第4話 その花は
本館から渡り廊下を抜け、中庭を横切った先にロザリア寮は建っていた。
石造りの外壁には細やかな彫刻が施され、窓枠のひとつひとつまで豪奢な装飾で縁取られている。
吸血種の純血貴族が多く集まるというその建物は、古い城館のような威厳を漂わせていた。
ヴェールは慣れた足取りで階段を上がり、二階の廊下を進んでいく。
シアンはその後ろをついて歩きながら、静まり返った廊下を見渡した。
床には厚手の絨毯が敷き詰められており、足音をほとんど吸い込んでしまう。
ヴェールはある扉の前で足を止め、鍵を差し込んで解錠した。
「ここが君の部屋だ」
促されて部屋に入ると、手入れの行き届いた調度品が整然と並んでいた。
大きな窓からは柔らかな光が差し込んでおり、ベッドや机、クローゼットなど、生活に必要なものはすべて揃っている。
新入生の部屋としては十分すぎる広さだった。
「隣はボクの部屋。何かあったらいつでもおいで」
「隣の部屋、なんですね」
シアンが振り返って尋ねると、ヴェールは扉の枠に寄りかかり、当然のように肩をすくめた。
「弟は兄の監視役でもあるだろう? 離れていたら意味がないじゃないか」
悪びれる様子のないその返答に、シアンは小さく息をついた。
監視役という建前を都合よく利用されているような気もしたが、反論する材料もない。
シアンはひとまず長旅の荷物を整理しようと考え、鞄の革ベルトに手をかける。
中から着替えや筆記用具を取り出そうと屈み込んだとき、頭上から怪訝そうな声が降ってきた。
「何してるんだい?」
「荷解きですけど」
シアンは手元を動かしたまま、至極当たり前のこととして答えると、ヴェールは呆れたように短く言った。
「授業」
「……今日からですか?」
シアンは思わず手を止め、顔を上げた。編入初日は寮の案内と手続きだけで終わるものだと思い込んでいたのだ。
「さっきダグラム先生も言っていただろう」
「それは……そうですね」
「なら行っておいで。荷物は逃げない」
ヴェールは事も無げに言って、早く立ち上がるようシアンを促す。
あまりの展開の早さに、シアンは困惑を隠せなかった。
列車に揺られてようやく到着したばかりで、呼吸を整える暇すら与えられないとは。
シアンは立ち上がり、制服の皺を払いながらヴェールを見つめた。
「ヴェール先輩は、授業へ行かないんですか」
「ボクは昼からだよ。一年は本館教室棟、三階の端で授業のはずだ、案内はいるかい?」
ヴェールは薄い笑みを浮かべ、ゆったりとした仕草で答えた。
学院生活にすっかり馴染んでいる先輩の余裕と、右も左も分からぬまま振り回される新入生の立場の差か。
「いいえ、校内については前以て頭に入れてきたので大丈夫です」
シアンは諦めて鞄から筆記用具と教科書だけを抜き取り、指定されていた教室の番号を頭の中で確認する。
準備を整え、部屋を出ようと扉へ向かって歩き出したところで、背後から再び声が投げかけられた。
「ああ、シアン」
「はい?」
シアンが足を止めて振り返ると、ヴェールは瞳を細め、シアンの胸元を指差した。
「花は抜かないように」
「……これですか?」
シアンは自分の襟元に留められた、真っ赤な花へ触れた。
魔術によって作られたその花は、萎れる気配もなく鮮やかな紅色を保っている。
「大事なものだからね」
ヴェールはそれ以上理由を説明することなく、楽しげに目を細めた。
シアンは胸元に挿された赤い花をもう一度確認し、釈然としないものを感じながらも、そのまま授業へ向かうために部屋を後にした。
本館の教室棟は、先ほどまでの寮の静けさとは打って変わって、生徒たちの気配に満ちている。
シアンは道中で出会った案内役の教師に連れられ、指定された教室の扉をくぐった。
教壇の横に立つと、数十人の生徒たちの視線が一斉にシアンへと注がれる。人間種もいれば、特徴的な耳や瞳を持つ吸血種も混ざっている。
教師が教卓を軽く叩き、生徒たちを静まり返らせてから口を開いた。
「今日からこのクラスに加わるシアン・ヘイルだ」
シアンは姿勢を正し、教壇から生徒たちに向かって短く頭を下げた。
「シアン・ヘイルです。本日付で編入いたしました。よろしくお願いいたします」
簡潔な自己紹介を終え、教師から指定された空席へ向かおうと歩き出した。
そのとき、最前列に座っていたクラスメイトのひとりが、シアンの姿を凝視したまま声を上げた。
「……おい」
「?」
シアンが足を止めて首を傾げると、その生徒は信じられないものを見るように、シアンの胸元を指差した。
「その花、どうした?」
制服の紺色の上で鮮烈に咲く、赤い花。
シアンは特に隠すことでもないと思い、淡々と答えた。
「いただきました」
「誰に」
「ヴェール先輩に」
その名を口にした瞬間、教室が一気にざわついた。
机を引く音や、息を呑む気配が教室のあちこちから広がる。
生徒たちは互いに顔を見合わせ、目を丸くしてシアンを凝視した。先ほどまで無関心を装っていた生徒たちまでもが、驚愕の色を隠せない様子で身を乗り出してくる。
「ヴェールって……アシュクロフト先輩!?」
「お前、今日編入してきたんだよな?」
「はい」
「今日!?」
「今日です、数時間前に到着したばかりで……」
「初日にアシュクロフト先輩の弟になったのか!?」
矢継ぎ早に投げかけられる問いに、シアンは周囲の尋常ではない反応を目の当たりにして、ようやく事の大きさを悟った。
さらに、ひとりの生徒がシアンの服装を上から下まで見分けるように眺め、声を上げる。
「お前そのローブの色、コンヴァリアだろ?」
「そうですが」
「大丈夫か……?ロザリアは、その……高位吸血種が多くて、純血主義の生徒も多いけど」
「大丈夫ですよ、多分」
「肝据わってるな!?」
「まあ、あのアシュクロフト先輩の弟なら誰も手を出さないか」
周囲の過剰な騒ぎ立てに対し、シアンだけは至って冷静に返事をし続ける。
興奮するクラスメイトたちと、平然と受け答えをするシアンとの温度差が、教室の空気を奇妙なものにしていた。
「でも、アシュクロフト先輩って確か前にも——」
「おい」
ふと、小さく呟かれた声に、別の生徒が慌てたように厳しい口調で制止した。
口を開きかけた生徒は我に返ったように口を噤み、気まずそうに視線を逸らした。
教室を包んでいた騒がしさが、その一瞬で不自然な静寂へと塗り替えられる。
「あんま余計なこと言うな」
「ご、ごめん」
シアンはそのやり取りに違和感を覚えた。
ヴェール本人からも、以前にも弟がいたこと、そしてその弟が退学したことまでは聞かされている。
——何か踏み込んではならない事情があるのか。
シアンは胸元の赤い花を指先でなぞりながら、深く聞くことなく自分の席へと腰を下ろした。




