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夢に潜る精神分析 〜喪服の少女は、あなたのトラウマと共鳴する〜  作者: R.D


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第9話 スランプ

「本当に……素敵な方だったんですね」


 私がぽつりとこぼしたその言葉は、静かなボウリング場に優しく吸い込まれていった。


 彼がどれほど美琴さんを愛し、そして美琴さんがどれほど彼を信じていたのか。その強固な結びつきが、言葉の端々から痛いほどに伝わってくる。


 その時、黒い手袋で覆われた私の右手が、脈打つように鋭い痛みを訴えた。


 ……きた。


 私は悟られまいと無意識に左手で右手を強く押さえ込みながら、小さく息を呑む。


 悪夢に潜るための条件なのか、私にはわからない。


 けれど、この痛みの先に、悪夢へと潜るための入り口がある。


 手袋の下にある火傷の痕が幻痛に襲われる。


 これは、彼の抱える途方もなく深い愛情と、それを不条理に喪ってしまった絶望の波が、私の奥底にある傷と『共鳴』し始めたサインなのだと、私は考えてる。


 そう、彼が私に向けて深く心を開いてくれたことで、私の意識と彼の深層心理を隔てていた壁が薄れ、二つの魂が波長を合わせようとしている。


 夢への扉を開くための、確かなリンクが繋がりかけている感覚。


 私が背負う決して消えない傷の痛みと、彼が抱える目に見えない心の幻肢痛。


 二つの痛みが重なり合った瞬間、私は確信した。


 今夢の中――トラウマの深淵へと潜る準備が、少しずつ進んでいると。


 ――痛みを堪え、私は静かに息を吐き出すと、ラックから自分の漆黒のボールを拾い上げた。


 手袋越しの疼きを悟られないよう、いつもより少しだけ慎重にレーンに立つ。


 深呼吸を一つ。そして、助走をつけてボールを放った。


 ボールはまたしても私の意図とは裏腹に、レーンの左側へと大きく逸れていく。


 けれど今度は無情なガターに落ちることなく、かろうじて左端のピン群を捉え、心地よい破裂音を立てて五本のピンを弾き飛ばした。


「……ふぅ」


 プロの彼から見れば、完璧な投球とは程遠い不格好な一投だろう。


 それでも、先ほどのガターからは確かな前進だった。


 私はゆっくりと振り返り、彼に向かって微笑みかけた。


「大丈夫です。私のように、一歩ずつ進めることが……あなたにはできているはずですから」


 そう言って、私は頭上にあるモニター――五本のピンが倒れたことを示すスコアボードをそっと指さした。


 絶望の淵で立ち止まっているように見えても、彼は今日、私に過去を語ってくれた。


 それは紛れもなく、彼自身が踏み出した確かな『一歩』なのだと、気づかせるように。


 「そうだといいんですけどね」


 彼はどこか寂しげな、けれど柔らかな愛想笑いを浮かべると、ラックから自分のボールを手に取り、再びアプローチへと向かった。


 大きく深呼吸をして、前を見据える。


 先ほどの重苦しい告白の空気など微塵も感じさせない、無駄を削ぎ落とした美しいフォーム。


 彼の指先から放たれたボールは、レーンの上を滑るように進み、寸分の狂いもなくピンの急所へと吸い込まれていく。


 小気味よい破裂音と共に、十本のピンが豪快に弾け飛んだ。


 ストライク。それは彼が血の滲むような努力の末に掴み取り、彼女と共に戦い抜いてきたプロボウラーとしての確かな証明なのだろう。


 ゆっくりと振り返った彼は、私の方を見て、スッとその右手を差し出してきた。


 ストライクの後の、ハイタッチの誘い。


 分厚いタコが刻まれたその大きな掌は、過去ではなく、未来に生きるために、私の手を取ろうという意思を、感じた気がした。


 私は、共鳴による微かな痛みが残る右手を迷わず振り上げ、差し出された彼の手を思い切り叩いた。


 私が痛みを隠してにこやかに笑ってみせると、彼もつられたように、今日一番の自然な笑顔で微笑み返してくれた。


「さすがプロですね」


 私がそう話しかけてみると、彼は少し照れくさそうに視線を落とし、先ほどハイタッチを交わした自分の右手を見つめた。


「ありがとうございます。……でも、今日はたまたま調子がいいみたいで」


 どこか自嘲するような響きが混じった声色で、彼は再び、静かに心の内を吐露した。


「彼女が亡くなってから……俺、ずっとスランプだったんです」


「……何があったんですか?」


 私が静かに問いかけると、彼の顔から先ほどの穏やかな笑顔がスッと消え去った。


 彼は手元の漆黒のボールをじっと見つめたまま、絞り出すような声で言った。


「彼女が亡くなった理由は……俺なんです」


 その言葉は、ピンの弾ける賑やかなフロアの音を切り裂いて、私の耳に重く響いた。


「一年前、彼女と旅行に行った帰り道でした。俺が運転する車の対向車線を走っていたトラックが、突然コントロールを失ってこちらに突っ込んできたんです。原因はブレーキの故障でした」


 彼の分厚い手が、微かに震え始める。


「俺は……とっさにハンドルを切りました。でも、避けきれなかった。トラックは、助手席側に激突しました」


 助手席。それは、彼女が座っていた場所。


 そして今、彼が頑なに空け続けている『右側』の空間。


「俺は奇跡的に、ほとんど無傷でした。でも、助手席にいた美琴は……重傷を負って、そのまま……」


 彼はそこまで言うと一度言葉を区切り、ひどく乾いた息を吐いた。


「誰のせいでもない、避けられない事故だったと警察も言いました。俺の親も、彼女のご両親も、誰も俺を責めなかった。


『あなたは自分を責めないで、生きなさい』って、泣きながら俺を気遣ってくれたんです。……でも、それが余計に苦しかった」


 誰も責めてくれない。だからこそ、彼は自分自身を永遠に罰し続けている。


「あの日からずっと、悪夢を見るようになりました。顔のない何かが俺を追い詰める夢。……そして、ボウリングのボールを握っても、指先が凍りついたように動かなくなってしまった。俺の時間は、あの日からずっと止まったままなんです」


 彼が抱えていたスランプの正体。


 それは技術的な不調などではない。彼女だけを犠牲にして生き残ってしまったという、深く暗い『生存者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)』だった。

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