第1話 所有紋
最初に覚えたのは、首筋の温かさだった。
痛くはない。ただ、陽だまりに触れているような、ぼんやりとした熱。
前世の記憶は、ちゃんと残っていた。それだけは、自分で選んだものだったから。
石造りの薄暗い部屋。藁の寝床。僕を抱いた痩せた女の人が、僕の首元を見つめたまま、顔を真っ青にしている。
「そんな……王家の紋が……どうして、この子に」
産婆らしい老婆が、低い声で言った。
「神の契約だよ。生まれる前から決まってたんだ。この子は王家の――いや、みなまで言うまい」
言葉は、ちゃんと分かった。分かってしまった。
母が僕を強く抱きしめる。震えているのが伝わってくる。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
一度ではない。二度、三度、何十度と、街中の鐘が重なり合って鳴り響いている。石の壁越しにも、人々の歓声が聞こえてきた。
「……お世継ぎがお生まれになったんだね」
老婆が窓の外を見やって呟いた。
「第一王子殿下だよ。今日この日に。……まったく、神様ってのは皮肉なことをなさる」
首筋の紋が、とくん、と脈打った。
遠く、けれど確かに繋がっている誰かの気配。
ああ、と僕は思った。
あいつも、生まれたのだ。
同じ日、同じ国の、一番高い場所で。
*
母は僕に、テオという名前をくれた。
古い言葉で「神の贈り物」という意味らしい。首に王家の紋を持って生まれた子にその名をつけるのは、母なりの精一杯の抵抗だったのだと思う。
僕たちが暮らしていたのは、グラディウス王国の王城の片隅――洗濯場の裏にある奴隷小屋だった。
母はそこで、朝から晩まで王族や貴族の衣を洗っている。冬でも冷たい水に手を浸し、指先はいつもひび割れて赤く腫れていた。母は僕を籠に入れて洗濯場の隅に置き、手を動かしながら、ときどき振り返っては笑いかけてくれた。
赤子の僕にできることは何もなかった。泣いて、乳を飲んで、眠るだけ。
ただ、耳だけはずっと働いていた。
【言語理解】のおかげで、周りの大人たちが話すことはすべて分かった。そして大人たちは、赤子の前では何でも話した。
この国の名前。王の名前。隣国との小競り合い。洗濯場の監督官が、奴隷女たちの給金をこっそり懐に入れていること。
そして、第一王子ルドヴィク・フォン・グラディウス殿下の噂。
「生まれて半年で、もう言葉を話したんだってさ」
「一歳で文字の読み方を覚えたって、教師が腰を抜かしたらしいよ」
「お顔立ちがまた、天使みたいにお美しいんだと。乳母たちが取り合いだよ」
洗濯女たちは、手を動かしながら楽しそうに話していた。
僕はそれを、籠の中で黙って聞いていた。
そりゃあそうだ、と思った。四〇〇〇ポイント分の才能を、あいつは全部持って生まれてきたのだから。
*
二歳を過ぎる頃には、僕も洗濯場の手伝いをさせられるようになった。
洗濯ばさみを拾い集め、小さな桶で水を運び、干し場の落ち葉を払う。奴隷の子に遊ぶ時間などない。歩けるようになったら、働くのだ。
言葉は、もう話せた。けれど、なるべく話さないようにしていた。
賢すぎる奴隷の子供は、目をつけられる。それくらいのことは、洗濯女たちの噂話から学んでいた。だから僕は、少し無口で、少しとろい子供のふりをした。
困ったのは、文字だった。
【言語理解(会話のみ)】は、本当に会話しか分からない。監督官が持っている帳面も、城壁に貼られた布告も、僕にとってはただの模様にしか見えなかった。
二〇ポイントで取れたのは、ここまでだった。
そして、あの五〇ポイント。
名前すら読めなかった、正体不明の何か。
二年経っても、何も起きなかった。魔法が使えるようになるわけでもない。力が強くなるわけでもない。
黒瀬の言ったとおりだ。五〇ポイント、ドブに捨てたのだ。
ただ――ときどき、眠りに落ちる直前に、紙をめくるような音が聞こえる気がした。
あの暗闇で見た一行のことを、僕は忘れていなかった。
あれが何だったのかは、まだ分からない。
*
首の紋は、ときどき熱を持った。
決まって、城の上のほうが騒がしい日だった。王子殿下が家庭教師を言い負かした日。王子殿下が気に入らない乳母を追い出した日。王子殿下が、癇癪を起こした日。
あいつの感情が、この紋を通して伝わってくるのだと気づいたのは、二歳の冬だった。
