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第12話「滑車と、聞こえていない声」

本作は全35話予約投稿済みですのでエターなるはありません

朝は宿の厨房の匂いから始まる。


カナトが食堂の隅で湯を受け取ろうとしたとき、女将さんがエプロンで手を拭きながら近づいてきた。


「カナトさん。今日ちょっとお願いがあって」


「あ、はい」


返事が早すぎた。


「井戸の滑車ね。縄をかける溝が削れてきてて、縄がすべるんだけど」


「……水汲みが、できない状態ですか」


「まあ、ガタついてる感じ。朝のうちに見てくれると助かるんだけど」


女将さんはそう言い終わる前にもう次の鍋へ向かっていた。


カナトは湯の入った椀を両手で持ったまま、しばらく立っていた。


「また聞く前に終わった……。聞く前に終わるから、断るタイミングがない。女将さんとの会話は、いつも受け取った後で始まる」


厨房の向こうから女将さんの声が飛んできた。


「井戸は裏ね。道具は棚に出してあるから」


「……はい」


---


裏口から出ると、朝の空気がひんやりしていた。


井戸は宿の裏手、石畳が途切れるあたりにある。滑車は木製で、縄が乗る溝が長年の使用で斜めに擦れていた。縄を引いてみると、確かに途中で滑る。


工具を並べながら、カナトは溝の形を指でなぞった。


木が削れているのではなく、接合部の金具が緩んでいる。金具を正しい角度に戻して、滑車の枠ごと締め直せばいい。


「部品は生きてる。位置がずれてるだけだ」


誰も聞いていなかった。


少なくとも、カナトはそう思っていた。


---


石段の端に、薄い灰色のローブが見えた。


ルナが手帳を開いて座っていた。


「……また先にいる」


「おはようございます」


「なんで裏口まで」


「女将さんに聞きました。今日は井戸の修繕だと」


カナトはため息をついた。止めても無駄だということは、もう知っている。


「そこ、見てますよね」


「見ていません」


「……何してるんですか、じゃあ」


「記録しています」


「それは見てますよね」


「手帳を記録しています」


ルナはまばたきをしないまま、カナトから視線を外して手帳に何か書いた。


カナトは溝に工具を当てながら、これ以上言っても同じだという結論に達した。


「……向いてないのか。手帳のほうが向いてるのか。どっちかわからないが、どっちでもいい。仕事だけ終わらせよう」


---


金具を正しい角度に押し当てて、締め具を回した。


特に何も起きなかった。


指が馴染む感じがした。金具が定位置に吸い込まれるような、ごく小さな抵抗の消え方。


「……なんか、はまった」


締め具を止めて、縄をかけ直す。


引いてみると、さっきまでの滑りがなかった。スムーズに上がる。


「直った」


カナトは工具を引き抜いて、一度縄の動きを確認した。滑車が鳴らない。桶を下ろして、水が上がってくる。重さが安定している。


「なんで直った。金具を押しただけなのに、なんで直ったのか自分でもよくわかってない。まあ、直ったなら、いい」


石段の方でページをめくる音がした。


---


帰り際、石段を通るとルナが手帳を閉じるところだった。


「終わりましたか」


「終わりました」


「金具が、きれいに収まりましたね」


「見てたじゃないですか」


「記録していました」


カナトは返す言葉を見つけられなかった。毎回この会話になる気がした。


しばらく二人で宿の方へ歩いた。石畳が始まるあたりで、ルナが言った。


「昨日の件を聞いてもいいですか」


カナトは足を止めた。


「……鍛冶屋の」


「はい」


「断ります」


「昨日もそう言いました」


「今日も言います」


「明日も聞きます」


「……」


カナトは歩き出した。ルナが隣に並んだ。


「聞いたら答えてくれますか」


「答えません」


「理由は」


「俺が何したのか、俺がわかってないので、答えようがないです」


ルナは一秒だけ止まった。


