第3話 兄弟の契りを
胸元に挿された赤い花を見下ろしながら、シアンはその場で立ち尽くした。そんなふたりの間に割り込むようにして、教師が一歩前へ進み出る。
「アシュクロフト。本人への説明もなく花を挿すな」
叱責を受けても、ヴェールはまったく動じる様子を見せなかった。薄い唇に微かな笑みを残したまま、肩をすくめて教師に向き直る。
「でも断られてはいないでしょう?ダグラム先生」
悪びれる様子のないその返答に、教師――ダグラムは眉間を寄せた。
ふたりのやり取りを見つめながら、シアンは呼吸を整える。
突然現れた純血の吸血種と、彼が口にした知らぬ単語。
この状況を放置したまま流されるわけにはいかない。
シアンはふたりの間に視線を向け、口を開いた。
「あの……自分まだ何も知らないんですが。そもそも『兄弟』とは?」
シアンの問いかけを聞くと、ヴェールはどこか愉快そうに片眉を持ち上げた。深い赤の瞳を細め、シアンの顔を面白そうに覗き込んでくる。
「なんだ、説明を受けていないのかい。なら教えてあげよう」
ヴェールは一度シアンから半歩下がり、長い金髪を払って姿勢を正した。まるで舞台の上で台詞を披露する役者のような口調で語り始める。
「『兄弟制度』は純血の吸血種と、混血または人間種の間で結ばれる誓いさ。兄である純血の吸血種は、弟である混血や人間種を庇護する。逆に弟である彼らは、純血の監視役でもあるんだ」
「監視役……?」
シアンは眉をひそめ、その言葉を繰り返した。
庇護という言葉と、監視という言葉。
吸血種が人間種を守るという構図は理解できても、持たざる側の人間種が、圧倒的な力を持つ吸血種……それも純血の者を監視するというのはどうも不自然に思えた。
シアンの疑問を察したのか、ヴェールは小さく息を漏らして言葉を継いだ。
「純血種が勝手に吸血行動を起こして、相手を支配しないように」
「吸血種は血を吸った相手から一時的に主導権を奪える。……安心しろ。純血種が自身の世話係から直接吸血することは厳重に管理されている」
付け加えるように告げられたダグラムの言葉に、シアンは胸の内で納得した。
「そう。兄弟制度では互いに最も近い位置にいるからこそ、『兄は弟を守らなければならない』『兄は弟の意思を吸血によって奪ってはならない』という倫理が非常に重要になる——ここで学ぶのは、卒業するまでの作法じゃない。外の社会へ出てからも必要になることさ」
「……なるほど。ちなみになぜ自分なんですか?」
シアンは感情を交えずに尋ねた。
今日入学してきたばかりで、家柄も素性もよく知らない自分に、わざわざ声をかける理由が見当たらなかったのだ。
ヴェールはシアンの問いに対し瞳の奥をわずかに揺らしながらも、平然とした調子で言った。
「先日ボクの『弟』が退学してしまってね。……余り物同士、どうだい?」
退学、という単語に、シアンの脳裏へ列車の中で男が語っていた言葉が蘇った。
——人間種の退学者が増えているという噂。
シアンは数秒の間、思考を巡らせた。
本来ならば、人間種の多いコンヴァリア寮に紛れ、目立たず学院内で過ごすつもりだった。それが高位純血の兄弟となれば、嫌でも周囲の目を引く。
一方で、純血主義者とその社会の中心に近い人物との繋がりは捨てがたい。
目立たず人間種の側から探るか。
高位純血の懐へ飛び込むか。
シアンは胸元の赤い花を見つめた。
「……分かりました」
シアンは右手を持ち上げ、胸元の花に触れる。
花弁の感触を確かめ、シアンはヴェールの瞳をまっすぐに見据えた。
「お受けいたしましょう」
シアンがそう答えた瞬間、ヴェールは満足げに唇の端を吊り上げた。シアンの襟元から手を離すと、背後に控えていた教師へと向き直る。
「ではこれで正式に『兄弟の契り』としよう、良いですよね先生?」
教師は苦々しい表情を浮かべたまま、シアンとヴェールを交互に見つめた。新入生が純血のアシュクロフト家と関わりを持つことへの懸念はあるようだったが、制度上、拒絶する正当な理由は見当たらないようだった。
教師は手元の書類に何かを短く書き留めると、重い溜息混じりに頷いた。
「……在籍する生徒には、原則として兄弟契約を結ぶ義務がある。お前たちが良ければいいだろう」
承認の言葉が出ると同時に、教師はシアンの足元に置かれた手荷物の革鞄へ視線を落とした。
「荷物はアシュクロフトに手を貸してもらい、ロザリア寮に運びなさい。それが終わったら教室に向かうように。アシュクロフト、頼んだぞ」
「……あれ?コンヴァリア寮じゃなくてですか?」
疑問を口にしたシアンに対し、ヴェールが肩をすくめて答えを引き取った。
「弟は兄の居住寮へ部屋を移すんだ。寮籍はコンヴァリアのままだけどね。ということで、今日から君にはロザリアで暮らしてもらうよ」
ヴェールは当然のことのように言い放つと、迷うことなくシアンの足元にあった鞄の片方を持ち上げた。
手慣れた動きで荷物を抱え、エントランスホールの奥へと歩き出す。
シアンは残されたもうひとつの荷物を手に取り、教師へ一礼した。教師は何も言わず、ただ厳しい視線で見送っている。
シアンは踵を返し、先行する金髪の背中を追って大理石の床を踏み出した。
——胸元に咲く赤い花が、小さく揺れる。




