(中)
山代陽向…語り手。一人称「僕」。
暮畑サツキ…陽向の彼女。
同棲しはじめ、しばらくすると、サツキの様子がおかしくなっていった。
外ではそうでもないが、部屋に帰るとおかしくなる。らしくない様子に、僕の中で少しずつ違和感が溜まっていった。
(新生活で勝手が掴めないのか? …それにしては、何か…?)
違和感が溜まるだけで生活に支障はない。僕のモヤモヤをそのままに、日常はさらりと過ぎていく。
引っ越し前にあみだくじで決めた家事分担は、今も変わらず継続中だ。
サツキの手際は良かったが、僕の方がまぁまぁモタついた。それでもやっているうちに慣れてくる。慣れてしまえば、ささやかな面倒を無心でこなせるようになる。気持ちに余裕がある日は工夫してみたくもなる。
互いがもたらす結果に不満はでない。サツキも同感だと答えてくれた。何故か具体的に褒めてもくれた。だから助かる、とも。反応に困った。
(…? それはそうだろうけど、お互いさまだよな。僕も助かっているわけで。やたら…、なんか…なんだ? おかしいな。微妙に噛み合わないんだよな…?)
話しかければ答えてくれる。ただ、会話がそっけなくなった。
スキンシップを拒まれない。ただ、感情が見えなくなった。
隙あらば自室にこもる。ノートパソコンに向かい、ひたすら作業している。
…僕と過ごさなくなってしまった。
同棲する前のほうが一緒に過ごせた。どちらの部屋にいても、ずっと定位置は隣だった。互いをクッション代わりにしたり、足先やら腕やら触れ合う距離でまったりする、という形が自然だった。
ダラダラ会話しながら趣味したり、ゲームの休憩がてらかまえば、じゃれかえしてくれた。誘えば一緒に遊んでもくれたのに。
サツキだってそうだった。基本やりたい放題で、でも気まぐれに甘えてきて、唐突にちょっかいをかけてきてくれた。のに。
尋ねても、受け流される。不満はないと言い張る。
だけど、だんだんと顔を向けないどころか目すら合わなくなってきて、やがて愛情を疑いたくなるほど全てが事務的になっていた。
寂しさで戸惑う僕と、どこまでも平静なサツキ。
僕から話しかけないと、会話すらできない。
2ヶ月が経つ頃には、外でも様子がおかしくなっていた…らしい。
僕とサツキは会社こそ同じだが部署が違う。勤務地も違う。仕事中どうしているかなど知る術がない。
ある日、同期の知人とばったり会った。サツキと同じ部署。勤務地も同じ。雑談の中で、サツキの異変を知った。
「一緒に暮らし始めたって聞いたよ?
あーっと…家事とか。よく知らないくせに余計なお世話でゴメンだけど、暮畑ちゃん頑張り屋だから、仕事がああなってくると、さすがに心配でさ。
山代さんも仕事で疲れてるとは思うけど、こう…、何か…。
ぶっちゃけ、助けてあげる気ってあったりしない?」
「むちゃくちゃあります。サツキに何かありましたか? 情報ください」
食い気味に即答すると、知人はあっけにとられた顔をした。すぐに笑いだした。
「…良かった! いや、実は」
仕事は変わらず真面目だが、周囲に対して無関心さが目立つらしい。
休憩中は不機嫌な無言が多く、口を開いたと思えば「疲れた」を言うらしい。
「こういうとアレだけど…今の暮畑ちゃん、すごく近寄りがたい。別になにかされたってわけじゃないんだけど、…されかねないなって警戒しちゃうんだよねゴメン! 言い過ぎた。失礼だった。
ほら、厄介なクレーマーってっぽい人が多くてさ。余裕なさげっつか何か飢えてってか…だから…いや、単なるイメージです。すいません。暮畑ちゃんがそうって言いたいわけじゃなくて、…なん、だけど。
…変わっちゃったよね…嫌なほうに…」
ぽつり、寂しそうに呟いた。
僕の中の違和感が、言語化された気がした。
「今夜、話し合ってみます」
腹を括った結果が、冒頭だ。
変わらず自室にこもるサツキに、ごく普通に話しかけたつもりだった。
サツキの好きなガトーショコラと、ちょっと良い日本酒を買って、テーブルに用意して、「そろそろ休憩しない?」、と。
ガトーショコラに1番合うのは日本酒だと力説する彼女ならば、走り寄ってくるはず。久々に喜んだ笑顔が見れる、そう信じていた。
だけど、返事は拒絶だった。苛立ちを込めて一蹴された。
「ただ打ちたいだけ。文字に触れていたいだけ、書いていたいだけ。
私、やることはキチンと終わらせたじゃん。無意味だろうが、不気味だろうが、あんたに関係ないよね。好きにさせてよ。気付かないフリしてなよ。これも見なけりゃいい話でしょうよ。
あんたがそう言ったんじゃん。私に…!」
非難された。身に覚えのない言いがかりだった。挑発的な声音につられて、僕の頭にカッと血がのぼった。とっさの理性が間に合い、反論を飲みこむ。
混乱していた。万が一を思って必死に記憶を探る。だけど、やっぱり何ひとつ心当たりがない。
(見なければいい話? 無意味? …ブキミ? なんなんだ? なんの話だ? ていうか僕がそんな物言いする人間だと思ってるのか? そんなわけないだろ、知ってるだろ、なんでだよ、サツキ!
