第2話 帳簿
奴隷小屋に戻されたのは、日が沈みかけた頃だった。
家令は戸口で僕の腕を放すと、何も言わずに去っていった。僕は一人で、ふらつく足で小屋の中に入った。
「テオ!」
母が、藁の寝床から飛び起きた。朝からずっと、そこで待っていたのだろう。洗濯場の仕事を休めば罰を受けるのに。
母は僕を抱きしめ、それから身体を離して、頭のてっぺんから爪先までを確かめた。
そして、膝で目を止めた。
青黒く腫れ上がった、二つの痣。
「……何を、されたの」
母の声が震えていた。
僕は首を横に振った。
「ころんだ」
「テオ」
「おうじさま、やさしかった。おかし、くれた」
嘘だった。
あのあと僕は、夕方まで床に這いつくばらされていた。「立て」「跪け」「回れ」「伏せろ」。ルドヴィクは新しい玩具を試すように、何度も何度も命令を繰り返した。僕の身体はそのたびに、糸で引かれる人形のように動いた。
飽きたら、終わり。それだけだった。
母は、しばらく黙って僕を見つめていた。
三歳の子供の下手な嘘を、母親が見抜けないはずがない。
けれど母は、それ以上何も聞かなかった。ただ、もう一度僕を強く抱きしめて、「そう」とだけ言った。
「そう。よかったね。……よかった」
母の肩が、小さく揺れていた。
*
その夜、なかなか眠れなかった。
隣で母が寝息を立てている。昼間の分を取り返すように、夜明け前から洗濯場に出なければならないのだ。
膝が痛む。けれど、それよりも頭から離れないものがあった。
紙をめくる音。
床に額をつけていたとき、確かに聞こえた。今までのような、眠りの縁で聞こえる幻のような音ではない。はっきりと、すぐそばで。
僕は目を閉じて、その音を探した。
暗闇の中に、意識を沈めていく。あの白い部屋から落ちていったときのように。
――ぱらり。
聞こえた。
そう思った瞬間、まぶたの裏に、一冊の本が浮かび上がった。
革の表紙。飾り気のない、古びた帳面。手を伸ばしたわけでもないのに、それは僕の目の前で、ひとりでに開いた。
そして、僕は息を呑んだ。
書かれていたのは、日本語だった。
三年ぶりに見る、漢字と、ひらがなと、カタカナ。
監督官の帳面のような、意味の分からない模様ではない。読める。全部、読める。
最初のページの一行目に、それはあった。
【記録】相沢湊、黒瀬蓮司の奴隷として転生する。
あの暗闇で見た、一行。
夢じゃなかったのだ。
五〇ポイントで、名前も読めないまま選ばされたもの。黒瀬がドブに捨てたと笑い、女神がどうせハズレだと言ったもの。
それは、ずっとここにあった。
*
ページをめくろうと思うと、帳簿は勝手にめくれた。
読み進めるうちに、僕は気づいた。
この帳簿には、僕が見たもの、聞いたもの、言ったこと――僕に関わることが、すべて書かれている。
【記録】出生。場所:グラディウス王城、洗濯場裏の奴隷小屋。
【記録】母リーネの第一声:「そんな……王家の紋が……どうして、この子に」
【記録】同刻、第一王子ルドヴィク誕生を告げる鐘、四十七回。
鐘の数なんて、数えていなかった。
けれど、聞いてはいたのだ。赤子の僕の耳に届いた音は、一つ残らず、ここに書き留められている。
さらにめくる。
【記録】母リーネ、就寝前にテオへ:「ごめんね。ごめんね。お母さん、何もしてあげられなくて、ごめんね」
同じ言葉が、何ページにもわたって続いていた。
毎晩。生まれた日から、一日も欠かさず。
僕は覚えていなかった。赤子の頃の記憶は、前世の記憶があってもなお、霧のようにぼやけている。母が毎晩、眠る僕にそう囁いていたことを、僕は今、初めて知った。
帳簿の中の文字が、滲んで見えた。
目を開けると、隣で眠る母の横顔があった。ひび割れた指が、眠りながらも僕の服の端を掴んでいる。
僕はもう一度目を閉じて、帳簿をめくった。
*
今日の記録は、長かった。
【記録】家令、奴隷小屋を訪問。「首に王家の紋を持つ子供がいるな」
【記録】監督官、母リーネを突き飛ばす。
【記録】第一王子ルドヴィク、テオに【支配】を行使。命令:「跪け」
【記録】同、命令:「立て」
【記録】同、命令:「跪け」
延々と、命令が続く。百を超えたところで、数えるのをやめた。
けれど、その合間に、僕が気づいていなかったことも書かれていた。
【記録】廊下にて、侍女二名の会話。「あの子、殿下の紋持ちでしょう? かわいそうに」「しっ、聞こえるわよ」
【記録】王子の私室、東側の窓。鍵、壊れている。
【記録】家令、退出時に騎士へ:「殿下は明日から剣の稽古で、昼過ぎまでお戻りにならん」
引きずられるように歩いていたあの廊下で、僕の耳は、こんなことまで拾っていたのか。
這いつくばっていたあの床の上で、僕の目は、窓の鍵なんて見ていたのか。
見たものも、聞いたものも、僕自身が気づかなかったものまで、すべて。
帳簿は、僕の目と耳が捉えたものを、一つも取りこぼさずに記録している。
それだけの力だ。
魔法でもなければ、剣でもない。【支配】に逆らう力なんて、どこにもない。
そして、もう一つ気づいてしまった。
この帳簿は、日本語で書かれている。
この世界で、日本語が読める人間は二人しかいない。
僕と――黒瀬だ。
たとえ帳簿を誰かに見せる方法があったとしても、母にも、洗濯女たちにも、この国の誰にも、これは読めない。ただの意味不明な落書きにしか見えないだろう。
証拠にはならない。
誰も、信じてはくれない。
女神の言ったとおりだった。前世と、何も変わらない。
僕は、帳簿を閉じようとした。
そのとき、ふと思った。
帳簿の始まりは、転生の瞬間だった。
なら、その前は?
*
意識を、帳簿の一番前へ向ける。
最初のページの、さらに前。
――ぱらり。
表紙の裏に、もう一枚、ページが隠れていた。
そこに書かれていたのは、たった数行。
あの日の、屋上の記録だった。
【記録】放課後、屋上。黒瀬蓮司、および同級生二名。
【記録】黒瀬蓮司:「なあ相沢。お前さ、先生にチクったろ」
【記録】フェンス留め金、破損。相沢湊および黒瀬蓮司、転落。
あの日のことだ。
忘れるはずもない。何度も夢に見た。
けれど、記録はそこで終わっていなかった。
黒瀬の台詞と、転落の記録の間に。
僕が一度も気づかなかった一行が、挟まっていた。
【記録】屋上出入口の扉、わずかに開いている。隙間に人影、一。
息が、止まった。
あのとき僕は、黒瀬の顔しか見ていなかった。フェンスに押しつけられて、殴られて、空を見上げて。扉のほうなんて、一度も振り返らなかった。
けれど、僕の目の端は、それを捉えていたのだ。
あの日、あの屋上には。
黒瀬と、取り巻きの二人と、僕のほかに。
もう一人、誰かがいた。




