第8話 プロ試験の業
ボールは無情にも端の溝へと落ちていった、いわゆるガーターというやつだ。
こんなはずではなかったんだけど……。
「……豪快にガーターを出してしまいましたね」
私が平静を装って呟くと、彼は小さく吹き出した。
「怪異さん、それを言うなら『ガター』ですよ。ガーターだと下着になっちゃいます」
「……っ、知っています。わざとです」
動揺を誤魔化すように「ごほん」と咳払いをひとつして、今の失態を誤魔化した。
やがて、機械の奥を通ってゆっくりと手元に戻ってきた漆黒のボールを見つめる。
私はそのボールをラックから拾い上げ、両手で包み込むように持ちながら、背後の彼に向かって問いかけた。
「……あなたの想い人は、どんな人だったんですか?」
偉そうに解説してからガター、そして咳払いによる誤魔化し。
そんな不器用な一連の動作を見ていた彼は、張り詰めていた空気がすっかり抜けたように、ふっと楽しそうに微笑んだ。
それは今日初めて彼が見せた、過去の幻影に向けたものではない、目の前の現実に対する柔らかな笑顔だった。
彼はゆっくりとベンチから立ち上がると、私の隣へと歩み寄り、愛おしい記憶の蓋をそっと開くように、彼女についての話をぽつりぽつりと語り始めた。
「彼女は、そうですね……夢を追いかける俺を応援してくれた、唯一の人だったと思います。
……彼女の話をする前に、俺の話をしてもいいですか?彼女と俺とボウリングは、切っても切れない話なので」
そう話す彼に、私はゆっくり頷くと、彼はどこか懐かしむような穏やかな声で語り始めた。
「俺がボウリングにのめり込んだのは、高校の頃に始めたボウリング場でのアルバイトがきっかけでした。従業員割引で投げまくって、すっかり魅了されて……十六歳から、プロテストに挑み始めたんです」
「十六歳から……。それはまた、随分と早い決断だったんですね」
私が静かに相槌を打つと、彼は自嘲するように少しだけ目元を緩めた。
「ええ。だから親からは猛反対されましたし、最初の受験の後はそれこそめちゃくちゃに怒られました。
プロテストって、ただ投げるだけじゃないんです。お金の面でも、肉体の面でも……『生半可な人間を門前払いする結界』みたいなもので」
そこから彼が語ったプロの世界の現実は、私の想像を絶するほど泥臭く、過酷なものだった。
純粋な受験料だけで十万円。そこに一次・二次の実技テストを転戦するための十泊近いホテル代と交通費、激しいオイル変化に合わせて新調するボールや大量のテーピング代が重なる。
一回の受験につき、三十万から五十万円もの大金が一気に吹き飛ぶ。
「しかも、実技の内容が狂ってるんです。一次テストで一日15ゲームを四日連続。通過してもスコアはリセットされて、二次テストでまた別の会場で一日15ゲームを四日連続。計120ゲームです」
「……120ゲーム?男性のボールは……えっと、約15ポンド、およそ6.5?キロですよね。一ゲームに15球投げるとして……」
私は頭の中で数字を弾き出し、思わず眉をひそめた。
「7キロ近い鉄の塊を、約2000回以上も全力で振り回し続けるということですか」
「その通りです、よく知ってますね」と、彼は分厚いタコが刻まれた自分の右手を見つめた。
「三日目を過ぎる頃には指の皮が擦り切れて血が滲むんで、瞬間接着剤で無理やり皮膚を固めて投げてました。
おまけに一ゲームごとにレーンを移動するから、ボールが削り取った油のコンディションが毎回激変するんです。
さっきまで通用したコースが全く使い物にならない『油の迷宮』の中で、ミリ単位のコントロールを要求される。
……しかも、二日目の時点でアベレージ200を下回っていたら、三日目を迎える前にその場で即刻『足切り』されて失格です」
『油の迷宮』……。私には分からない概念だけれど、きっとそこがボウリングにとっての肝になるのだろう。
街のボウリング場で無双しているような猛者ばかりが集まって、なお八割がふるい落とされる世界。
不合格になれば、つぎ込んだ数十万円の大金は文字通り溝に消える……。
「……それはもうスポーツというより、合法的な人体破壊の通過儀礼ですね」
「本当に。初年度はそのキツさも知らずに、アベレージ200は取れていたので、アルバイト先にいたプロの方に、推薦をややねだるようにもらって挑んだのですが、案の定ボロボロで、二日目で足切りラインを落として、そのまま落とされました。
思えば、推薦を渋っていたのは、俺を思うからこそだったんだと思います、ただ、俺の話に根負けして、一度受けさせて現実を見せるという優しさもあったのかなと、今は思っています。
当時の俺はと言うと、そんな思いには気づかずにいて、……何十万もの大金をドブに捨てて、親には呆れられて、自分でも絶望してました。
……その時に俺を慰めてくれたのが、美琴……、幼馴染だった彼女だったんです」
彼は少しだけ照れくさそうに、くすんだ青色のボールの表面を指先でなぞった。
「思えば、あの時から付き合い始めたのかもしれません。それまでは、ただの幼馴染の延長だったんで。
俺はそれからもどうしてもプロになる夢を捨てられずに……その後も落ち続けて、俺が途中の足切りを回避して、最終日までまともに『投げ切る』ことができたのは三年目の受験からでした。
その時はまだ合格には届かなかったんですけど、最後まで投げ切ったことで、翌年の一次テスト免除の資格をもらえたんです。彼女は俺が投げ切れたことだけで、自分のことみたいに泣いて喜んでくれて」
彼はふっと息をつき、自席のベンチの『右側の空白』へと優しく視線を落とした。
「親からは、『大学三年になるまでにプロとして食っていける道筋が立たなかったら、きっぱり諦めて就職しろ』と釘を刺されていました。
一次免除を使って挑んだ最後の挑戦になる大学三年の時、俺はプレッシャーで押し潰されそうになっていて……でも、彼女が言ってくれたんです。
『もし落ちても、私が支えるから。あなたは夢を捨てないで』って」
彼の右手に刻まれた固い手は、常軌を逸した修練の痕跡であると同時に――
――彼女と共に地獄を戦い抜いた、決して消えない愛の証拠でもあったのだ。
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