…何があったんだよ…そんな眼ぇして…?)
サツキの冷え冷えとした眼は、傷ついている人のそれに見えた。
苛立ちながら、混乱しながら、それでも好きな人を理解したくて眼を見つめていると…、だんだん可哀そうに思えてきて、僕はそのまま黙り込んだ。
結局、何も言い返せなかった。
喧嘩がしたくて一緒にいるわけじゃない。
沈黙。
蔑みの眼はゆっくりとそれていき、サツキはまたノートパソコンに向き直った。ブラインドタッチの音は止まない。そういえば、ずっと鳴り響いている。
(…僕と話すより、一緒にケーキを食べるより、そっちがしたいのか…? あのサツキが…、僕には関係ない、とか…)
後ろ姿を眺め続けた。まだ僕がいることは分かるだろうに、振り向かない。
特別な女の子が、別人のようになってしまった。
僕には、その場に立ち尽くすことしかできることがなかった。
話し合いは失敗に終わり、彼女の異変は治らない。
それでもサツキが好きだった。今まで積み重ねてきた思い出は変わらない。僕にとって大切な人なのも。
悩んだが、意を決して上司に相談した。
プライベートの話なので嫌がられるだろうと覚悟していたが、思いのほか親身になってくれた。
その上司を通じて、サツキの上司と話すことが出来た。
サツキの変化を知っていたらしく、僕の話を聞くや、その場で各所に電話をしはじめ、タブレットを触り、あっという間にサツキの仕事を調整した。
上司の呼び出しに応えたサツキは、僕がいることに驚いていた。「午後休とった」と告げると、またあの蔑むような眼をした。
サツキの上司はギョッと目を見開き、すぐに冷静な声でサツキに着席をすすめた。そして有給消化の話を切り出した。
「たくさん溜まってますから。消える前に使ってください。なんなら明日からでも大丈夫ですよ? 土日含めて7日間の連休、どうです?」
サツキは従順だった。提案に対し、感謝や戸惑い、疑問すら表情に出さず、淡々と受け入れた。
それを見た僕は、本気で危機感を覚えた。
表情に出さなかった、というよりも、感情が伴っていないように、思考が働いていないように見えたからだ。
今のサツキは、1秒先すら見えていないのかも知れない。
身体はここにいるまま、心だけ違う世界に所属している、そんな異様さを感じた。
心がとっくに死んでいるような。
まるで心だけ死者のような。
死者に未来はない。終わった存在だからだ。例え1秒先だろうと、終わっている以上、その先を思考することができないだろうと思う。
…1秒先が見えないから。死者の心だから。今後を思考することができなくなっている…?
背筋が凍えた。
(これはダメだ。何も分からない。けど、絶対マズい。このままではダメだ。…どうしたら)
僕は、サツキの両親を頼ることにした。
電話をしてアポをとり、逸る心をなだめながら、サツキの実家にお邪魔した。
努めて冷静に説明したつもりだが、焦りや不安が伝わってしまったらしい。サツキのお父さんを怒らせてしまった。
うちの娘に何をしでかした、やはり貴方にはやれない、家に戻らせる、そう声を荒げて興奮しだした。
落ち着かせたのは、サツキのお母さんだった。
「ひなたくんは相談に来てくれたの。サツキのためにね。
娘がそんなに心配だったら、まずあの子の好きなおやつを買ってきて。今すぐ。出来るでしょ。ひとり娘よ。一緒に暮らしていたわ。ひとつくらい思いつくわよね。
家に戻らせたいなら、好物くらい用意しなくちゃ。そうよね?」
静かで穏やかな口調だが、何らかの含みを感じた。
サツキのお父さんは明らかに怯んだ。
みかねた僕はそっと告げた。
「ガトーショコラはダメでした。好物だと思っていたんですけど、全然。見向きもせず。
わらび餅も好きですよね? そっちはまだ試してないです。イケるかも…どう思われます?」
「…わらび餅だと? いや、だが。和菓子屋なんて、どこに…?」
「あ、スーパーので大丈夫です。むしろ気楽に回数を食べられるからそっちのほうが好きと聞いています。味の違いより、冷っこさが重要だと前に語られまし、た…」
(そうだ。サツキは食べることが好きだ。なのに、…。いつからだ? いや、前もあれって思った時あった。確か…そうだ、部屋を内見した日…)
何となくゾッとした僕は、慌てて言葉を続けた。