そして、三歳の誕生日が近づくにつれ、紋はひどく熱くなっていった。
焼けるようではない。けれど、苛立ちと退屈が混ざったような、嫌な熱だった。
誕生日の、翌朝。
奴隷小屋の戸を叩いたのは、上等な服を着た男だった。
「首に王家の紋を持つ子供がいるな」
城の家令だった。洗濯場の監督官が、その後ろで揉み手をしながら頭を下げている。
母が、僕を背中に隠した。
「……この子に、何のご用でしょう」
「第一王子殿下のお召しだ。殿下が三歳の誕生日を迎えられた祝いに、ご自分の『持ち物』を見たいと仰せでな」
持ち物。
母の背中が、びくりと震えた。
「お待ちください、この子はまだ三つです。お城のことなど何も――」
「神の契約により、その子は生まれたときから殿下のものだ。お前に口を挟む権利はない」
家令は冷たく言い放ち、僕の腕を掴んだ。大人の手の中で、僕の腕は小枝のように細かった。
母が縋りつこうとして、監督官に突き飛ばされる。藁の上に倒れた母が、僕の名前を叫んだ。
「テオ!」
僕は振り返った。
大丈夫、と言いたかった。何が大丈夫なのか、自分でも分からなかったけれど。
「……いって、きます」
回らない舌で、それだけ言うのが精一杯だった。
*
初めて足を踏み入れた城の上層は、別の世界のようだった。
磨き上げられた大理石の床。壁一面の色鮮やかな織物。窓には色硝子がはめ込まれ、差し込む光が床に虹色の模様を描いている。
すれ違う侍女や騎士たちが、薄汚れた服の僕を見て顔をしかめた。
三歳の足では、家令の歩幅についていけない。何度も引きずられるようにして、長い廊下を進む。進むほどに、首の紋が熱くなっていく。
やがて、大きな扉の前で家令が足を止めた。
「殿下の御前だ。決して顔を上げるな。口を開くな。分かったな」
僕は黙って頷いた。
扉が開く。
広い部屋だった。中央の豪奢な椅子に、一人の幼児が座っている。その周りには、何人もの大人たちがいた。乳母、教師、騎士、貴族らしき男女。誰もがその子を見つめ、うっとりと目を細めている。
金色の髪。透き通るような白い肌。宝石のような碧い瞳。
天使みたいだ、と洗濯女たちが言っていたのは、本当だった。
前世の面影は、どこにもない。
けれど、分かった。
顔を上げるなと言われていたのに、僕は思わず、その子を見てしまった。
その子も、僕を見ていた。
そして、笑った。
教室で先生に向けていたのと同じ、あの爽やかな笑顔で。
「みんな、少し下がってくれるかな。この子と二人で話がしたいんだ」
三歳の子供の口から出たとは思えない、はっきりとした声だった。大人たちは顔を見合わせたが、誰一人として逆らわなかった。むしろ、殿下はなんとお優しい、奴隷の子にまでお声がけなさるとは――そんな囁きを残して、皆が部屋を出ていく。
【カリスマ】。
四〇〇ポイント分の、人に好かれる力。
扉が閉まる。
広い部屋に、僕とその子だけが残された。
その子は椅子から飛び降りて、ゆっくりと僕に近づいてきた。背丈は僕と変わらない。けれど、上等な靴で大理石を踏む足取りは、不思議なほど堂々としていた。
そして、僕の首の紋を、指先でなぞった。
その瞬間、その子の顔から笑みが消えた。
見覚えのある目だった。
屋上で、フェンスに僕を押しつけたときと、同じ目。
「よう、相沢」
三年ぶりに、その名前で呼ばれた。
「元気そうじゃん。いやあ、待ってたんだよ。赤ん坊の身体って不便でさ、やっと自由に動けるようになったんだ。王子って案外退屈だし。周りのやつら、何やっても褒めてくるし。つまんねえの」
声が出なかった。
黒瀬は――ルドヴィク・フォン・グラディウスは、楽しそうに首を傾げた。
「でもさ、お前がいれば退屈しないだろ? なあ、相沢」
紋が、燃えるように熱くなった。
「――跪け」
膝が、勝手に折れた。
大理石の床に、小さな膝が打ちつけられる。痛い。立ち上がろうとしても、身体がまったく言うことを聞かない。頭が、額が、ゆっくりと床に近づいていく。
【支配】。
一五〇〇ポイント分の、人を従わせる力。
床に額をこすりつけたまま、頭上から笑い声が降ってきた。
「うわ、マジで効くじゃん。最高」
ルドヴィクの靴先が、僕の頭を軽く小突いた。
「これからよろしくな、相沢。俺のゲーム、やっと始まるわ」
冷たい床の感触の中で、僕はぎゅっと目を閉じた。




