(後)
サツキを検査に送り出した直後、サツキのお母さんは廊下の壁に背をぶつけた。
ふらついた、というよりも、気力の限界から今すぐ何かに背を預けたかった、ように見えた。
「あの子…あの子は無事なの? あれは誰よ。違うわよ。…いいえ、非科学的よ、ありえない。だとしたら。…でも。こうもいきなり…? こんな症状がでるものなの…?
分からないわ。どうなっているの。どうしたらいいの。私の、私のサツキが…」
絶句する姿は、明らかに憔悴していた。
僕もそうだった。それでも、好きな子を彷彿とさせる顔立ちの年配女性が目の前で弱っていれば憔悴にひたる気になれない。
見るに忍びなく、僕は(夫がいたら心強いだろう)と思い、サツキのお父さんを呼ぼうとした。強く止められた。
「やめてね。ごめんなさいね。無理なのよ、来ないわ、入院しても来なかったの、もう知っているの。例え今日は来たとしても今は嫌、していられないわ。サツキのことに集中したい。いっぱいいっぱいよ、この歳なのに、情けないけれど。あの人の感情のおもりまで今はできない、したくない、そんな余裕ないわ、私、器用じゃないのよ」
愕然とした。
言葉を失う僕を見て、サツキのお母さんはぐっと唇を引き締めた。すっと姿勢を正すと、柔らかい声でゆっくり僕に告げた。
「ごめんなさいね。うちには役割分担があるの。娘のことは私の担当。
あぁ、入院は熱中症よ。中学生の時。あの子に持病はないはずだったの。
お父さんには、まだこのこと黙っていてもらえるかしら。お願いします」
穏やかな嘆願だった。口調や所作の穏やかさに反して、その目はうるんで興奮していた。
僕は頷くしかなかった。
検査の結果、本当に脳腫瘍が見つかった、らしい。
「見えますよね、これです。
異常行動があるとのことですので、このまま入院していただいて、より詳しい検査を…」
医師の診断を聞いた後のサツキのお母さんは、急にシャキッとした。精力的に動き出した。
診察室を出て、入院するための相談室みたいなところに向かう間も、案内の看護師さんらしき方にテキパキと質問し、確認していた。
その凛々しい姿は、サツキと病室で合流したとたん、余裕ある笑顔に変わった。そして娘を優しく労わった。
「さて、入院の準備したら戻るわ。
ひなたくん、どうする? …付き添ってくれるの? ありがとう、本当に。感謝します。
サツキをどうかお願いします」
サツキのお母さんを見送った後、僕はベッドの横の椅子に座った。黙り込むサツキに声をかけた。
「気分どう? びっくりしたよな。僕もびっくりした…びっくりした」
サツキは怒るように眉をひそめた。だけど口調は戸惑っていた。
「…そうなんだ。なんか…なんだろうね。人生って。おかしくない? だって、こんな…こんなことって…」
僕は「そうだね」と答えた。シーツの上に置かれた手の甲に、そっと指先を添えた。
手が痩せた気がする。たまらなくなって、両手で包み込んだ。
「サツキ。好きだよ。一緒に生きたい。これからも、おかしいことがあっても、何が起ころうと傍に居たい。僕と一緒にいよう。好きなんだ。大切なんだ。大切にしたいんだ。
大切にするから…だから、サツキは僕を諦めないで。お願いだから…」
声が震えてしまった。
サツキは俯く僕の頭をなでた。初めてされた。手つきは優しく、なで慣れているように感じた。
「ねぇ。…ひなた、…。あのさ、私のこと、ゆみって呼ぶ気ない?」
驚いて顔を上げると、サツキは困惑した表情のまま不器用な作り笑いをした。らしくない、媚びた笑顔だった。
「あぁーと…ごっこ遊びだと思ってよ。入院中だけでいいから。ね。お願い?」
こみ上げる怖気をこらえて「どうしたの、急に」と明るく微笑んでみせた。
冷えた手を温めたくて、包んだ両手で優しく揉んだ。手の中で指が動き、僕の指と絡んだ。
「いや…愛称が、さ。ゆみって呼ばれていたはずなんだよ、私。自分ではまだゆみのつもりでさ…けど私って本当はサツキ、なんだよね?
