プロローグ 僕がアイツの下僕になるまで
死ぬ瞬間というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
実際には、ただ空が近かっただけだ。
放課後の屋上。錆びたフェンスに背中を押しつけられて、僕――相沢湊は、黒瀬蓮司の顔を見上げていた。
「なあ相沢。お前さ、先生にチクったろ」
違う。言ってない。
そう答えるより先に、黒瀬の膝が僕の腹にめり込んだ。息が詰まる。後ろで取り巻きの二人が笑っている。いつもの光景だった。一年の春から数えて、もう何度目なのかも分からない。
黒瀬蓮司はクラスの人気者だ。サッカー部のエースで、成績も悪くない。先生には礼儀正しく、女子には優しい。そして僕にだけ、こういう顔をする。
「言ってないって顔してんな。じゃあなんで担任が俺に『何か困ってることないか』とか聞いてくんだよ」
知らない。本当に知らない。たぶん誰かが見ていたんだろう。見ていて、でも何もしなかった誰かが、ほんの少しだけ良心を痛めて、匿名で何かを書いたのかもしれない。
そんなこと、僕に分かるはずがない。
黒瀬が僕の胸倉を掴み、フェンスに叩きつけた。
ぎし、と。
聞いたことのない音がした。
背中の支えが、ふっと消えた。錆びた留め金が弾け飛ぶのが見えた。身体が傾く。夕焼けの空が視界いっぱいに広がる。
落ちる、と思った。
そして、黒瀬の手はまだ僕の制服を掴んだままだった。
「――は?」
それが、僕がこの世界で聞いた最後の声だった。
*
「はーい、お疲れさまでしたー」
気の抜けた声で、目が覚めた。
白い。
床も天井も壁もない、ただひたすら白い空間に、僕は立っていた。痛みはない。落ちた感覚も、地面にぶつかった記憶もない。
目の前には、事務机がひとつ。
そしてその向こうに、女の人が座っていた。
金色の髪が床まで流れ、背中には淡く光る輪が浮かんでいる。人間離れして美しい顔立ちなのに、手元では書類の束をぱらぱらとめくり、ときどき判子を押していた。
「えーと、死亡者二名。地球、日本、高校二年生。死因は転落死、と。はい、転生手続きに入りますねー」
死亡者、二名。
僕はゆっくり横を向いた。
黒瀬蓮司が、そこにいた。
呆然とした顔で、自分の両手を見下ろしている。僕と目が合うと、その顔が一瞬で歪んだ。
「……お前のせいかよ」
何か言い返そうとした。けれど黒瀬はもう僕を見ていなかった。机の向こうの女の人を見て、ぱっと表情を切り替えたのだ。
教室で先生に向けるのと同じ、あの爽やかな笑顔に。
「あの、もしかして女神様、ですか? うわ、すげえ……本物ってこんなに綺麗なんですね。一瞬、天国に来たのかと思いました」
女神の手が止まった。
「……あら」
「あ、すいません、いきなり失礼でしたよね。でもマジで、今まで見た誰よりも綺麗なんで。つい」
「あらあらあら」
女神は頬に手を当て、分かりやすく嬉しそうに笑った。
「最近の子は口が上手いのねえ。私、光の女神エルミナっていいます。はい、よろしくね、黒瀬くん」
それから彼女は、机の上に二枚の光る板を浮かべた。
「じゃあ説明しますね。転生特典は、生前に積んだ『徳ポイント』で交換できます。人望、影響力、他者への貢献なんかを総合して、こちらで採点済みです」
板に数字が浮かぶ。
黒瀬蓮司――三〇〇〇ポイント。
相沢湊――八〇ポイント。
「……え」
思わず声が出た。女神は二枚の板を見比べて、なるほどね、と頷く。
「黒瀬くんはすごいわね。人望、部活動の実績、教師からの評価、どれも高得点。相沢くんは……『他者への影響力』がほぼゼロなのよねえ。我慢強さは評価項目にないの。ごめんね?」
我慢強さは、評価項目にない。