それだけだった。表情は変わらなかった。でも手帳のページを一枚めくった。


---


食堂は昼前から少し人が増える。


カナトが隅の席で豆のスープを受け取ったとき、向かいにゴドルが座っていた。珍しいことではない。ゴドルはたいてい、静かな席にいる。


「井戸か」


「……見てたんですか」


「食堂の窓から見えた」


「見えるんですか」


「遠目には見えん。音は聞こえた」


カナトはスープの表面を見た。


「直ったか」


「直りました。なんで直ったかはよくわかりませんでしたけど」


ゴドルは何も言わなかった。しばらく黙って、自分の椀を持ち上げた。


カナトも椀を持ち上げた。


「わからなくていい仕事と、わかった方がいい仕事があるんですよ」


カナトは独り言のつもりだった。


ゴドルが低く息を吐いた。


「そうだな」


カナトは視線を上げた。


「……あ、声に出てましたか」


「出てた」


「すみません」


「謝ることじゃない」


ゴドルはそう言って、椀を置いた。そのまま席を立とうとしたが、少しだけ止まった。


「滑車の修繕。縄の擦れは、また出る」


「また頼まれるってことですか」


「溝の問題じゃなかったんだろう」


カナトは頷いた。


「位置がずれてたんです。金具の。それを直したので、溝の磨耗は今後のほうが緩くなると思います」


ゴドルはカナトを一度見た。


「よく見た」


「……金具のことですか」


「そうだ」


そのまま歩いて行った。


カナトはスープを一口飲みながら、「褒められた……のか。あれは褒めてる感じがした。合ってるかどうかわからないが」と呟いた。


隣のテーブルの商人が、羊皮紙に何かを書いた。


カナトは気づかなかった。


---


*【記録 / L.記】*


*12日目、午前。井戸の滑車修繕(接合部の金具の位置ずれ)。*


*天候:曇り。作業時間:短い。*


*観察状況:石段より記録。手帳を開いており、直視はしていない。*


*発動有無:有。金具が「収まる」感触あり。発動タイミング:金具を押し込んだ瞬間。*


*被験者の自覚:「なんか、はまった」「なんで直ったか自分でもよくわかってない」。自覚なし。*


*条件3の状態:私が手帳の記録に向いていた。野次馬なし。女将さんは厨房。ゴドルは食堂内。*


*「向いていない」状態が条件3に準じることを仮説として保持していたが、今日の観察で発動を確認。*


*ただし変数が多い。金具の物理的な位置ずれが修繕の成立に寄与した可能性は排除できない。*


*繰り返し確認が必要。*


*被験者の発言(帰路):「俺が何したのか、俺がわかってない」。*


*——これは正確だと思う。*


---


*【ズバンの報告書・第12報】*


*宛先:真銀の旗・ヴァルト殿(副官ドリス経由)*


*昨日付で送った問い合わせへの返答を受領した。*


*ヴァルト殿より:「回収計画は保留中。現状維持で情報収集を続けよ。」*


*(「保留」というのは、「動くな」ということか。「現状維持」というのは、今の俺の状態のことか。どちらにせよ、返事は来た。)*


*本日の行動記録:午前に井戸の滑車修繕を近距離で確認。対象が金具を押し当てた際、縄の動きが改善された。修繕技術については評価不能。(しかし、あの直り方は普通の力仕事ではなかった。指を当てただけだった。)*


*依頼元・女将は今日も承諾前に依頼を完了させていた。被監視対象に断るタイミングは与えられていない。*


*(これは、もはやズバンも同じ状況だと気づいている。俺もあの宿に入り浸っていて、断るタイミングを失っている。)*


*薬師ルナの動向:本日も現場に先回りして記録を行っていた。被監視対象との距離は縮まっていないが、記録量は増えている。*


*(どっちが先に何かを掴むか、という話なら、今のところルナのほうが優勢だと思う。ただし、それをヴァルト殿に報告すべきかどうかは、まだ決めていない。)*


*今後の方針:現状維持。情報収集継続。*


*(現状維持、か。)*


*以上。*


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