これってさ、やっぱ腫瘍のせいだよね? 存在しないオンナになりきっちゃってる感じ?」
僕は、おおげさに微笑んでみせた。さも同感だといいたげな、どうとでもとれる曖昧な笑みで。
とっさにやった僕らしくない営業スマイルに、しかし、サツキはホッとしたように笑った。
「そっか。そうなんだ。…まぁそうだよね。あんなの間違い。良かった。
でもさ。それでも今は、ゆみってオンナの気分なんだよね。
…ねぇ、やっぱ付き合ってよ。入院なんか初めてだし。暇そうじゃん。多分。
だからさ、ね? やろうよ、別人ごっこ。ゆみって呼んで? なんならさ、私もたぁって呼ぶから。
…、ひなたの「た」だかんね? 変でもいいじゃんね、遊びだし。リアルな悪夢をハッピーなラブラブで塗りかえる、みたいな。ね?」
「…サツキ」
サツキはムッと顔を歪めた。年上のはずの彼女が、10代の少女に見える。
「あのさ…聞いてた? バカして遊ぼって言ったの。暇だから」
「サツキ」
「はぁ? なに本当。ウザ。別に演技くらい良いじゃんか。ダル」
「サツキ」
「…分かったって。したくないってことね。マジメすぎ。いいよ、別に。思いつきだし」
「サツキ」
「…」
「サツキ」
僕は睨みつけられた。恨めしそうな、卑屈な、サツキらしくない幼い顔に向かって、僕はひたすら呼びかけ続けた。
足りなくなって、抱きついた。
横になったサツキに覆いかぶさって、潰さないように空間を作って、だけど必死にすがりついた。
(かわいそうだ。すごくかわいそうだ。だけど譲れない。その名は呼べない。演技だろうが無理、呼べるわけがない。サツキは僕だけのひとじゃない、僕と生きるひとなんだ、サツキじゃないとダメなんだよ…!)
名を呼ぶ。呼びかける。命の固有名詞を、たったひとりの存在を、ひたすら。
サツキ、サツキ、サツキ、サツキ、
はたからは僕にこそ精密検査がいるように見えるだろうな、と頭をかすめたが、熟考するまでもなく開き直った。
(ヤンデレだろうが知ったことか。違ったら検査でも治療でも何でもやる。だけどもし違ってなかったら…持って逝かれるわけにはいかない…っ)
だらんと力が抜けた身体をしっかりと抱きくるむ。
(サツキを守るのは僕だ。来年は夫婦なんだから。
…あんな思い知ったような虚ろな顔で、おもりだなんて言わせてたまるかよ…!)
