。どこかへ行くご予定でしたか」


「……朝の空気を」


「ご一緒しますね」


同じ会話だった。まったく同じ展開だった。


カナトは路地の先を見た。その方向に誰かがいるかどうかはわからない。だがヴィオが来て、ルナがいて、女将さんが昨夜から知っていた、という事実がある。


(……どこへも行けない。)


「声が出ていましたよ」とルナが言った。


「……わかってます」


ルナは何かを手帳に書いた。


---


宿に戻った。


厨房から音がし始めていた。女将さんが朝食の準備をしている。カナトが食堂に入ると、振り返らないまま女将さんが言った。


「あら、戻ってきたの」


「……はい」


「今日ね、依頼が来てるんだけど」


「……はい」


「街道沿いの石畳。段差が出てて、旅人が転んで苦情が来たって。大工に頼もうとしたんだけど、今日は手が空いてないって言うのよ」


カナトは返事をした。返事をする前に断るかどうかを考えなかったわけではない。考えた。だが女将さんの話し方には、断りを差し込む隙がなかった。


「……わかりました」


「助かるわ。ルナちゃんとヴィオさんも行くって言ってたから」


カナトは少し目を閉じた。


「……そうですか」


「早い方がいいわよ。朝のうちは旅人が少ないから」


すでに決まっていた。


---


街道沿いの石畳は、宿から歩いて少しのところにあった。


段差というのは確かにあった。一枚の石が沈んでいて、隣の石との間に数寸の高さの差が出ている。荷物を持った旅人が気づかずに引っかかれば転ぶ、という話は理解できた。


「これを直せばいいんですか」


「そうです」とルナが言った。手帳を開いている。


「普通に直します」


「はい」


カナトはしゃがんで、石の周囲の土を確認した。石自体は割れていない。沈み方から見ると、下の地盤が少し崩れたか、あるいは初めから据え方が浅かったか、そのどちらかだ。


ヴィオは石畳の少し離れた場所に立っていた。街道の向こう側を向いて、何かを口ずさんでいた。昨夜から聴いていた星の続きかもしれなかった。


ルナは手帳に向いていた。石畳を見ているのか、手帳を見ているのか、どちらかわからないような角度だった。


カナトは石の端に手を当てた。


沈んだ石の下に土を詰めながら、石を押さえた。力を入れると、石が動いた。少し浮き上がって、それから、なじんだ。


(なんか、石が落ち着いた。)


それだけだった。段差が消えていた。


隣の石と高さが揃っていた。指で叩いてみると、音が均一だった。継ぎ目に土を埋めて、踏んでみると動かなかった。


「……終わりました」


「確認します」とルナが言った。石畳を歩いて、段差があった部分を踏んだ。何も起きなかった。もう一度踏んだ。同じだった。


手帳に何かを書いた。


「記録しました」


「……そうですか」


ヴィオが振り返った。口ずさんでいた声が止まっていた。


「終わりましたか」


「終わりました」


「手の音が変わりましたね」


「……そうですか」


「石が決まったような音がしました」


カナトは手のひらを見た。何も変わっていない。いつも通りの手だった。


少し、疲れた気はした。朝早く起きたせいかもしれなかった。


---


帰り道は、来た道をそのまま戻った。


ヴィオが左側、ルナが右側、カナトが真ん中という並びになっていた。誰も決めていなかったが、気づいたらそうなっていた。


街道に朝の光が出始めていた。旅人が少ない時間帯だった。


カナトは歩きながら、ずっと考えていた。今朝のことを、石畳のことを、女将さんが昨夜から知っていたことを。


思考が口から出た。


「……逃げるより先に用事が来る。用事は、逃げても追いかけてくる。ならば用事を先に終わらせた方が、気分は早い」


独り言のつもりだった。


ルナが手帳を開いた。書き始めた。


ヴィオが、穏やかな声で言った。


「良い言葉ですね」


「……聞こえてましたか」


「よく聞こえました」


カナトは少し黙った。


「……それ、次の歌にしないでください」


「考えます」


「……考えないでください」


ヴィオは笑ったような声を出した。笑い声ではなく、笑ったような声だ。


ルナは書き終えて、手帳を閉じた。


宿が見えてきた。女将さんが外に出て、何かを確認していた。こちらに気づくと、もう次の話をする顔をしていた。


カナトは、自分が戻ってきていることに、今更気づいた。


---


*【記録 / L.記】*


*16日目。街道沿いの石畳の段差修繕。町の外れ、街道との接続部。*


*今日の注目事項:カナト氏が初めて能動的に「逃げる」を試みた。早朝の単独脱出計画。荷物をまとめて裏口から出た。失敗。ヴィオが外にいた。私は別の出口で待機していた。*


*発動確認:ヴィオが街道の向こう側を向き、口ずさんでいた。私は手帳を開いていた。カナト氏が石の端に触れた直後、段差が消えた。修繕時間:短い。*


*疲弊:軽微。石畳1カ所相当。「朝早く起きたせいかもしれない」と本人は言った。*


*独り言記録:「逃げるより先に用事が来る。用事は、逃げても追いかけてくる。ならば用事を先に終わらせた方が、気分は早い」*


*(逃げることをやめたわけではない、と思う。ただし今日の逃げは失敗した。失敗の原因は私とヴィオの両方にある。再現性あり。)*


---


*【ズバンの報告書・第16報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿*


*本日のカナトの動向:早朝に脱出を試みた。失敗。ルナとヴィオが待機していた。女将さんは前日夜から把握していた模様。把握経路:不明。*


*街道沿いの石畳修繕:段差1カ所。作業時間:短い。通常の石工が1日かける作業が、石の端に触れて数分で完了した。隣でルナが計測していた。俺も見ていた。説明がつかない。*


*(ヴァルト殿。ここから報告書の内容を変える。)*


*これまで「特筆すべき戦力なし」「管理上問題なし」と報告してきたが、訂正が必要だ。*


*今のカナトは、何かをやっている。毎回、誰かが向いていない瞬間に、修繕が終わっている。石工でも大工でもない精度で。材料なしで。本人は気づいていない。*


*(ヴァルト殿。「回収」というのは、今のカナトを相手にどういう意味を持ちますか。)*


*(俺が見てきた限り、今のカナトは「戦力外」ではない。)*


*以上。*


---


ドリスが書類を持ってきた。


いつもの報告書とは紙の重さが違った。枚数は少ない。だがズバンが何かを変えたのは、最初の一行を読んだ時点でわかった。


ヴァルトは書類を受け取り、一度読んだ。


黙って、もう一度読んだ。


「……準備を始めろ」


「どの段階まで」とドリスが聞いた。


「宿場町に着けるところまで。急ぐな。ただし止まるな」


ドリスは一礼した。


何も聞かなかった。


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