「サツキ、さんは、買ったらすぐ冷凍させますよね。半解凍が好きで。お風呂の前に冷蔵庫へ移すんですよ。その時に1個、2個は凍ったまま齧って。きな粉に追い砂糖して」
「おいざとう? なんだそれは」
「あ。砂糖を追加するんです。付属のきな粉、もう砂糖が混ざっているんですけどね。
それで、お風呂から帰ってきたら牛乳を温めて…たまに牛乳だけ飲んで、食べ忘れるんですよ。
翌朝に気付いて、全解凍を仕方なく食べるんです。朝食代わりに。みそ汁も一緒に。
でも最近は、それもなくて…そもそも買ってこなくなりまして」
サツキのお父さんは顔をしかめた。「何をやっとるんだ、あいつは」と低くつぶやく。
しまった、告げ口みたいになったと焦った時、急にサツキのお母さんが姿勢を正した。僕に頭を下げた。ギョッとする僕に言った。
「ひなたくん、ありがとう。娘を預かろうと思ったけど、あなたのそばのほうが良い気がしてきたわ。
もし良ければ、連休中、昼間だけでもそちらにお邪魔したいのだけど…どうかしら?」
もちろん、ありがたい。
「よろしくお願いします」
僕も頭を下げかえした。
僕が仕事に行く間、サツキのお母さんが付き添ってくれることになった。
それを知っても、サツキは相変わらずだった。従順。感情が動かない。
ただ、ノートパソコンにはやたらと執着した。
1日、2日と絶え間なく鳴り響く打鍵音に、サツキのお母さんは次第に困惑しだした。
「本当におかしいわ。どうしましょう。あの子…文章を書いてないのよ」
意味が分からず聞き返した僕に、サツキのお母さんはスクリーンショットを見せてくれた。
「ね? 意味のない文字ばかり。打ち間違いにしてはおかしいわよね? まるで子どもがプログラマーごっこをしているみたいな…だけど、こんなの」
僕は震えた。サツキのお母さんも青ざめていた。
脳裏によぎるのは内見の日のこと。
部屋の何もない一角。
疲れを訴えた。食欲がない、とも。
日々の違和感、らしくない言動、それから…あの謎の発言。
「あるじゃん。ただ打ちたい時が。文字に触れていたいだけ。書いていたいだけ。無意味だろうが、不気味だろうが、…」
(…、まずは病院。身体、脳、精神、それから)
僕は決断した。
(引っ越そう。ふたりで)
受診を提案されたサツキは、お母さんにまであの蔑む目を向けた。
「あっそ。やっぱり私がおかしいって言うんだ。耐えられない私が悪い、アッタリマエのことを上手くやれない私が悪い、させたのは私、こーなったのは私のせい、アタマおかしいのは私のほう、またそう言うわけね。…はっ!」
苛立たしげに吐き捨てるサツキの指は動き続けている。鳴り止まない打鍵音。
立ち尽くすお母さんをソファに促し、僕はサツキの部屋に足を踏み入れた。
さりげなく画面を見れば、やはり意味のない文字の羅列。改行もしない。ただひたすらに流れていく。
僕は1冊の文庫本を見せた。
「これ。サツキも読んだだろ? オチについてケンカしたから、まだ覚えてるよな?」
サツキは一瞥もしなかった。
「…犯人は主人公で、記憶障害があった。
こんな結末は辛いよねって、私たちも似たことが起きたらまず人間ドックだねって、サツキは言った。
…あの時は、リアルで起きるわけないって笑ってごめん。
仮に。もし。本当に、脳腫瘍とかがあったら…病気だとしたら…分かるだろ?
命に関わるんだ。だから。頼む。僕も付き添う。なんなら僕も受けるから。検査しよう。お願い」
打鍵音がやんだ。
僕は息を呑んだ。サツキの横顔を凝視する。
その視界には相変わらず僕はいない。だけど、久しぶりに僕の言葉に反応してくれた。
サツキは呟いた。感情のない平坦な声だった。
「なにそれ。この身体も死ぬの? …困るんだけど」
全身が、怖気だった。自分の心音が聞こえるような緊張感を覚えた。文庫本を持つ手が震えだす。
しかし、サツキは一瞥もしなかった。すぐそばにある文庫本も僕も素通りして、ゆっくりと振り返り、お母さんを見据えた。
「いいよ。検査。行っても。でも違ったら今度こそ放っておいてよね。…本当に。
ほうっておいて欲しい。優しいの意味わかんない…、みじめじゃん。私。どうして…何で? だって…の時のが断然キツかった。なのに。…こんな風にならなかったじゃん…なのに今さら…どうして…」
言葉と裏腹に、声は平坦だった。声量は減っていき、最後の声は表情と同じくらい虚ろになっていた。