その言葉が、妙にはっきりと耳に残った。
「それと黒瀬くんには、女神評価ボーナスで一〇〇〇ポイント追加しておきますね。礼儀正しい子は好きよ」
「マジっすか! ありがとうございます!」
黒瀬の板の数字が、四〇〇〇に跳ね上がった。
僕の、五十倍だった。
そこから先は、見ているしかなかった。
黒瀬は光る板をスクロールしながら、まるでゲームの課金画面みたいに特典を選んでいく。
「王族……第一王子で八〇〇? 安っ。じゃあこれと、スキル【支配】。あと【魔力増強】に【剣術の才能】。……女神様、この【カリスマ】と【容姿端麗】って、両方取ったら盛りすぎですかね?」
「ぜんぜん。黒瀬くんなら似合うわよ」
「じゃあ両方で」
ひとつ選ぶたびに、黒瀬の板の数字が減っていく。八〇〇。一五〇〇。五〇〇。僕の持ち点の何倍もの数字が、ためらいもなく消えていった。
「残り……五四〇か。けっこう余ったな」
黒瀬が、ちらりと僕を見た。
屋上で見たのと、同じ目だった。
「この『特定人物の所有権指定』って、こいつにも使えます?」
「あら、それ使う人はじめて見た。一〇〇ポイントね。同じ世界に転生するなら問題ないわよ」
一〇〇ポイント。
それが、僕の値段だった。
「あと記憶保持と、言語理解の完全版で……残り四〇。まあいいや、これ捨てます」
四〇ポイント。
黒瀬がいらないと言って捨てたそれは、僕の持ち点の、半分だった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
やっと声が出た。自分でも驚くほど掠れた声だった。
「所有権って、それ、奴隷ってことですよね? そんなの――」
「異議申し立てですね」
女神はにっこり笑って、新しい書類を一枚取り出した。
「異議申し立てには三〇〇ポイント必要です。相沢くんは八〇ポイントなので……はい、残念ですが受理できません」
ぽん、と判子が押された。
それで、終わりだった。
「じゃあ相沢くんも、残りのポイントで特典を選んでね。時間ないから手短にお願いしまーす」
光る板に並んだ一覧は、目が眩むほど長かった。けれど八〇ポイントで選べるものは、ほんの一握りしかない。
【剣術の才能】――三〇〇。
【魔力増強】――五〇〇。
【王族の家系に誕生】――八〇〇。
灰色に沈んだ項目の中から、僕は光っているものだけを拾っていった。
【前世の記憶保持】――一〇。
これは、迷わなかった。忘れたくなかった。黒瀬が何をしたのか。この女神が何をしたのか。
【言語理解(会話のみ)】――二〇。
言葉が分からなければ、何もできない。読み書きがつかないのは痛いけれど、ポイントが足りない。
残り、五〇。
次を探そうと一覧をめくったとき、横から舌打ちが聞こえた。
「おい、さっさとしろよ」
黒瀬が、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「どうせどれ選んでもおんなじだって。お前、俺の奴隷なんだからさ。俺のゲームが始まんねえだろ?」
「ほんとよねえ」
女神まで、机に頬杖をついてため息をついた。
「相沢くん、あと十秒ね。九、八――」
「え、ちょっと――」
焦って一覧をめくる。灰色、灰色、灰色。光っている項目の名前を読む暇もない。
「――三、二」
「ま、待って――」
「はい、決定ー」
ぽん、と判子の音がした。
判子が押される。
足元の白が、ほどけていく。
身体が沈む。意識が遠のく。
最後に聞こえたのは、黒瀬の笑い声だった。
「よかったなあ、相沢。向こうでも、仲良くしようぜ」
その暗闇の中で、何かが静かに開く気配がした。
――相沢湊、黒瀬蓮司の奴隷として転生する。
それが、僕の異世界生活の一ページ目だった。




