第10話 残酷な残光
「……あなたは、大きな勘違いをしています」
静寂を破るように、私はできるだけ感情を排した、平坦な声で告げた。
「え……?」
彼は顔を上げ、すがるような、戸惑うような目で私を見つめる。
「夢の中であなたを追い詰め、罰しようとする『顔のない何か』それは、美琴さんの幽霊でも、呪いでもありません。……他でもない、あなた自身です」
「俺、自身……?」
「フロイトの精神分析において、人間の心には『超自我』と呼ばれる無意識の裁判官が存在するとされています」
私は彼から目を逸らさず、言葉を紡ぐ。
「警察もご家族も、誰もあなたを責めなかった。だからこそ、行き場を失ったあなたの強い罪悪感が『超自我』を暴走させているんです。
自分が許されないための理由を、無意識のうちに求めている。あなたが悪夢で見ているのは、あなた自身が作り出した、あなたを罰するための処罰者、というものです」
誰にも責められなかったからこそ、自分を責めてしまう、残酷な真実。
それを突きつけられた彼は、息を呑み、目を見開いたまま言葉を失った。
痛いところを突かれた防衛本能からか、彼の中で混乱と、微かな反発が渦巻いているのがわかる。
無理もない。ずっと彼女に呪われている、あるいは恨まれている、と思い込むことで、彼はある意味で彼女との繋がりを保ち、自分を罰することで贖罪しようとしていたのだから。
私は彼が何か言い返す前に、ラックから自分の漆黒のボールを再び拾い上げた。
「……なんて、少し理屈っぽくなってしまいましたね」
私はボールを構え、呆然とする彼に視線を戻して少しだけ口角を上げた。
「まだボウリングの最中ですよね?」
そのままゆっくりと助走をつけて、レーンへとボールを放つ。
放たれた漆黒の軌道は、やはりプロの彼から見れば不格好極まりないものだった。
ボールはふらつきながら進み、パァン、と軽い音を立てて右側の三本のピンだけを倒した。
スコアボードに、無機質な『3』の数字が刻まれる。
ストライクには程遠い。けれど、この格好悪さも今の私の等身大なのだ。
私はラックに戻ってくるボールを待ちながら、背中越しに彼へと言葉を投げかけた。
「こんなに頭と心を使ったんですから、このゲームが終わったら、どこか、美味しいご飯が食べられる場所に案内してくださいね。……エスコートは、男性の役目ですよ」
悪夢という深淵に潜る前に、まずは彼に、温かいものを食べるという『生きている人間の営み』を思い出させる必要があった。
機械の奥からゆっくりと戻ってきた漆黒のボールを拾い上げ、私は再びレーンに向き直ろうとした。
その時。
背後の彼は、私が突きつけた残酷な真実をなんとか咀嚼し、重い何かを喉の奥へと飲み込むように、一つ大きく息を吐いた。
そして、纏っていた沈鬱な空気を自ら振り払うように、どこか気さくな声色で話しかけてきたのだ。
「……なら、まずはボウリングの『エスコート』をさせてもらっても?」
「エスコート、ですか?」
私が目を瞬かせると、彼は静かに歩み寄り、私のすぐ隣に立った。
「少し、失礼しますね」
短い断りの後、彼の大きな手が私の腕や腰のあたりにそっと添えられる。
それは決して不快なものではなく、まるで自転車の補助輪のように、私の歪なフォームを優しく、繊細に正しい位置へと導いてくれる心地よいサポートだった。
「もう少し肩の力を抜いて。視線はピンじゃなく、あの手前の三角の印を見て……そう、そのまま」
彼の手のひらから伝わる確かな熱と、淀みない誘導。
きっと彼は、仕事としてこういったこともしてきたのだろう。手つきに迷いは感じなかった。
私は彼に身を委ねるようにして、教えられた通りに左腕を振り抜き、ボールをリリースする。
今までで一番きれいな音を立ててボールがレーンを転がっていく。
しかし、軌道は意図したよりもやや左へと逸れ、四本のピンを倒すに留まった。
「あ……」
私が少し残念な声を漏らすと、後ろから「しまった」という彼の声が聞こえた。
「すいません。怪異さん、左利きでしたね。……左利きはどうしても右に逸れることが多いから、少し左に寄せるように促しすぎたみたいです」
彼は申し訳なさそうに頭を掻きながら、プロボウラーらしからぬ自身の初歩的なミスを恥じるように苦笑した。
それからの一ゲームは、驚くほどあっという間に過ぎていった。
深いトラウマを覗き込んだ直後だというのに、私たちは他愛のない雑談を交わしながら、交互にレーンに立ち続けた。
私が不格好にボールを転がしては数本のピンを倒し、彼がそのあとに流れるような美しいフォームで完璧なストライクやスペアを決める。
何か特別なアドバイスがあるわけでもなく、ただボールの軌道やピンの倒れ方に一喜一憂するだけの、穏やかな時間。
やがて、頭上のモニターに『GAME OVER』の文字が点滅した。
最終的なスコアボードには、私の欄に『62』というささやかな数字が。
そして彼の欄には『247』――七つのストライクマーク『X』と、残りをすべてカバーしたスペアマーク『/』がずらりと並んでいた。
「……やっぱり、プロってすごいですね」
圧倒的な実力差を見せつけるその数字の羅列を見上げて、私は素直な感嘆の息を漏らした。
いくらスランプだと言っても、素人から見れば異次元の領域だ。
「ここのボウリングは、ハウスボールの状態が良かったので、レーンも整備が行き届いていて、投げやすかっただけですよ」
彼はそう謙遜をするけれど、画面に刻まれた点数は、彼がどれほどの修練を積んできたのかが痛いほどに伝わってくる。
私は、振り返って尋ねた。
「どうですか?少しは気分転換になりましたか?」
私の問いかけに、彼はボールをバッグにしまいながら、今日一番の穏やかな表情を見せた。
「ええ。……少なくとも、昨日までの自分よりは、ずっと気分がいいですよ」