サツキは何も応えなくなった。
僕にひっつかれたまま、名前の連呼をただ聞いているような状態だった。
そのまま眠っていったことに、しばらくしてから気付き、そこでようやく僕は顔をあげた。
僕の顔はぐちゃぐちゃだったが、サツキも泣いていた。
両目の目じりから一筋ずつ流れるように涙の跡がほおに残っている。
表情や雰囲気に、まるで映画の御遺体役を見るような美しさがあった。
とっさに体温を確認した。ちゃんと温かいのに不安は消えなかった。
手首を撫でて脈を探してみるが、よく分からない。焦燥感がこみあげ、ナースコールを押しかけて…、やめた。
サツキは深く呼吸をしている。ちゃんと存在感がある。
(眠っているだけだ。…生きている)
僕は椅子に座り込んだ。
死別エンドの悲恋物語を映画でみたような気分に陥っていた。
「精密検査の結果、腫瘍が確認できませんでした。全て正常値です。
おかしいですよね。私も思います。もう一回、見ます? コレ。最初の。で、翌日に撮ったのがこっちです。ほら。…こんなにはっきりうつっているんですけどねぇ…?」
「なら、先生。これは治ったということでしょうか?」
「なんとも。私はこのケース初めてですね。
キレイですが、油断なさらず。家でも様子をしっかり見ていてください。
今後、異常行動がなくなったとしても経過観察は必要です。忙しいとは思いますが、定期的に…」
サツキは無事に退院した。
帰る途中、3人で外食をした。サツキお気に入りのオムライス専門店。
おなかすいたぁ、とションボリしていたサツキは、エビとブロッコリー入りホワイトソースのオムライスを前にしてニコニコだ。
「そういやあのPCって私まだ持ってたんだね。懐かしいくらいなんだけど、脳ちゃんは覚えていたんだね。ともに卒論がんばったもんね。でもなぁ。出ないわぁ。何ですぐ固まるの? 仲良しなの? ひっついていたいの? 悪いけど困るよ? いったん離れよ? そんで皿の上で待ち合わせよ? ソースの上に移動してくれたら離れろなんて野暮を言う気ないよ? なんならヒューヒューお熱いねぇとか言ったげるからぁ」
サツキは猫舌だ。食べ出すと無言だが、食べられる温度に冷めるまではよく喋る。
今は粉チーズの容器を逆さにして振りながら、中の塊に「いったん爆発四散して?」と説得していた。
隣で僕はトッピングのヒレカツにカレーソースをつけて食べながら、ほっこりした。
(これぞ、サツキ。愛しい)
サツキのお母さんもこのノリに慣れているようで、さらりと口をはさんだ。
「お店のは、どうしてもね。家のもそうなるの? そう。なら買った後に少しだけ片栗粉を入れて振っておくと、サラサラでいてくれるわよ」
「あ、だからなんだ、実家の。チーズ界には別れさせ屋が実在するんだね。よぉし帰ったら実験だぁ。結果をSNSあげていい?」
「お母さん、SNSよく分からないわ。怖い話ばっかり聞くんだけど、大丈夫なの?」
「おかーさん普通に使ってるよ。私との連絡、それもSNSだよ」
「…あらぁ…」
サツキは完全に元に戻っていた。
サツキのお母さんもニコニコに戻った。
「お父さんへの報告は私がするわ。本当に色々ありがとう、ひなたくん。これからもどうか娘のことよろしくお願いします。
サツキ。ひなたくん大事にしなさいね。凄く愛されているわよ。仲良くやっていけるよう…なんで逃げるの、こら、ちょっと。戻ってきなさ…はい、おかえり。もう。
昔から照れるとすぐこうなんだから、この子は」
くったくなく僕らに笑いかけ、お母さんはひとり帰っていった。
その伸びた背に誇りと慈愛を感じる。地に足をつけるおとなの美しさを垣間見た気がした。
ふたりで買い物をしてから帰り、鍵を開ける。ノブを掴み…ひるんだ。
安易に「虫がいるの?」なんて聞いてしまったあの一角には、今、ノートパソコンがある。
「? 先に入るね。荷物ちょーだい」
サツキが僕の持っていたエコバッグを取り上げ、さっさと中に入ってしまった。慌てて後を追う。
室内の電気がつくと、見慣れた部屋がやたらと明るく感じた。
