第6話 2人の聖域
パァン、という乾いた音が空気に溶けて消えた後。
彼は、私の左手とぶつかり合った自身の右手を、呆然とした面持ちで見つめていた。
じんわりと残る痺れと、生きた人間の体温。
それを確かめるように何度か手のひらを握り直すと、やがてふっと憑き物が落ちたような顔で、私に視線を向けた。
「……怪異さん、君の番だよ」
その声には先ほどの絶望はなく、ほんの微かな、不器用な穏やかさが混じっていた。
「そうですね」
私は短く応え、ボールラックから喪服と同じ漆黒のボールを拾い上げる。
レーンに立ち、利き手である左手でボールの重みを感じながら、見様見真似のフォームで構えを作った。
その瞬間、不意に遠い日の記憶が脳裏をよぎる。
昔、お父さんが何度かボウリングに連れてきてくれたことがあった。
確か『手前のピンと二番目のピンの間を狙うといい』と、笑いながら教えてくれたはずだ。
炎に包まれる前のあの頃のことは、もうほとんど覚えていない。
けれど、ただ無邪気に『楽しかった』という感覚だけは、確かな輪郭を持って蘇ってくる。
……私の中にも、まだこんな感情があったんだ。
焼け焦げて灰になってしまったと思っていた胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
「ふぅ……」
一呼吸置いて、記憶の中の父の教えをなぞるように、思い切りボールを投球する。
――完璧。
手応えは十分だった。ボールは美しい軌道を描いて、ピンの中心へ吸い込まれていく……はずだった。
しかし、無情にも私のボールはレーンの左端へと逸れていき、一番奥の左のピンを少しだけ掠め、辛うじて一本だけを倒して奥へと消えていった。
コロン、という情けない音がレーンに響き渡る。
完璧な軌道を思い描いていた私のボールは、機械の奥へと吸い込まれ、やがて地下を通ってゆっくりと手元へ戻ってくる漆黒のボールを、ただ黙って見つめていた。
「……少し、フォームが歪……ですね」
不意に、後ろから声が降ってきた。
振り返ると、そこには悪夢にうなされて絶望の底にいたはずの依頼者が立っている。
「え?」
怪異らしからぬ間の抜けた声を漏らした私から、彼は気まずそうにスッと視線を逸らした。
そして、少し顔を伏せるようにして、申し訳なさそうに頭を掻く。
「その、すいません。実は俺……一応だけど、プロボウラーですから」
――なるほど。
先ほど彼が見せた、無駄な力が一切入っていない、あの百戦錬磨のような美しい投球。
まさかプロの選手だったとは。
「プロ、ですか……」
呟くように、私は言葉をこぼした。
完全に予想外の職業だった。
プロのスポーツ選手といえば、もっと煌びやかで華やかな世界で生きているものだとばかり思っていたからだ。
私の顔に浮かんだ驚きを読み取ったのか、彼は慌てたように訂正の言葉を続ける。
「あ、いや……プロと言っても、所属しているボウリング場のスタッフとして働いているようなもので。多分ですけど、怪異さんが想像しているような華やかな生活ではないですよ」
少しだけ自嘲するような笑みを浮かべ、彼は自席のベンチ、その『右側の空白』へ視線を落としながら語り始めた。
「普段は一般の社員さんやアルバイトさんと同じように働きながら、お客さんにレッスンをしたり、ボールの穴あけ作業をしたり……。
ボウリング場の営業が終わってから、深夜、俺たちプロは自分の練習をさせてもらうんです」
深夜、誰もいなくなった静かなレーン。
ピンの弾ける乾いた音だけが響くその孤独な空間で、彼はひたすらにボールを投げ続けていたのだろう。
「……深夜の練習中、いつも俺の後ろの席で、彼女が見てくれていて。俺が投げるのを、ずっと……」
そこまで言って、彼はふっと言葉を詰まらせた。
彼にとってボウリング場は、ただの娯楽施設ではない。
日常の職場であり、そして何より、亡き恋人との記憶が最も色濃く、残酷なまでに焼き付いている『聖域』だったのだ。