サツキの部屋の一角を眺めて、ふと思う。
(もっていったのかもしれない。
悪夢だ間違いだと思い込もうと…価値を分かっていたから。最期の果てで揺らいでも、生き抜いた証を手放さなかった。…携えて逝ったんだな)
直感だった。確かめる術のないそれは泡沫夢幻の思いつきでしかなく、次の瞬間には(アイス早く入れなきゃ)に置き換えられた。
1秒前に確かに感じた内容を、今もう思い出せない。でも、それでいい気がした。自分の時も、そうされたい気がした。
「久々のただいまだからかな。なんか新鮮。換気するね」
サツキは厚手のカーテンを豪快に開けた。
「お。中学生ふたり組を発見。あれ、帰りこんな早い? 試験期間中? てか、友かな? 恋かな? どっちの青春なんだい、君らは!」
僕も隣に並んだ。カーテンが邪魔。
「いや、そこは思っても秘めようよ。僕は嫌だったよ、そういう噂されるの」
「…そうなの? 私ヒューヒュー言われるの楽しかったから」
「それっぽいけど。今もしや元カレの話された?」
「嫌な子もいるのかぁ。気をつけよ」
「それ中学? 高校?」
「あの子らはどうなんかな?」
「黙秘か。なら友だな」
「ウッソこの流れでバレる? 理解者だぁ…。あ」
カーテンを留めていると、手をひかれた。そのまま握手の形で繋がれる。
(そういえば…サツキは手を繋いでも指を絡めてくることないな)
「目があった。いぇー」
外を見れば、制服の子たちがこちらを見上げ、ためらいがちに手を振っていた。
(ん?)と思い隣を見れば、サツキは満面の笑みを浮かべて派手に手を振っていた。開き直りやがった。
僕は慌てて窓の外に片手で「ごめん」とジェスチャーした。
すると、こどもたちは破顔した。会釈して、楽しそうに去っていく。
サツキは満足そうにため息をついた。
「はぁー…いいね、若い子。可愛い」
思わず「ははっ」と笑ってしまった。なんの気なしに隣を見下ろし、それに気付く。
サツキは、下げた片手をごく自然に下腹部へ添えていた。
僕はちょっとだけ思考が止まり、すぐに手を繋ぎ直した。いつもの握手から、指を絡める形に。
「…?!」
サツキはとたんにうろたえた。彼女の顔は、見るまに赤く染まった。
「特別な食事会、メニュー決まりそう?」
「! き、決まっておりますよ?!」
「あ、もう決めてるんだ?」
今回のことで僕は色々思い知った。そして、ふっきれた。
「じゃあもう来月どう? 診察予約日の前に。食事と提出だけでも」
入院中、僕は蚊帳の外におかれた。僕が付き添っているのに、サツキのお母さんがいないと全てのことが動かなかった。
「夫なら、診察室にも入れます。検査結果を一緒に聞けます。どんな手続きも僕で対処可能です」
絡めた指の一本を意味深にいじってみたら、サツキはまたいったん逃げようとした。
立ち塞がってみた。その時、ふと思い出した。前にサツキと見た動画。その中のイケメン所作へのクレーム。
「なにこれ勢い強すぎこわぁ! これ壁ドン違うって、やり方違う、絶対こうじゃないよ。トキメかせたいならこうでしょうよ、こう!」
(こうですね、はい)
瞳を見つめたまま、ゆっくり優しく身を寄せて、かつて見せられたサツキ単独パントマイムを再現してみた。理想の壁ドンは「腕力不要。色気の圧で壁に追いこむべし」、らしい。
サツキは固まった。
僕は両手の指を絡ませて、ホールドアップさせてみた。力を入れなくてもされるがままだった。そのまま壁と僕で挟んで、ふんわり貼り付ける形にして、身を寄せて、耳元でゆっくりと囁く。
真っ赤な顔のサツキは蚊の鳴くような声で「…ふぁい」と鳴いた。
やっぱりちょっと虐めたい衝動がこみ上げ、今回は効果的な虐め方を察してしまったので、まぁほんのちょっと後で虐めてみた。
好評だった。
(完)
本作に登場する脳腫瘍に関する記述は、物語上の演出です。現実の医学的根拠に基づいたものではなく、「怪奇現象を、立場の違うキャラクターたちがそれぞれ何ととらえたか」のアンサーのひとつです。




